自動車による旅は快適だ。……少なくとも、たっぷりの布団を敷いて、地面との接触による揺れを軽減している間は。
荷台の休憩スペースで横になっているラトゥンにとっては、多少の揺れも心地良かったが、運転席の横の助手席のエキナは、そうそうに荷台に避難していた。
「お尻が痛いです」
「……」
車は街道を走っていて、比較的マシではあるのだが、揺れがほとんど軽減されずに伝わるので、座っていてもしんどいのである。特に速度が早い分、振動もまた大きくなる。
移動自体は、スムーズだった。
遥か前方に見える山々――グレゴリオ山脈があるのだが、徒歩であったなら到着までどれくらいかかるかわかったものではない。
乗り物があるのは、非常に助かる。しかも乗合馬車みたく、他に乗客がいないから、遠慮する必要もないときている。
「あ、ラトゥン。あれを――」
エキナもクッションの上に座り、反動を減らしていたが、遠くを見ていたらしい彼女が一方を指さした。
「魔獣……、起きたほうがいいか?」
寝転がっていて、さらに荷台には幌がかかっているから外が見難い。
「狼、か……?」
「毛並みが赤いですから、レッドウルフじゃないですか?」
「赤……赤いか?」
「背中とか、尖端が」
レッドウルフ、赤い狼。狼種族の中では、より人類に敵対的ゆえ『魔獣』認定されている生き物だ。
普通の獣と魔獣の区別というのは、素人には曖昧で、研究者や学者レベルの専門家でないと、違いがわからなかったりする。
ラトゥンはかつてハンターで、これらの生き物についてそれなりの知識はあるが、専門家のような学術的知識よりも、より実戦的な知識に偏っている。だから魔法的な何かを使うのが魔獣ではないか、程度の認識しかない。
ただ、その例で言うと、レッドウルフはその枠に収まらないので、何故、魔獣認定なのかは学術的知識にわかのラトゥンにはわからない。
「……」
ギプスは特に速度を緩めることなく、車は街道をひた走る。遠くに見えたレッドウルフも、そのまま視界から消えていく。
「一頭だったな」
「群れからはぐれたんですかね?」
「一匹狼ってやつかも」
ラトゥンは再び横になった。歩いて旅をしていたら、もしかしたら襲われていたかもしれない。
そんな牧歌的な雰囲気な移動を満喫をしていたラトゥンだったが、ちょっとした事件が起きた。
それはギプスの何気ない一言から始まった。
「ちょっと車を停めて、休憩といこう。ラト、ちょっとその間、見張りを頼んでもいいか?」
――ラト……。
思わず返事しかけて、はたとなる。今はラトゥンを名乗っていて、かつての本名は明かしていない。……幼馴染みであるエキナがいる以上、特に。
「ラト……」
そのエキナが、やはりというべきか反応した。ギプスとしては、普通に名前を省略しただけだとは思う。だがラトゥンにしてみれば、エキナにも過去を隠している手前、偶然だったとしてもその名で呼ばれたくない。
「何じゃい?」
「いえ……、わたしの知り合いに、ラトという名前の人がいたんですよ」
控えめな調子でエキナは、ギプスに答える。
「ほう……?」
「幼馴染み……というんですかね。剣の道場で知り合った兄弟子で、面倒見がよくて、優しい人でした」
ちら、とエキナが、ラトゥンを見た。このタイミングの視線が大変居心地が悪いラトゥンである。
ギプスは街道から車を出して、停車させた。
「親しかったのか。……嬢ちゃんのこれか?」
恋人を匂わすジェスチャーをしながら車を降りるギプスに、エキナは慌てて首を振った。
「違います! そういうんじゃありませんって……! ねえ、ラトゥン、違いますからね」
「……ああ」
ラトゥンは、この場合どう反応するのが正しいのかわからなかった。そもそも何故自分に向けて、彼女は違うと強調するのか。
――ひょっとして、俺がラトだとバレてる……?
あるいは、エキナは今のラトゥンに対して、一定の好意をもっていて、かつての幼馴染みを恋人と勘違いされたくなくて否定しているのか。
――ここは他人のフリをしておくか。
ラトゥンは起き上がり、荷台から降りる。
「ギプス、エキナが戸惑うから、ラト呼びはやめてくれ。……昔の彼氏を思い出すとさ」
「あっはっは! 確かに、それはよろしくないのぅ!」
「だからっ、違いますって! もうっ! ラトゥンまでノらないでくださいよ」
抗議するエキナが、妙に子供っぽくて、可愛らしかった。赤面までされると、本当は何かしらの感情を抱いていたのではないかと思えてくる。
気にはなるが、ラトゥンは追求することはしなかった。過去を黙っている都合上、その過去をほじくり返す行為は、どう考えてもやぶ蛇に他ならない。
それでバレては隠す意味もない。もっとも、エキナにすでにバレている可能性もあるのだが……。
――今のところ、そういう素振りはない、か……?
ラトゥンは視線を逸らし、見張りに立った。ギプスは車の周りをまわって、異常がないかの点検と、水の補給をする。エキナは荷台から、後方の見張りをするが、何も言わなかった。背中を向けていたから、どんな表情をしているのか窺い知ることはできない。
・ ・ ・
小休止の後、車は再び走り出す。
「助手席の座り心地は、よくないな」
荷台ではなく、助手席に座るラトゥンである。ギプスから、『運転の仕方を教えてやる』と言われ、ここにいる。
「ギプスは気にならないのか?」
「ならん。運転しているとな」
ギプスは、ハンドルを握りながら答えた。
「まあ、ドワーフのケツは鉱石より固いからな。がっはっは!」
愉快な男である。ラトゥンが助手席に中身たっぷりの座布団を敷こうとすると、ギプスは口を開いた。
「助手席で、あまり座高が高くなるのはお勧めせんぞ。特に人間はドワーフと違って、下半身の安定性に劣るから、急なブレーキやカーブで転落してもしらんぞ」
「それは……まずいな」
スポードが出ている車から、振り下ろされるというのは、落馬するようなものだ。装備によっては背骨や腰の骨を折るなんていう大惨事にもなりかねない。
「仕方ない」
座布団は諦め、前を向いたラトゥンだが、それでそれに気づいた。
「何かいるな」
「あれは……馬車か?」
ギプスもそれに気づいた。街道に対向の馬車、いや対向ではなく、先客に追いついたのか。
「停まっているな。しかも――」
「きな臭い雰囲気じゃ」
馬車の周りには複数の人影があって、しかも争っているようで、武器らしきものも見えた。
「嫌な予感がしてきた」
盗賊か何かの襲撃の場に出くわしたのかもしれない。