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第104話、井戸の闇


 ギプスとエキナに宿と買い物を任せ、ラトゥンはトバルの村を散策することにした。


「お前も来るか?」

「遠慮する」


 クワンは車に残るという。


「おれは指名手配されているかもしれないからな。大人しく隠れているさ」


 ラー・ユガー盗賊団のボス。聖教会との裏の繋がりが発覚するのを恐れた口封じで、暗殺の標的になっているかもしれないクワンである。


 神殿騎士団は、ラトゥンのことを疑いはじめているが、クワンについては、よりアウトの可能性が高い。不要な危険を回避するために車に残るのは正しいかもしれない。


「それじゃ、留守番頼むよ」

「旦那も気をつけなよ。武装神官とか、神殿騎士がいるかも」

「今回は教会があってもスルーするつもりだ」


 もっとも、この小さな村で、それらしい建物は見えないが、ないと決めつけるのは早計だった。村の入り口から見えない位置にあるかもしれない。


 だが、クワンの言う通り、聖教会の人間や不審者がいないか、それを確かめるつもりである。散策という名の調査活動である。


 村に入る。民家は並んでいるが、家から家の間が広く、田舎を感じさせる。あまり大きくない村にあって、しかし異質な塔――『井戸』が中央にそびえ立っている。


「これのどこをどう見たら井戸なんだ……?」


 初見の人がこれを見て、井戸と答えるだろうか? 十人が十人とも、塔と答えるだろう。村の中央広場の真ん中に、ドンと建っている大きな構造物。

 たまに住民が通る程度の村の中を進むラトゥン。中央の塔にしか見えない井戸に近づいて、その周りをぐるりと一周する。


「……本当に入り口がないんだな」


 これでは塔というより巨大な煙突ではないか、と思う。遠くからは大きく見えたのだが、近づくと案外そうでもない。

 奇妙なものだと思いつつ、外周に沿って、上への階段のようなものが突き出しているので、それを足場に天辺を目指してみる。


 特に立ち入り禁止の立て札、注意書きはなかったので、ラトゥンは段を踏みしめ、登っていく。一番上からなら、この小さな村の全てを見渡すことができるだろう。見張るにはうってつけだ。


「よっと……!」


 一番上に到着。すると足場は少しで、ぽっかりと大穴が開いていた。


「井戸、だもんな。なるほどなぁ……」


 深い深い穴が、どこまでも続いているようだっあ。手すりなどがないので、強風の日などは、風に煽られて落下、なんていうこともあるかもしれない。井戸に落ちるか、あるいは外周側に落ちるかわからないが。


「高所恐怖症には、きついな、この景色は」


 ラトゥンはあまり縁に近づかないように、慎重に穴を覗き込む。底が見えない。どれだけ高いのか。暗視魔法で探ろうとしたが、駄目だった。


「ライトボール」


 光源として球を発生させ、それを落として見る。かなり深いところへ落ちていき、ふっと闇に呑み込まれたように光が見えなくなった。


「これだけ深いなら、別に塔にしなくてもよかったんじゃないか……?」


 充分、地面の高さからでも罪人を落として殺せる。それくらいは深そうだった。


「……」


 じっと見つめていると、視界がすべて真っ暗闇にあって、方向感覚がフッと失われていくような錯覚をおぼえた。

 不思議なことに、自分は下を向いているはずなのに、重力の感覚を失い、自分が前を見ているのか、上を見ているのかわからなくなったのだ。


 周囲に比較するものがないと、どちらを向いているのかわからなくなる。ラトゥンは顔を上げる。

 明るい空の下、地平線を見やり、方向感覚を取り戻す。息が荒くなっているのを自覚する。暗所恐怖症ではないが、闇に不安を抱いたか。吸い込まれるような感覚のせいかもしれない。


 いや、何が怖いかといえば、罪人殺しの穴なのに、怨恨や負の感情、寒気を催すような感覚をまるで感じなかったことだ。


 無。


 何もない。ただただ闇。それが底冷えするような不安と恐怖を与えてきたのだ。

 だが、何故か引き寄せられるものがあった。この穴を覗き込みたいという気持ち。深淵の底を確かめてみたいという欲求。


「……これは、引き込まれているのか」


 ラトゥンは、押し寄せる欲求をねじ伏せ、身を引いた。落ちるかも、なんて冗談を言っている場合ではないのだ。

 そのはずだった。

 ポンと、背中に何かが触れた。


「え……?」


 押された。ラトゥンの体は宙にあって、次の瞬間、底知れぬ闇へと落ちていった。



  ・  ・  ・



 どこまで落ちていくのか。

 いや、これは果たして落ちているのか、それすらわからなかった。

 周囲は闇しかなく、方向感覚を失う感覚、そのものだった。意味がわからない。

 まだ何も変化はないのか。


 ――俺は落ちているはずだ。


 どこまで落ちるのか。あり得ないとは思うが、底なしなのではないか。そう思えるほど、長く、果てしなく長いそれを感じる。


「……っ!」


 不意に、冷たい何かが頬を撫でたように感じた。黒一色なのは変わらない。しかし体感温度が下がる。


 ――いや、この感覚は。


 恨み、つらみ、怒り、絶望、恐怖。ありとあらゆる負の感情。ラトゥンは身構えた。


「底、か」


 見えない。だがそう感じる。息をついたその瞬間、体が何かに激突した。

 底についた。しかし土でも石でも、まして水でもない。ズブズブと埋まる感覚。これは一体何なのか?


 水気があり、粘着性があるもの? ――泥……違うか?

 とにかくもう落ちている雰囲気はない。ただ体が何かに埋まっているようで、密着、ついでは酸欠の恐れがあった。


 ――暴食!


 左手が周囲のそれを喰らった。体の一部が自由になり、見えないが確かに存在する周りのものを暴食の腕に食わせる。


「はっ!」


 得体の知れない何かから出て、息が吸えた。ヘドロのように臭い。相変わらず、周りは真っ暗闇で何も見えない。


「目いっぱい暗視を働かせているんだがなぁ……。いや、見えてきたか……?」


 少し慣れてきたか、周りに微妙に色の違いがあることに気づいた。黒には違いないのだが、差異がある。

 しばらくそのままでいたら、ようやく物がわかるようになってきた。


「井戸の底か」


 頭上を見上げれば、そこには穴があるはずだが、暗闇しかない。しかし上下はわかるようになっていた。

 ラトゥンは辺りを見回し、外に戻るための調査を開始した。

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