4月13日、水曜日。
午後7時30分。とある道。
学校を出た後、てっきり例の近道を探して歩き回るものだと思っていたら、サトル先輩は真っ直ぐにあの道へとたどり着いた。そして言ったのだ、「やっぱり」と。どういうことですかと問いただすと、
「この道、この辺りではちょっと有名なんですよ。ほら、両側とも民家じゃないですか。この道自体はこっちのレンガ塀のお宅の土地らしいんですけど、なんでも偏屈なじいさんが住んでるとかで。隣のお宅とトラブルがあって、先に向こうがフェンス立てたら負けじとレンガ塀立てたけど、真横だと仲よさそうに見えるから嫌だとか言って微妙にあいだ開けたんですよ」
「はあ……。なんか一周回って仲よさそうですね、それ」
「ふふ、ね。で、そしたらただの道にしか見えなくなって、そんな事情は知らない人たちの通りぬけが頻発したんですよ。それにもブチギレたみたいで。僕が中学の時にも先生から注意されたことあるんですよ、あそこは私有地だから通りぬけ禁止ですって。この辺りの学校全部にクレームいれたみたいで」
「ヘンな人もいるもんですね」
「ええ、だから真っ先にここが浮かびました。いつからこの看板があるのか知らないけど、今朝の地震で傾いたんでしょう。アカリさんたちはその横を通って怪我をしたと」
サトルに言われパシャパシャと写真を撮りながら相槌を打つ。自分はマンションに住んでいるからなんとなく戸建てに憧れがあるけれど、戸建ては戸建てで大変そうだ。
「隣人ガチャか……」
「はい?」
つい口から出た言葉に先輩が首を捻る。この人ソシャゲとかやらなさそうだもんなーと思っていると、
「なにやっとんじゃガキどもがぁっ!!」
突如大声が響きカイはビクリと肩を震わせた。危うく取り落としそうになったスマホをなんとか握りしめる。
声の方を振り返ると、脚立に乗りレンガ塀の上からこちらを睨みつけるおじいさんと目が合った。肌は血色が悪く頬もこけているのに、その眼は不気味なほどに輝いている。どうやら噂の偏屈じいさんに見つかってしまったようだ。
頭の上から再び唾とともに怒声が飛んでくる。
「ここは通り抜け禁止だっ。看板の文字も読めんのかこの馬鹿者が!! あ!? お前仁吾のとこのガキだな!?」
「行きましょカイくん」
思わず固まってしまった手をサトルに引かれ、ふたりは足早にその場を離れた。その背に向かってなおも罵声が投げかけられる。
「
(テングウジ? サトル先輩は|問間《トイマ》だよな? ジンゴ先輩と勘違いしてるのかな?)
自分の腕を掴む先輩の顔を見る。あのおじいさんボケてるんですかね、と言おうとして。
「チッ、クソジジイが……。ブン殴って黙らせてやろうか……」
一瞬、聞き間違いかと思った。
敬語。冷静。あまり変わらない表情。カイが抱いていた印象を、いっぺんにひっくり返すみたいに。
後輩の自分にも慇懃だった言葉遣いをかなぐり捨てて。
その台詞の一音一音に怒気を滲ませて。
大きな眼鏡をしててもわかるくらいに、眉間に皺を寄せて口の端を歪めて。
間違いなく、サトルはそう言った。
あまりの変貌ぶりに言葉を失い、代わりにジンゴ先輩が言っていたことを思い出す。
(元ヤン、ガチじゃん)
そう思った途端、掴まれた力が強くなり腕を捻り上げられる。
「イタ! サトル先輩、痛い、です……」
「カイくん」
さっきの台詞も表情も、全部夢とか幻だったみたいに。
自分の名を呼ぶ声はいつもと変わらない。その表情もいつもと変わらない。計算したみたいな、完璧な笑顔で。
「いま僕が言ったことは忘れてください。絶対に学校で言いふらしたりしないように」
口元に指を一本立てる彼にコクコクと頷くことしかできない。サトルは満足そうにひとつ息を吐くと、
「ではまた明日。あ、あと。元ヤンとかじゃないですからね?」
それでは。そう言って自転車にまたがり去って行く。
カイは掴まれていた腕をさすり、その背をぼうっと眺めていた。
※ ※ ※
「おそらく、昨日この抜け道を通ったのはあの3人だけではないでしょう。男子も女子も、一定数この道を通っているはずです。けれどこの看板の角の高さは膝上です。右側は傾いて塞がれていますから、みんな左側を通って、その高さまでスカートを折っていて足が剝き出しだった人だけが怪我をした。それで同じような位置に同じような傷ができた。そういうことだと思いますよ」
顎に手を当て、和泉はサトルの話をじっと聞いていた。彼の話が終わり、じとりとした静寂が数秒続く。その無音に紛れるように、
「なるほどね……」
彼女は小さく呟いた。
「納得していただけましたか? 他にも質問があれば、どうぞ」
「いえ、いいわ。このプリント、もらっていいかしら。もともと私有地なわけだし、明日の職員会議で担任の先生方から注意してもらえるよう頼んでみるわ」
「もちろんです。僕も同じことを頼もうと思ってました。よろしくお願いします」
先輩が頭を下げるのを見て慌ててカイも頭を下げる。和泉はそんなふたりを見て笑みをこぼした。それから大きく伸びをする。
「結局、私の取り越し苦労だったみたいね。自分でやったのじゃなくてよかったけれど。あなたたちにもいらない心配かけちゃって、ごめんなさいね」
「いいっていいって。困ったことがあったらまた来てよ、イズミちゃん。仕事の愚痴でも彼氏の愚痴でも、なんでも聞くぜ?」
「こら。和泉先生でしょ」
茶目っ気たっぷりに怒られ、ジンゴはペロッと舌を覗かせた。そして教室を出ようとする彼女に大きく手を振った。
「今後もお悩み相談部をよろしくな、イズミちゃんセンセ!」