振り上げられた拳は、空を切り、地面を割った。
雪がパッと散る中、ラトゥン――暴食はめまぐるしく動く。番人が馬鹿でかいから、大きく動かないと、その攻撃を躱すのも一苦労なのだ。
『図体がデカいというのは――』
言いかけたところで、番人が咆哮を放った。近くからのそれは、聴覚を吹き飛ばすに充分だ。悪魔でなかったら鼓膜をやられていたかもしれない。
『うるさい奴だ』
ライトニングスピアーを至近距離から、番人の腹に撃ち込む。しかし白い体毛に覆われた巨躯は、電撃弾にもビクともしない。
これは単に、体の大きさの問題か。人間にとっては強烈な一撃も、体の大きな生物にとっては、ただ表面を叩かれた程度としか感じないというもの。
すっ、と番人が左足を上げた。次に来る行動は予想がつく。だから暴食は、番人の地についている右足へと踏み込んだ。
真上から落ちてきた左足。しかし内側をえぐるように潜り込んだ暴食には擦りもしない。体格差が影響するのは、何もパワーだけではない。
『体が大きすぎるというのも問題だな!』
局地的な地震の揺れをやり過ごして、暴食は暗黒剣で番人の左足を切りつけた。
手応えはある。が、厚い体毛に阻まれて、肉を切った感触が弱い。
『この体格差では、掠り傷にもならんか!』
耳障りな咆哮を叩きつけられる。暴食は番人の右へと抜ける。後ろにはハンマーのような巨大な尻尾があり、危険と判断したのだ。
番人の足元をうろちょろすることで、効果的な攻撃をさせない暴食。腕のような前足も効果的な攻撃ができない位置取りである。
すると番人はその場を飛んだ。距離を取ったのだ。再び着地し、雪を巻き上げる番人。暴食から離れたことで、再び攻撃態勢に入る。
死角を取ろうとした努力も、また一からやり直しだ。
『こちらが接近するしかないと知っている……!』
加速の魔法を足にまとい、暴食は一気に距離を詰めようとする。番人が口腔を露わにした。
咆哮ではない。口の中に光が瞬く。
――確か、ブレスを使うと言っていたな……!
ギプス曰く、炎と雷、二種類を使うらしい。巨大ゴーレムの時は使わなかったから、モーションがわからなかったが、なるほど、あれが射撃姿勢か。
――どっちを使う?
すばしっこい相手に当てるなら、弾速のある雷か。距離は短めだが広い範囲を攻撃できるだろう炎か。
どちらも番人のブレスは見ていないから、どういう軌道なのか、範囲はどれくらいかは推測にしかならない。
――踏み込みは……間に合わないか!
番人の足元に辿り着くより前に、その口腔から凄まじい炎の塊が噴き出た。視界一杯に広がる地獄の業火。これは躱せない!
炎を吐く魔獣と化した番人によって範囲内の雪が蒸発した。そこにいただろう暴食もまた、一瞬で炭化してしまうほどの熱――
しかし、暴食は健在だった。防御魔法の展開は、番人のブレスを辛うじて防いだ。防いだのだが……。
――何だ、これは……!?
暴食――ラトゥンは、左腕に痛みを感じた。正確には、猛烈に熱を帯びたような熱さ。骨が溶け、神経が過熱する。迸る熱が伝わり、脳を焼くような痛みを与えてくる。
――喰いたいのか、暴食……!
ラトゥンは、左腕が疼いているのを感じた。何も言わずとも、喰いたいというそれが浮かんでくるのだ。
暴食が、喰らいたくてたまらないと涎を垂らし、神経を高ぶらせるのだ。
呼吸が荒くなる。喰らいたいという衝動が繰り返し押し寄せてくる。
――もう、いいよな……?
それは誰に対しての言葉だったのか。動きの止まった暴食に、番人は今後は雷のブレスを吐いた。
その凄まじい電撃は、瞬時に暴食を貫――かなかった。防御魔法ではない。前に出した左腕が、電撃を吸い取った。
暴食が長い息を吐いた。次の瞬間、動き出す。
番人もまた動いた。ブレスが効かないとみて、再び前足を腕の如く振り上げ、叩きつけたのだ。
暴食は躱す。そして地面を叩いた番人の手に飛び乗ると、その左手を押しつけた。
『喰らえ!』
ガッ、と番人の右腕に、齧りつかれ抉り取られたような大穴が空いた。これには番人は驚き、天へと絶叫を響かせた。
先ほどまでの咆哮とは違う。番人は、痛みを感じている。
暴食の左手がさらに喰らうと、番人の右腕が体から切り離された。ドバドバと流れ出る真っ黒な血が、血溜まりを作る。
ギラリ、と暴食の目が光った。
・ ・ ・
「これは、何じゃ……!?」
見守っていたギプスは、声を掠れさせる。
「番人の腕をもぎ取りおったぞ……!」
「スゲぇ……」
クワンもまた呼吸を忘れたように、ただただ戦いに見とれる。ただ一人、ラトゥンがかの『暴食』と知るエキナだけは、不安な表情になる。
――ラトゥン、呑まれてないですよね……?
形勢は逆転した。一時は攻めあぐねていたラトゥン――暴食が、番人の腕を一本喰らってから、一方的なものになりつつある。
暴食の動きが早くなり、番人はその動きについていけない。腕だけに留まらず、その肩や体にも、喰らわれて穴が空いていく。
内臓や骨などお構いなし。聞きしに勝る暴食っぷりに、番人は肉食獣に食われるだけの獲物と化す。
まさに一方的。もはや、番人はその役割を果たすどころではない。その独特の頭部も喰われた時点で、勝負あった。
生き物として死を迎えた巨大な怪物は、しかし暴食はさらに容赦なく喰らう。腹をすかせた肉食獣の如く。
喰らう、喰らう、喰らう!
これには、さすがのギプスも絶句している。クワンはポツリと言った。
「やり過ぎだよ、ラトゥンの旦那……」
番人が、もう何だったかわからない肉片を少し残して、消滅した。勝ち残った暴食は、天に向かって咆哮した。
自らの勝利を宣言するように。
――強い、だけど。
エキナの不安は加速する。彼は人間だ。悪魔に取り憑かれた、あくまでの人間のはずだ。
だがあれでは、本当に悪魔になってしまったようにしか見えなかった。暴食という最上級悪魔は、絶大な力を持ち、そこらの悪魔たちと格が違う。
その意思が、ラトゥンを取り込んでしまったのではないか。エキナは、戻ってくる暴食を見やり、口元を引き結んだ。