高校の野球部。夏休みのグラウンドに一年生の部員がいた。
名は、
身体は大きく、中学では四番だった。
何の気なしに高校も野球部に入ったが、まったく練習に興味がない。
そういえば中学時代も身体が大きいだけで熱心な選手ではなかった。
蝉の鳴き声がする。
ちっとも涼しくない日の水しぶきのように、どこか清らかな音色だ。
「羽田、またそがいなところで涼んどるんか?」
「結衣ちゃん、アイス買うて来てよ。」
「ふざけるな、ばかにしんさんな」
羽田と結衣は、グラウンドの隅、体育館わきの室外トイレの前で、よく出くわす。
「ここなら球も飛んでこんね。」
結衣がにかっと笑って、三段ある階段に座り込む。
「ほうじゃのう。」
羽田が嬉しそうに言う。
しばしの沈黙。
結衣は、少しゾクっとしたので、言った。
「エースの青柳先輩はカッコええね、凛々しゅうて素敵じゃ。」
羽田は黙ったままだったが、またしばらく沈黙してから言った。
「結衣ちゃん、ギターを弾いたらええよ、ギターをいっぱい練習したら青柳先輩が振り返ってくれるよ。」
結衣は四月に軽音楽部に入部していた。全く練習しないが歌は好きだった。
結衣は苦笑いをして、黙って頷くと、文化部の部室小屋に消えて行った。
結衣には友達が数人いた。クラスでは少し浮いていたが輪には入れた。
羽田は身体が大きいが、自分にも他人にもどこか甘いので好かれていた。
軽音楽部の部室で、扇風機が空回りする音に、幾ばくかギターの音が混ざりあうのをいいことに、結衣はつぶやいた。
「ひとりもの同士は嫌じゃ、さびしいけぇこれあげるはごめんだ。」
結衣は羽田が好きだった。
「なにをしとりゃあ羽田がどがぁでもよう思える。」
羽田はと言うと、バレー部にお気に入りがいた。
お気に入りだと言っても、声をかけもしない。
ただ彼女のスパイクもブロックも、たくさん練習した選手のものであることはよくわかっていた。
勤勉な子だと思って好きだった。
サボリ魔の自分とは不釣り合いだとわきまえていた。
軽音楽部の部室で、結衣はたくさんの音の中で、自分のクラシックギターを少し奏でてみた。
「何かが上達するやつなんて大嫌いじゃ。練習するやつは練習しても上達せんやつを馬鹿にしとる。羽田はでかいだけで威張りもせん。うちゃアイスじゃない。」
夏休みのある日、相変わらずサボっている羽田は、先輩に呼ばれた。
主将のサード
小川はサボり魔の羽田のこともよく把握していた。
小川は言った。
「打撃練習をやる。やってみんか。羽田は打者が向いとる。走るやつ、打つやつ、守るやつ、全員揃うてチームじゃ。守るやつはどこを守るかまで決める。守るやつらでレギュラーが決まる。でも守るやつらだけがチームじゃないけぇな。楽しいでぇ。」
羽田は、喜んだ。
喜んで、打撃練習に加わった。
久しぶりに、腰を回転させて、腰の体重にボールを乗せるように打った。
ボールが軽く飛んでいくと、羽田は自然と笑みがこぼれた。
しばらくして休憩になると、羽田は、珍しく休憩時間を、部員の輪の中で過ごした。
エース青柳の前にも関わらず、堂々とする羽田は、勢い余って、言った。
「うちのチームは全国大会なんて行けっこんけぇ、練習もきつうない、楽しい。」
この言葉には一同が動揺した。羽田の人となりは知っていたから、危ういとまでは思わなかった。
大半の者がこう思った。
久しぶりに混ざって嬉しいのだろう。次の守備練習にも付き合わせれば、そんなことは言えなくなるだろう。
しかし青柳は、すくっと立ち上がると、険しい口調で言った。
「羽田、ポジションはどこじゃ?」
「ファーストでがんす。」
羽田は、青柳の剣幕に負けず、大してうろたえることもなく答えた。
「その前はどこじゃ?」
「ピッチャーでがんす。」
周りの者は、険しい口調の青柳に、そうとも思わず平気な羽田へ、ここで初めて、訝しげな顔をした。
「一緒にブルペンに来い。
青柳は、全く練習しない羽田をブルペンに連れて行こうと言う。
ブルペンとは、ピッチャーの投球練習場であり、およそ羽田のようなサボり魔が上がり込んでスパイクの跡を残していいものではない。
正捕手の糸田と控えの倉持の二人が呼ばれるということは、青柳、羽田、糸田、倉持で投球練習をするということなのだろう。
なぜ。
その場で疑問が沸き上がるより、しかし主将の小川が早かった。
「休憩は終わりだ。実戦守備をする。ピッチャーは
それを聴いた一同が声を合わせて「はい!」と返事をすると、休憩は終了した。
ブルペンで青柳は羽田に言った。
「わしが投げたら投げろ。もたもたしんさんな。」
青柳が一球投げるたびに羽田も一球投げた。
羽田は、青柳の隣でふざけたことはできないと思ったものだから、中学の途中までやっていたように懸命に投げたのだ。
しかし20球で青柳の真似などできなくなった。
青柳は、思ったよりずっと早くガタが来た羽田に、苛立ちを隠せなかった。
100球投げたあたりで、「どこが疲れてきた?」と聞いてやろうと思ったものだから、このまま無言でくたばるまで投げさせようと、頭を切り替えた。
しかし羽田には異様な根性があった。ハエが止まりそうな緩い球を、投球フォームこそ無礼のないようにと、80球まで投げた。ヘトヘトの羽田が81球目を投げる前に、先に青柳が82球目を投げた。
その後も青柳が一人で投げ続けた。83球目、84球目、85球目。
羽田と組んだ捕手の倉持は、立ち上がらず、「へい!へいへい!」とキャッチャーミットを構えるのをやめなかった。
青柳は100球を投げ終えると、投げるのを中断した。青柳は無言で、疲れ果てた羽田を見ていた。
捕手の倉持が、仕方なく、羽田のもとに駆け寄ると、言った。
「どしたん?」
「ああ、すまん、倉持さん、疲れてしもうた。」
すっかり、少年のように弱弱しい羽田に、倉持は青柳の顔を見て、言葉を促した。
青柳は言った。
「これくらい練習しとるのじゃ。あがいな発言を平気じゃるようではつまらん大人になる。同じ高校の同じ部活の先輩として、身内を守ったつもりじゃ。」
すると羽田は言った。
「わかる。ピッチャーをやらしてくれるわけじゃないこたぁわかる。」
倉持は、察して言った。
「毎日走れ。走るんならできるじゃろう。野球がさえんくせに野球部におるなぁなんでじゃなんてわし達はゆわん。身内にゆわんけぇなそがいなこたぁ。」
羽田は、この日先輩達に諭されてから、本当にひたすら走っていた。
夏休みも終わるころ、羽田はようやくお気に入りの子と話しをすることができた。
バレー部の
体育館から出てきた女子たちの群れと、偶然、ばったり遭遇した羽田は、そのまま、その中にいる清水をボケっと見て突っ立っていた。
他の女子より頭一つ背が高い清水が、同じバレー部の部員の群れをかきわけて、真っすぐ話しかけてきた。
「いつも見よるな。なにか用事でもあるのか。」
羽田は、全く気が付いていないが、いつも母親を見るような目で見てしまっていた。
すぐに視線を切っていたつもりだったが、いつも、実は2秒くらい目と目が合っていた。
この日はいつもの倍くらい見つめてしまった。
清水は、女子達の間ではリーダーのような役目になることが多かったものだから、勇んで、どういうつもりなんだと詰め寄った。
振り切られた女子達は、別段普通だった。
清水のことだから、そういう手合いの男子は、まあ、いるだろうと思った様子だ。
「失礼のないようにとのぼせあがっとりまして。」
羽田は、少し考えてからそう言った。
清水は、顔に出ていないと思いたかったが、少し赤くなってしまった。
中学の途中までピッチャーだった羽田は、自分自身何度か経験のある、打者の苦い快音をここで思い出した。
清水が強い口調で言った。
「野球部は死ぬるほど真面目な人たちじゃけぇ平気でがんす。」
プイっと首だけ捻られてしまい、すぐに背中を向けられてしまった。
羽田は、あの日先輩達に諭されてから、ひたすら走っていた。
ただ、この一幕は小川に叱られた。
「他の部活と接触があるようなら、信用して走り込みをやらせられん。」
そもそもサボり魔の羽田だったが、小川は、ここぞとばかりに忠告して言った。
小川は部室小屋から持ってきた重いマスコットバットを渡すと、羽田に、その場で100回素振りをやらせた。
最後に小川は言った。
「持って走れ。走り込みの途中で足が止まったら、マスコットバットを素振りしていろ。野球部が誤解されんようにな。」
羽田は、夏休みの残りの期間、本当に言われたとおりに、やっていた。
ただ、なんの念力だろうか、グラウンドの隅、体育館わきの室外トイレの前で、頻繁に小休止をしては、マスコットバットを素振りしていた。
サボり魔だったころの憩いの場が、集中できるからだと言えば、その通りだ。
しかし、素振りをしていると必ずやってくる結衣の言い草が心地よかった。
「試合に出るのを諦めるまで見届けちゃるけぇのぉ。」
結衣は毎回テープレコーダーのようにそう言った。
羽田も、毎回テープレコーダーのように返事をした。
「さえん大人になりとうないだけじゃ。」
毎回二人の会話はそれきりだったが、ある日、結衣は意を決して言った。
「羽田、われは諭したらよいのか。」
羽田は、素振りをしていたから、自然と声を張り上げて、振り向かずに言った。
「なんか?」
つっけんどんにされた気がした結衣は、ムッとしてしまい、声を張り上げて言い返した。
「うちが来る思うて毎日ここで素振りをするんなら…」
カツーン
結衣が言い終わるより先に、羽田が、素振りのマスコットバットを、ヘッドを下にして軽く地面に突き立てた。
誤って落としたわけではない。
他の部活の声が遠くに聴こえては、こだましていくグラウンドの隅で、強い太陽に照らされる二人。
蝉の鳴く静けさの中で、羽田は、口を噤んだままの結衣に言った。
「軟派者じゃない。こりゃあ軟派者じゃないのぉ。」
「じゃあうちも違う。よろしゅう励むように。」
結衣は思った。
思ったよりずっと見どころのある羽田が、ただ真っ当な大人になりたいだけの姿を見て、生まれて初めて感じる勇み足のない感情が結衣の自分自身の中でコツリと居場所をつくって陣取ったことが、とても心強いと思った。
9月になって、二学期が始まった。
羽田と結衣は、以前よりよく話した。
自然とそうなるのを憚らずに、何より手と手が近かった、本人たちは気がついていないが、二人の手と手が空間の近くにある。
ある日、クラスメイトの
「夏休みから、付き合い始めたんよね?」
結衣は、驚いた。
驚く結衣に向かって、河野はさらにまくし立てた。
「周りも気ぃ遣うとるみたいだけど、気にせんでええよ。結衣が羽田の近うをうろうろするのみんな知っとったし、なんじゃろう羽田も男前じゃのぉ。」
河野に向かって、結衣は言った。
「まだまだじゃ。」
河野は、そんな反応も範疇にあったのか、全く驚きもせずに、さらに返した。
「あれま、そがいな感じか。結衣のこと振り向いたのか思うた。われらよう知り合うてからという柄でもないじゃろう。なんじゃろいろきけるとおもって親切にしとったんじゃが。」
すると河野の友達の
「そうよね、羽田のやついつも一人で夜遅う帰宅しとるもんね。野球部の
結衣は河野と後藤に言った。
「うちの身に何が起きてもわれら面白いんじゃろうな。」
後藤は言った。
「羽田はどつきゃあ転ぶ思う。」
河野は言った。
「羽田は面白いけぇ見よるに限る。みんなそう思うて期待しとる。」
新学期に入ってから、羽田は、野球部の練習にも正しく顔を出すようになっていた。
夕暮れから夜遅くまで、自主練で素振りをしてから帰宅していた。
羽田は、主将の小川の「お前は打者だ。」という言葉と、エース青柳の「身内」という言葉に胸を打たれていた。
味噌っかすのような扱いでも、チームの一員だと信じられることが、ネジを巻きなおしたように頑なになっていたのだ。
夕暮れに、同じ一年の関原が、羽田に言った。
「罵声も浴びせられんくらい出鱈目なやつじゃったけど、一年の輪にそろそろ入れちゃろうか思う。来週あたり適当に飯屋にでも行こう。一食くらい余分に入るじゃろうその図体なら。」
羽田は、関原に言った。
「野球部の練習に、四月についていけんようなって以来、関原や他の部員が少しいびせかった。不甲斐ないものだが、また頑張りたい。」
関原は言った。
「四月は皆ライバルじゃった。ピリピリ、カリカリしとったな。誰がどのポジションやるか、実力に甲乙つけあって、けん制し合うて。しかしもうそんなんも終わった。わしが一年生のまとめ役じゃけぇ、不甲斐のうても仲間は仲間じゃ。」
羽田は、ここで、よっぽど関原には打ち明けたかったが、言わなかった。
野球にも色々あるもので、エースピッチャーだけが脚光浴びて、一番カッコいいとか、そういう競技でも全くないのだと、最近わかったと、打ち明けたかった。言わなかったのは、それではまるで自分が子どものようだと思ったからだ。
自主練は日が沈むまで、羽田は素振りをした。
素振りをしながら思ったのは、結衣のことだった。
結衣は自分より背が低い。
顎に米粒がついたときの目線の先に、それくらいの視点で、最近やけに結衣が、近くにいる。
男らしくなっていったのを自分でも感じていた。
カラーン
羽田は、素振りのマスコットバットを落としてしまった。
右手の握力が急になくなった、やりすぎたか。
「カッコ悪いのぉ。一人だけ何考えとるんじゃろう。関原と食べる飯のことを考えたほうがなんぼかマシじゃのぉ。」
羽田は自主練を終え、ユニフォームを着替えて、夏服の学生服姿で帰った。
羽田は、体育館わきのトイレの横を、通った。
羽田は人影に気づいた。
「なんじゃろうな、亡霊でもおるみたいに。いま帰るところじゃ。」
結衣が、待ち伏せしていた。
昼休みに河野と後藤に言われたのだった。
携帯電話の連絡先くらい交換しないとダメだと言われて真に受けていた。
結衣は、下を向いたまま、言った。
そんなことより結衣は、羽田について知りたいことがあったのだった。
「われは上達しとうて練習する側の人間なのか?」
「チームの一員になった、なれた。それなら練習も上達もしていかにゃあつまらん。」
「上達するような人間は嫌いじゃ。」
「ギター弾いたらええじゃないか。上手になったらみんなが聴きに来て気持ちええのじゃないのか?」
「なんじゃ、なんで変わってしもうたんじゃ、気持ち悪いわ。」
「・・・じゃあわしが聴いちゃるけぇ。」
羽田は、ポロっと言った。言った後でハッとした。
結衣は、ついカッとなって、持っていた携帯電話を振り上げた。
「なんでそんなことを平気で言うのか」と思った。思ったが言えず。
そのまま羽田の顔に携帯電話を投げつけてやろうかと思った。
しかし肝心の羽田の顔が全く動じていなかった。
「・・・なんでわしゃこがいな偉うなったんじゃろうな。」
そう言うと、羽田は、自分の左手がグンと伸びて、2,3メートルも伸びて、結衣の振り上げた右手をギュッと掴んだ気がしたので、さらに言った。
「結衣ちゃん、わしゃガールフレンドがおったことない。」
羽田は、こんなことを言う自分を「情けない」とは思わなかったし、いままで通りである自分に安堵さえあった。
ダメならダメで、伝わってほしいと思ったものが伝わるなら、それはそれで偽りない自分であると、後から後から、ジワリジワリと自分を肯定した。
結衣は、羽田が何も変わっていない「でぐのぼう」であること以上に、羽田が今二人でいる場所を大切にしていることを、理解してあげることができた。
羽田こそ、結衣が見てくれていると思って頑張ったのだから。
結衣にも見えたのだ、運よく校庭のライトに照らされた羽田のボロボロの右手が、言葉の情けなさとは裏腹のものが、しっかりと目で見抜かれたのだった。
「真面目なやつのほうがええにきまっとるけぇ、今日は一緒に歩いて帰ろう、ずっとこがいな日がくると願うとった、ギターも本当は聴いてほしい、うもうなれるまで聴いてくれるなら、嬉しい。」
結衣は、顔がボタボタとただれ落ちてはいないかと、思った。
顔じゅうの熱が、心臓を焼き尽くすように、のどに降りてきたのを飲み込むように、言葉を詰まらせて、羽田とは逆方向に走った。
しかし、すぐに引き返して羽田の方に走り寄った。
羽田の目の前でうなだれて、顔を見ずに言った。
「いやらしいこたぁ期待しんさんなや。」
羽田は、向かい合った結衣の左肩に、右手を添えて、「承知した」と言った。
結衣は、その時の羽田の右手の感触を、いつまでも覚えていることになる。