暴食は手負いだった。
追い込まれていた。何故そうだったのか。最上級悪魔とされる暴食という存在を前に、そんなことを考える余裕もなく、ラトは剣を暴食の腹へと突き入れていた。
ラトとて上級ハンターである。歴戦の勘、それに対する反応は伊達ではなかった。グリッと突き入れた剣を力一杯動かせば、暴食が絶叫した。
悪魔にも痛覚はある。これは行ける――!
ラトはさらに内臓を抉る。これは暴食を葬る一生に一度あるかの機会かもしれない。専門の装備も、情報もない状態でこの悪魔を仕留めることができるかもしれない機会。まさしく千載一遇。
だがその時、不思議なことが起きた。暴食の体、その傷口から黒い靄のようなものが出てきて、ラトの腕に絡んできたのだ。
「っ……!?」
とっさに剣を引こうとしたが抜けない。傷による痛み、緊張効果で暴食の筋肉が凝縮したせいかもしれない。そう思い、剣から手を離そうとしたが、それも駄目だった。絡みついた靄が、徐々に這い上がるようにラトの腕全体を覆う。
そして傷口だけでなく暴食の体全体も靄のようになり、ラトの体へと入ってきた。
声も出なかった。そしてあっという間に、暴食の体は掻き消えた。まるで最初から存在しなかったように。
「ぐっ!?」
次の瞬間、ラトは猛烈な熱が体中を駆け巡るのを感じた。血管という血管に高温に、熱された湯を流し込まれたようだった。
立つこともままらなず、血管から溶けていくような非日常な激痛に苛まれて膝をつく。これは一体何が起きたのか? 考えようとしても痛みが脳内で弾け、思考どころではなかった。
「ラト!」
遠くから、ルイサの悲鳴じみた声が聞こえた。気遣う声も、ラトにとってはそれどころではない。
全身に押し寄せる激痛にのたうつと、視界が徐々に暗くなっていった。闇が落ちた。
・ ・ ・
『そんな! だってラトなんですよ!?』
『こいつは暴食じゃなくて、そいつを倒したラトなんだって! 何度同じことを言わせるんだ!?』
声が聞こえた。必死になっている女と男の声。視界は真っ暗なまま。しかしその声に聞き覚えがあった。
いや、よく知っている声だ。ラトは思った。
『いや、それは暴食の悪魔だ』
知らない男の声がした。誰だ?――ラトは聞いたことがないか思い出そうとする。
『まさか暴食を倒してしまう者がいたとはな。しかし、こちらとしては都合がいい。今なら、まだ暴食も体を掌握していない』
『おい、何をするつもりだ!? やめろよ、そいつは同じ人間なんだぜ!?』
男の声――ダンケルが、ラトの知らない男に言っている。幼馴染みがここまで声を荒らげているのは穏やかではない。
『もうその男は人間ではない。大悪魔を殺した者に、悪魔の力が宿り、新たな悪魔となる。この男は新たな暴食となったのだ』
視界が開ける。瞼を開け、ラトは視線を巡らせる。彼は地面に倒れていて、周りには神殿騎士たちがいた。
視界の端に、ダンケルとルイサがいて、神殿騎士団長と話し込んでいるのが見えた。先ほどから聞こえる声は、騎士団長のものだったようだ。
「今なら、暴食の力をこちらにも取り込める――」
「あんたは何を言ってるんだ!?」
「ちなみに、彼がハンターだと知っているのは、君たちだけでいいかな?」
「……そうだが。だから、何だよ」
「いやなに、真相を知る人間は少ないほうがいいからね」
騎士団長の唇が歪に歪むと、ダンケルとルイサの背後に近づいた神殿騎士が、二人を後ろから刺した。
「なっ!?」
「君たちは暴食の悪魔と遭遇し死んだ。ハンターにとっては名誉の戦死というやつだ。君たちのギルドマスターも、今回起こるだろうことは話してある。上手く処理するだろう」
冷酷に言い放った騎士団長。
俺の仲間を刺した――! まるで感覚がなかった体に再び熱が宿る。それまで動かなかったのが不思議なくらいに。
ラトは体を起こし、立ち上がった。
『なぜ――』
声が出にくい。何故かわからないが、自分であって自分ではないようだった。
『なぜ、コロシタ……!』
「暴食!」
周りの神殿騎士たちが一斉に、ラトへと斬りかかった。
――うるさいっ!
ラトは怒りのまま腕を振るった。頭が煮えたぎるように熱かった。そして振るわれた腕は、迫った神殿騎士を殴り飛ばし、その体が別の騎士に当たって倒した。
――何だ……?
ラトは違和感に我に返った。自分の腕が別物になっているのに気づいた。黒く逞しい腕は、人ではなく悪魔のような腕。そう、先ほど倒した『暴食』のような。
そういうことなのか。先ほどの声――騎士団長の言葉が脳裏に過った。
『大悪魔を殺した者に、悪魔の力が宿り、新たな悪魔となる。男は新たな暴食となったのだ』
――俺が、悪魔に……!?
しかしそれ以外にこの肥大化した腕は説明がつかない。自身の体を見下ろすと、人ではなく、暴食と呼び戦った悪魔と同じような体になっていた。
――っ!?
背筋が凍るような殺意を感じて、とっさに飛び上がる。人間離れした跳躍力。寸でのところで、神殿騎士が放った光の刃を逃れた。
――くそっ、どうなっちまったんだ、俺はっ!?
もう頭の中はグチャグチャだった。友を殺された怒りと、自身に起こった変化。現実を受け入れることを認める自分と拒否する自分がいて、ラトは完全に混乱していた。それは錯乱と言っていいかもしれない。
一人の神殿騎士の上に着地して潰し、操られるように騎士団長の方へ駆け出す。周りに立ち塞がる神殿騎士と自動人形を、腕で薙ぎ払い、砕き、獣のように騎士団長――青髪の美形騎士へと迫った。
なんて冷たい目だろう、とラトは思った。冷淡に、しかし狂喜するように歪むその顔。騎士団長は白銀に輝く剣を抜いた。
ラト――悪魔の腕が伸び、そして騎士団長の聖剣が振り下ろされた。