「それにしても、井戸の底というには、ここは広いな……」
ラトゥンは、誰もいないにもかかわらず呟いていた。
人は不安になると口数が増える傾向にあるという。自分も不安に感じているのかと、ラトゥンは自嘲したくなってくる。
どこまで落ちたのかわからない。比較するものがないと、人間は時間や距離さえも測れなくものなのか。長い時間落下したような気がするが、いまいち確信が持てない。
本当は思ったよりすぐだったのではないか? しかしそれなら落ちた場所から井戸の穴、外への光が見えてもおかしくない。見えないということは、相当深いのではないか。
「……寒いな」
水がないのは、空井戸か。だがここに人が落とされたというのは、井戸内に漂う怨恨や負の感情から感じられる。空気が澱んでいる。ただ換気が悪いとか、そういう話とは違う何か。
その割に死体――人骨などは見当たらない。完全に密閉されているわけではないから、雑食性の小動物や虫などが処理をしたのだろうが……骨も残らないというのは奇妙であった。
「俺が落ちた時のあれ、もしかしてスライムだったか……?」
妙に弾性があって、そのままはまってしまうところだったが、暴食の腕が喰らったことで窒息や身動きがとれないという危機は免れた。
「巨大スライムだったのなら……骨まで消化してしまうのは道理か」
一人納得し、通路を進む。古い地下道のようだが、何だかダンジョンの趣もある。
「井戸の村の地下は、ダンジョンでしたってか」
自分に言い聞かせるように言い、ラトゥンは歩みを進める。視界は最悪だ。小型のネズミのようなものが、足元を通過したり、羽虫の発する音が耳を掠める。衛生環境はよろしくない。
「……!」
ラトゥンが何気なく床を踏んだ時、キーンと耳障りな音が響いた。突然のことに、さすがのラトゥンも耳を押さえた。
「結界を踏んだか……!?」
いわゆる侵入者探知用のトラップ。いや結界のように思えた。
「おいおい、こんな井戸の底に、まさか生きていた奴がいたのか?」
あの落下で死なずにいた者がいたのか。罪人殺しの井戸落とし。それで死ななかった者がいて、結界を仕掛けた。
「いや、落ちた奴とは限らないのか」
実はこの井戸の底は、外に通じている秘密の通路があって、そこを通るとどこかに知らせがいくように結界を張っていたという可能性。
「外に通じているかも、なんて、都合のいい方に考え過ぎだな」
進めばわかる。ラトゥンは、確かめるために先に進んだ。足取りは先ほどより軽かった。しかし用心も忘れない。
どういう意図の結界だったにしろ、ああいう仕掛けがあるならトラップの類いが設置されている可能性もあった。……この視界では、それに気づくのも困難だが。
ふっと空気が変わった。
澱んでいたそれが消える。本当に外に通じているのではないか、などと思ったが、特に道中、上へ登っていることもなかったのでそれはないと考えを打ち消す。
「……ん?」
通路の先に、ぼんやり明かりが漏れていた。この暗闇の地下に光源。途端に怪しくなる。魔物の類いではない。誰かいる。
「この世から追放された奴だぞ。……一体何者だ?」
普通の人間ではあり得ない。であるならば、悪魔か。少々短絡的だが、環境が環境だ。あまりよい想像はできなかった。
しかし、引き返したところで仕方がない。ここまで来たら、進むしかないのだ。
小部屋のようだった。そこにいたのは、神官服の女性。いや、まだ二十前と思われる若い娘だ。
「……誰?」
ラトゥンは息を呑んだ。警戒するよりも、場違いな遭遇に驚いてしまった。
長い金髪に、エメラルドグリーンの瞳、可憐なる乙女は、その体から仄かに光を放っていて、それが周囲を照らしていた。
よくよく考えれば、人間が発光するなどあり得ないことなのだが。
「あら、こんなところに人がくるなんて、初めてじゃないかしら」
乙女は穏やかに笑った。武装している男が現れて、警戒することなく。本当に珍しいのか、あるいはこの程度で驚かない胆力の持ち主なのか。
「人、じゃないですね。……貴方は悪魔かしら」
ラトゥンは図星を刺されて、思わず口元を引き結んだ。その表情を汲み取ったか、神官服の乙女は、さらに微笑んだ。
「ごめんなさい。悪魔だろうが人間だろうが、ここでは関係ない話だったわ。でも、悪魔なら、もしかしてわたくしを殺しに来たのかしら」
「……聖教会か?」
相手の姿から、ラトゥンは尋ねた。格好だけなら聖教会の神官のようだが。
「かつては、そう。ここへ落とされるまでは」
「落とされた」
罪人を落とす井戸。その底にいる人間である。普通に考えればそうなる。
「貴方もそうでなくって?」
「いや、俺は……」
「どうしたの?」
「落とされた、というわけでもないし、足を滑らせたわけでもない。誰もいなかったはずだが、もしかして落とされたのかもしれない」
どうして井戸に落ちたのか、それがよくわかっていないラトゥンである。乙女は嫋やかに笑った。
「なにそれ。おかしな悪魔さん。……でも貴方、わたくしのことを知らなさそうね」
「知らない。初対面のはずだ」
ラトゥンは頷いた。
「発光している人間なんて知り合いにいない。いれば忘れない」
「! ふふふ、それはそうね。確かに自分から光っている人間なんて、そうはいないでしょうね。……でもそれなら、わたくしのこと、逆にわかったんじゃないかしら?」
「いいや。わからない」
嫌にもったいぶるなとラトゥンは思った。
「本当に知らない? わたくしのこと」
「……」
「知らないんだ、わたくしのこと。どうしようかなー」
乙女は自身の細い顎に指を当てて、考える仕草をとった。実に緊張感がなかった。
「貴方は都会の人間じゃないわね。こういう言い方はどうかとも思うけれど、田舎の方ね」
「都会の人間からすれば、そうなるだろうな」
田舎者と言われると、どうしてこうイラっとくるのか。ラトゥンは腕を組んだ。
「この田舎者にも、お前――いや、あなた様のことを教えてくれると助かるんだがね」
もしかして、貴族の娘とか、上位階級かもしれないと、ラトゥンは想像した。教会に娘を入れる貴族はなくはない話である。
「それとも俺から名乗れと言うか?」
「いいえ、聞かれているのに、まず自分から名乗るべき、なんて失礼な返しをするつもりはないわ。わたくしは相手の名前を知らずとも会話できるもの」
乙女はそこですっと立ち上がった。
「わたくしは、アリステリア。巷では『聖女』と呼ばれていました。よろしく」