地下というのは陰気で、じめじめしている。夏場は日が届かない分、ひんやりしているかもしれないが、代わりに空気が澱むだろうとラトゥンは思う。
「血の臭いがします」
エキナは事務的に報告した。そうかな、とラトゥンは思ったが、おそらくそれは間違いないだろうと確信があった。
聖教会の教会地下にあるものを想像すれば、あり得る話だったからだ。同時に、ここも駄目なのかという諦めの境地にもなる。
しっかりした石造りの通路を進むことしばし、血よりも汚物臭が漂ってきた。鍵のかかった扉が並び、覗き窓から中を見れば――
「……」
「何です、か……? これは――」
「聖教会の闇だよ」
ラトゥンは言った。エキナは仮面で表情はわからないが、かすかに体を震わせていた。死刑執行人をしていたが元は貴族のお嬢様。少々刺激が強いか。
「こっちの子は、生かされながら悪魔に少しずつ千切られたり、いや食われているな……。隣は」
悪魔に性的暴行を受けたようだ。女の子、いや男の子だ。
「聖教会がこんなことを……」
愕然とするエキナ。信じたくない気持ちはわからないでもない。神を信じ、民にとって救いの象徴としていた教会が、裏で暴力を行使していたなんて。
「どうして、こんな……」
「前にも言ったが、聖教会の実態は悪魔の巣窟だ。悪魔が殊勝に人間に尽くすわけがない。ああやって哀れな犠牲者を閉じ込めて、その醜悪な趣味を愉しんでいるのさ」
悪魔がいかに人間に対して残酷であるか。表では聖職者のふりをして、裏では人を弄んでいる。
――俺自身、暴食になって悪魔と絡むようになってわかっただけだが。
これを世間に公表したら……できたなら、人々は悪魔の巣窟を潰せと、積年の恨みや怒りをぶつけるだろう。
悪魔狩りを起こす程度には、欺かれていたことに激昂するに違いない。
だが――
「これを公表できませんか?」
エキナは仮面のその顔でラトゥンを見た。
「世間も、聖教会の悪事を知れば……。ここだけではないのでしょう? 教会の悪事は」
「問題は、そう簡単にはいかないということさ」
「どういうことですか?」
「まず第一に、世間は言葉だけでは信じない」
聖教会が悪魔に支配されていて、聖職者は悪魔と言ったところで、そんな馬鹿な、と逆に疑われるのがオチだ。
「人々の聖教会の教えと信用は、子供の頃から刷り込まれているからな。教会を疑うことは神を疑うこと。自分たちが今まで信じてきたものを根幹から揺るがすことになる」
「そうでしょうとも」
「だが人間は、土台が揺らいだ時に、平常ではいられないものだ。目の前に真実があっても、信じたくない、信じられないという気持ちが働いて、その答えを拒絶する」
盲目になる。人は信じたくないものには、目を閉じ、耳を塞ぐのだ。
「それは……、でもラトゥン。さすがにこの光景は、否定できませんよ」
子供が食べられ、あるいは暴行されたそれがある。
「いくら見たくないからと言っても、受け止めて、糾弾に出る人もいるのではないでしょうか?」
「一人、二人、数人では、教会全体を揺るがすほどにはならない」
ラトゥンは冷めた目のまま、扉の鍵を壊した。
「これを見た人間よりも、見ていない者の数の方が圧倒的だからな。世の中は多数派に流されるものだ」
それに聖教会側だって馬鹿ではない。
「悪魔が神父に取り憑いたとか、悪魔が入れ替わっていたとか、適当なことを言って責任追求から逃れるだろう」
聖教会全体に問題があるのではなく、個々の、末端に罪を押しつけて。悪魔が憑いていたのでは仕方ない、と思う人間の多いこと。
「……」
「だからさ。真実を訴える必要はない。この手の悪事をこれ以上させないために、ぶっ潰していくんだ」
それが、ラトゥンの選んだ答え。暴食の悪魔になってしまった件で、神殿騎士団と聖教会へ復讐を誓ったラトゥンだが、悪魔たちの罪を知ることで、その全てが彼の報復と攻撃対象になったのだ。
奥、行き止まりに見えて、腐臭が漏れている隠し扉を、力でこじ開ける。中には、多数の白骨と、黒い毛むくじゃらの化け物――
「マンイーター!」
人喰いの化け物。黒い体毛に覆われ、大柄の猿のようにも狼のようにも見える異質な体を持つそれが、扉が開いたことで飛びかかってきた。
ラトゥンは反射で、飛び込んできた化け物の顔面に右手を叩き込む。人の姿をしていても悪魔の力のこもった拳は、マンイーターの顔を陥没させて怯ませた。その隙に左手から暗黒剣を抜いて、化け物の体を真っ二つに切り裂いた。
「ここで、飼っていたのか、マンイーターを……」
あまり広いとは言えないそこは、この化け物を飼育する檻のようなものだったのかもしれない。散乱している骨は、形からして人骨も少なくない。聖教会の悪魔が、幽閉した被害者たちを処分がてら、餌としてマンイーターに与えたのだろう。
ラトゥンは、それら人だったものの名残から、恨みや恐怖、負の感情を感じ取った気がした。どれだけが犠牲になったのか。それを思うと体の芯から震えがくる。
「だから、潰さなきゃいけないんだ、悪魔の巣窟は」
・ ・ ・
エキナはショックを受けていた。
仮面というのはこういう時に表情がわからないが、犠牲者たち――生きている、死んでいる問わず、解放していく時の体の動きを見れば、気分のいいものではないのは言わずともわかる。
数年の時が流れようと、処刑人だったとしても、エキナの心根は変わっていないのだと、ラトゥンは感じていた。
そんなエキナが、聖教会という存在について、今まで見てきたものより、遥かに醜悪で残酷なものだというのを、はっきり目の当たりにした。
悪魔と契約し、己の望みを果たし堕ちた女――だが彼女がその後、所属した組織は、それ以上に堕落し、汚れていた。
「俺は、これからも聖教会の教会や関係するものは潰していくつもりだ」
ラトゥンは事務的に告げる。
「俺と一緒にいるというのは、こういうのをこれからも見続けることになる。……君にその覚悟はあるか?」
もし引き返すのなら、まだ聖教会に目をつけられていない今だ。
「……知らないでは、もう済まないです」
エキナはポツリと言った。
「もう知ってしまいましたから。もう教会を見るたびに、その地下ではおぞましいことが起きているなんて……、そう思いながら生きていくことは、私にはできません」
そんな気がしていたラトゥンである。このお嬢様は、幼い頃から正義感が強かった。
「死刑執行人は、罪人に刑を執行する者。その悪魔討伐、わたしにもぜひ手伝わせてください」
「……そうか」
罪には罰を。忌むべき仕事と蔑まれていても、処刑人は基本的に罪人しか殺さないものだ。罪人の定義は、為政者の匙加減ではあるが。
「君の意思を尊重する。……ただ、俺についてくるなら、一つ頼みを聞いてくれるか?」