酒場というのは、夜ともなれば人が絶えない。
娯楽の少ない世界、旅人も村人も、塀で囲まれた安全な集落にこもって、酒で喉を焼きながら、他愛のない噂や日頃の愚痴を言い合う。
それが寝る前の大人の過ごし方というやつだ。
酒場の端の席に、外套を脱ぐことなく身につけたままで、酒を嗜んでいる男がいた。年のころ、二十代半ば、いや見ようによっては三十代に見えるかもしれない。それだけ男の表情は暗く、近寄りがたい雰囲気を発していた。
事実、男は連れもなく、ちびちびと酒をやりながら、周囲の喧騒に耳をすましていた。
「――待っていたのに、結局到着しないでやんの。一日無駄にしたね」
「言うなよ。王都から、こんな田舎にわざわざ来るんだぞ。予定通りにつくもんか」
男たちがエールを片手に話している。
「明日来ると思うか? 夜中に到着なんて嫌だぜ、オレは」
「でもすっぽかすわけにはいかないんだろう? 神殿騎士様だぞ」
「それは……そうなんだが」
王都から来る神殿騎士――聖教会が誇る勇猛な戦士の称号だ。天の神の遣いである天使の加護を与えられ、その強さはまさしく一騎当千。民を邪悪な魔物や悪魔から守り、討伐する守護者でもある。
「今後、この村を守ってくれる方々からもしれないんだぞ。歓迎しなくちゃ、罰が当たるというものだ」
ひたたび集落の外に出れば、危険な魔物が徘徊している。夜ともなれば、非力なる一般人は塀の外には出ない。
「それなんだが……本当に村を守るために来ると思うのか?」
「違うのか?」
「目的は悪魔狩りじゃないかって、村長が言っていた」
「悪魔狩り……?」
「ほら、少し前に話したろ。暴食の悪魔の噂――」
「あぁ」
合点が言ったように、片方の男は頷いた。
「騒ぎになっていたもんな。有力なハンターや神殿騎士様が集団で討伐に行ったのに、返り討ちに遭うし、肝心の暴食には逃げられたって」
「そう、まだ見つかってないって話だからな……。今回の神殿騎士様たちも、それと関係があるんじゃないかって」
「あー。こえぇよな。暴食なんて現れたら、こんな片田舎なんて、あっという間に滅ぼされちまうんだろうな」
「やめろやめろ。酒がマズくなるだろうが!」
話を切り出した方の男が声を張り上げる。
ふむ――会話を盗み聞きしていた外套の男は、空になったグラスを置くと席を立った。マスターにコインを投げ渡し、場を後にする。
ふっと陰のように通っていった外套の男を、視線の端に捉え、先ほどの男が相方に聞いた。
「今の黒い外套の男、初めて見るな。いつからいた?」
「あ? さあ、朝も見ていないし、昨日もいなかったから、昼か夕方に来た旅人じゃないの?」
「なんか、おっかねえ雰囲気だったな。堅気にゃあ見えないな。……ハンターか?」
魔物や害獣退治の専門家ことハンター。彼らは武装し、古参ほど只者ではないオーラをまとっている。
男がマスターに顔を向けると、グラスを用意していた彼は肩をすくめた。
「独立傭兵なんだそうだ。仕事を探して放浪しているんだろう。名前はラトゥン――」
そう、とマスターは眉間に皺を寄せた。
「ラトゥン・サンダー」
・ ・ ・
「な、何故だ――」
神殿騎士サンドルは聖なる加護を受けたブロードソードを構え、震える声を出した。
「聞いていないぞ、こんなところに『暴食』がいるなどっ!」
夜だ。白銀の鎧をまとう神殿騎士は、闇に溶けるようにいるそれを睨みつけ、しかし全身に得体の知れない寒気を感じて、震え上がる。
対峙しているそれは、黒い体をしていた。盛り上がった筋肉。がっちりした体躯だ。目が黄色くギラリと光る。人型ではあるが、明らかに人間のそれと異なる。
ハンツ村を前にした神殿騎士一行の前に、黒いそれが突如現れた。護衛の自動人形兵を剛力を以て破壊すると、サンドルの相棒である神殿騎士フィメを、隆起した左腕で捕まえ、バリバリと喰らった。
鎧が、骨が、砕ける嫌な音が辺りに響いた。人肉を餌にする魔獣の如きそれは、経験の浅い神殿騎士には刺激が強すぎた。
萎えそうになる心。しかし自分は、儀式によって加護を受けた騎士であることを、サンドルは思い出す。そうとも――
「こっちは神殿騎士だぞ! 大いなる神の加護を授かった神殿騎士なんだぞ!」
自らを鼓舞するように、サンドルは吠えた。
「神聖力、解放ッ!」
加護の力が、人を超えて、魔を打ち払う力を引き出す――
グン、と暴食の悪魔が飛びかかってきた。その速度は、サンドルの目は捉えたが、体が反応できなかった。
悪魔の左腕から、剣の束が生えるように飛び出す。暴食は右手で、左腕の束――剣を抜いた。サンドルの魔法金属で出来た超硬度の鎧が、真っ二つに避けた。
「なっ――!」
『悪魔に魂を売って手に入れた力とは、そんなものか?』
低い声が、耳朶を打った。
暴食がギラギラと輝く目で、サンドルの瞳を射貫く。
悪魔? 何を言っているのか――体を裂かれたサンドルは声を引き絞る。
「あ、悪魔は、貴様、だろうに――!」
肺から空気が抜け、いや、すでに呼吸もおぼつかず、サンドルだった死体が地面に落ちる。
暴食の悪魔は、無感動に骸を見下ろす。
『俺を悪魔にしたのは、お前たち聖教会だ』
すっと、悪魔だったそれが人の姿に変わる。黒い外套をまとうその男は、村の酒場で酒を飲んでいた独立傭兵、ラトゥン――
「俺はお前たちと違って、悪魔に魂は売っていないんだ。一緒にするな」
ラトゥンは左腕のみ悪魔の腕のまま、サンドルの死体に近づける。するとまるで食事を前にした犬のように、身震いしたか思うと左腕が上下に割けて――次の瞬間、死体を喰らった。
まるで左腕が別の生き物のようだった。がっつく左腕の獣はあっという間に餌を喰らい尽くし、対して、ラトゥンは冷めた目でそれを見ていた。
神殿騎士だったものを取り込むと、左の獣は腕に戻った。ラトゥンはしばし右手で、左腕を押さえる。
「……同族の味はうまいか、暴食」
大いなる神を信仰する聖教会。魔物や悪魔を狩り、人々の平穏なる生活を守る神殿騎士――糞くらえだ、とラトゥンは思う。
忘れもしない。あの日のことを。
正義と信じていた聖教会の実態と、悪魔狩りの真相。貶められて、ラトゥンは真実を知った。故にその人生は反転し、今に至る。
「見ていろ。聖教会の悪魔どもを、俺が残らず喰らい尽くしてやる……!」
これは、ある報復者の物語――