4月13日、水曜日。
放課後、午後4時30分。職員棟。
廊下を小走りに進んでいた男子生徒は頭上の「生活指導室」の立て札を見て速度を緩めた。それはその教室が目的地だということもあったけど。
(あれ。看板、なんか歪んでない?)
そう思って小首を傾げる。
彼の名は
そのカイの身長と裸眼でもよく見える目で、立て札の根元に少しだけヒビが入っているのが見て取れた。昨日までは普通だったはず、と考えてひとつの可能性に思い当たる。
(――今朝地震あったもんな。けっこう大きいやつ。この学校古そうだし、それでヒビ入ったのかも)
先生に会ったら言っておかないと。
確かにそう思ったのに、扉の前に立った瞬間カイはそれを忘れ去った。なぜって――この後の活動に比べたら、そんなの覚えておく余裕もない、とても些細な出来事だったから。
生活指導室の扉のひとつ。あちこち傷んで塗装が剥げかかっているその引き戸には、1枚の張り紙が貼ってあった。
「お悩み相談部 活動中」。
太いマジックで手書きされた、男子っぽい勢いがあるけれど全体のバランスが取れている綺麗な字。
それを見たカイは拳を握りしめる。
(く~~、初部活動だ! やっぱ高校は中学に比べていろんな部活あるな! 先輩もう来てるかな)
高まったテンションに任せて息を吸い、
「お疲れ様です!」
挨拶と共にガラガラと引き戸を横に押し開ける。そのまま中へ入ろうとして――見覚えのないパーテーションが並んでいてカイは足を止めた。
名前こそ生活指導室となっているものの、その内部は通常教室と大差ない。昨日までは机と椅子が並んでいて、それはこの扉から入ってもよく見えるはずだった。
しかしドア前の一角、そこはパーテーションで区切られていた。カイの身長でも向こう側は見渡せない。その内側には向かい合うように机が四つ置かれ、そのひとつで本を読んでいた男子生徒が顔をあげる。
「お疲れ様です、カイくん。……入る度に声大きいですね、きみは」
そう言って少しだけ眉を寄せて艶のある髪を揺らし、上げた顔をまた本に戻す。
彼の名は
顔の大部分は細い金縁の眼鏡と長めの前髪に隠れてよく見えない。けれどその奥の目は涼し気で、落ち着いた態度は年齢よりずっと大人びて見える。一番上のボタンまでキッチリ留めている学ランには皺ひとつない。
そんなサトルに挨拶しつつ、カイは物珍し気に見まわしながら中に入った。
「お疲れ様です、サトル先輩。あの、このパーテーションって? 昨日までなかったですよね?」
「ああ、一応部活中は生活指導室と区切るためにパーテーション立ててるんですよ。他人の悩みを聞くので、プライバシー保護の名目もありますね。本当にカタチだけですけど。先週は色々あってそれどころじゃなかったんですが、そろそろ本格始動ということで。カイくんも入ってくれたし、今日はお客さんも来ますしね。お悩み相談部はこれが基本形です」
サトルは本を閉じてこちらに向き直った。
お悩み相談部。
聞くところによると、3年の先輩が去年立ち上げた新設の部活らしい。3年生がふたりと2年生のサトル、昨日入った1年生のカイの、計4人の小さな部活。活動内容は「生徒の悩みを傾聴、必要であれば解決する」。
数日前、どうせ解決などできないだろうと半ば道場破りみたいな勢いで押し掛けたカイの相談を、サトルは見事解決してみせたのだった。
「は~、なるほど……。こういうのあるとなんか本格的な感じしますね。――って、あっ、もしかしてこれ立てるのサトル先輩ひとりでやりました!? すみません、1年の俺がやるべきなのに!」
言葉と共に慌てて45度に頭を下げる。
カイは外見のイメージ通り、中学では野球部だった。強豪ではない、むしろロクに練習もしないような弱小校だったが、やたら上下関係には厳しかった。先輩に部活の準備をさせるなど言語道断だ。しかもサトル先輩は――口調こそ丁寧なものの――表情があまり変わらないからか、なんだかちょっと怖い。
その姿をサトルは物珍し気に見た。というより、驚いているのかもしれない。眼鏡の奥の一重が少しだけ見開かれた。
「え……。そんな、謝る必要ないですよ。ジンゴさんとふたりでやったし、そんな手間じゃないですし。むしろきみが来るの待てばよかったですね。すみません、後輩という存在に不慣れなもので。片付けは一緒にやりましょう。しまう場所教えます」
「お願いします」と返事をしながらサトルの隣に座る。よかった、彼は怒ってはいないようだ。
しかし会話が一段落し、ここから何を話せばいいのかわからない。先輩はあっという間にまた文庫本を開いている。パーテーションの向こうからは楽しそうな笑い声が聞こえてきて、それがますますカイを居心地悪くさせた。
(あっちは生活指導委員だよな。ジンゴ先輩も向こういるっぽい。俺だって生活指導委員なんだし、向こう行けばよかったかな……)
反対側に視線をやりながらモゾモゾとカイが身体を揺らす中、
「こんにちは。ジンゴくん、いるかな」
ガラガラと引き戸を開けたのは、白衣を着た背の低い女性教師だった。