俺と陽葵が新幹線の中でお弁当を済ませて、小田原を通過したところで、充電器をリュックにしまって、荷物を降ろして降りる準備をした。
「東京から40分程度だから、早いよね。忘れ物がないようにしないと…。ようやく、ゆっくりと食事ができたからホッとしたよ。」
「わたしもそれは同じだわ。延岡理事たちがいると慌ただしくなるから、食事ができなかったわよね。40分ぐらいの新幹線なんて、あっという間よ。荒巻さんが言っていたけど、熱海なら観光向けの特急があるけど、そんなのを使ってしまうと、後で色々と誤解が出てきて面倒だから、新幹線を使うのが道義上では正解だと言っていたわよ。」
「まぁ、荒巻さんの言うとおりだろうね。財布を忘れている寮生が、家路に帰れずに途中下車をして途方に暮れているのに、財布を届ける人間が、観光用の列車に乗り込んだら怪しまれるよ。それで、普通の電車に乗って時間をかけるのも怪しまれる。」
本来なら陽葵の家に寄らなければ、もう少し早く着いたし、俺が単独で行くのであれば、タクシーなどを使わずに大学の近くの駅から電車に乗るから、もっと早く着いたはずだ。
「そうよね。観光に来たわけじゃないもの。棚倉さんは、財布やバッグを忘れているから、途方にくれているわよ。わたしがそんなミスをしたら、観光どころではないわ。」
そんなことを話しているうちに、新幹線は熱海の駅に着いた。
俺と陽葵は熱海の駅を降りて、新幹線の改札を出たところで、棚倉先輩に電話をかける。
「先輩、熱海に着いて、いまは新幹線の改札口にいますよ。」
「すまない。三上、それに陽葵ちゃんも、本当に助かった。お前は命の恩人だ。ううっ…。今からそっちに行くからな。それと、陽葵ちゃんにも彼女を紹介したい。」
それで、棚倉先輩の電話は終わったが、俺は状況を察して、陽葵に話しかけた。
「陽葵、棚倉先輩は彼女さんを俺たちに合わせるつもりだぞ。」
「えっ!。そうすると、棚倉さんは、彼女さんにも助けを呼んだのよね?」
「ここから名古屋までは2時間ぐらいかかるから、熱海で落ち合ってデートの予定だったけど、財布がなくてオジャンになった感じだと思うよ。たぶん、先に棚倉先輩が熱海に着いて、お昼まで少し熱海を満喫して、その後、彼女さんと午後に落ち合ったと思う。」
「どうして、恭介さんはそう思ったの?」
陽葵は少し不思議そうにしている。
「棚倉先輩は、財布を寮に置いてきた事を、遊覧船に乗っているときに気付いたけど、お袋さんと彼女さんに電話をして怒られたと言ったからだよ。先輩が彼女さんに電話をした時、彼女さんは新幹線の中だった可能性が高いと思う。」
俺の推察を聞いて、陽葵はとてもニコリとしている。
「恭介さんは鋭いわ。その通りだと思うわよ。わたしたちが新幹線の切符を買った時は、彼女さんは新幹線の中だったということよね。それで、私たちよりも彼女さんのほうが早く着いたのだわ。感動的な再会というよりは、棚倉さんは彼女さんから、棚倉さんが財布とバッグを忘れるほどに無理をしているから、怒られたかも知れないわよ。」
「陽葵、そういうことだと思う。彼女さんは帰りの切符まで往復で買ったかも知れないけど、棚倉先輩までの切符を買うだけのお金が無かった…ってオチかな。学生だとクレジットカードを持っているのは微妙だからな。」
「そうよね…。恭介さんは、そういうところが鋭いから凄いわ。でもね、わたしはチョッとだけ緊張をしているわ。恭介さんは何度か会っているのは知っているけど、わたしは初対面よ。」
「棚倉先輩の彼女は、とても穏やかな人だよ。そうだね、例えるなら、全く怒らない高木さんみたいな人かな。」
「それなら、わたしも話しやすいわ。棚倉さんが必要以上に高木さんに怯えてしまうのは、そういうこともありそうよね?」
「うん、それは言えているかも。棚倉先輩の彼女さんは、東京に用事があったついでに、寮に寄ったりしているから、松尾さんや荒巻さん、それに俺やバイト勢を含めて、顔見知りみたいなところがあるからさ。」
それを聞いて陽葵はかなり安心をしていたのだ。
そんな話を陽葵と話をしながら、新幹線の改札前で棚倉先輩を待っていると、棚倉先輩の隣で、とてもお淑やかな女性が苦笑いをしながら、こちらにやってくるのが見えた。
陽葵は、それを見てクスッと笑っている。
俺と陽葵を見つけた棚倉先輩は、泣きそうになりながら、俺と固い握手を交わした。
彼女さんとも俺は軽く挨拶を交わす。
「三上よ。お前は命の恩人だ。このまま彼女と一緒に、熱海で野垂れ死ぬところだった。」
俺と陽葵は、棚倉先輩に財布とバッグを手渡して、一声かけた。
「先輩、彼女さんがいて良かったですよ。私はホッとしました。ただ、寮に財布を置いてしまったことに早く気づいていれば、展開が変わったのに…。」
「お前は、俺が説明する前から気づくのが早すぎる。そうそう、陽葵ちゃんに紹介するよ。俺の彼女の大久保加奈子さんだ。」
陽葵と彼女さんが互いに自己紹介をすると、棚倉先輩の彼女の加奈子さんからお礼を言われる。
「三上さんも、陽葵さんもありがとうございます。新幹線に乗っていて、結城さん(棚倉先輩)から財布を寮に忘れたなんて電話がかかってきた時に、とても吃驚してしまいました。彼は一つのことに集中すると、他の事がおろそかになるから、常日頃から気をつけて欲しいと言っていたのに…。」
「私も、寮生から財布とバッグを部屋の入口に置きっぱなしだと報告を受けて、みんなで頭を抱えましたからね。先輩は、俺と陽葵が来なかったら、彼女さんの帰りの切符の払い戻しをした上で、2人の残金を合算して、在来線で行けるところまで行って新幹線を少し使う手段か、それか割安な高速バス、最悪はそのまま在来線で、死ぬほど時間をかけて、翌朝になる覚悟で帰るか…でしたよね?。」
それを聞いて、加奈子さんは、最初は上品に笑っていたが、次第に笑い転げてしまっているから、俺はその扱いに困ってしまった。
「ははっ!!。三上さんは流石だわ!。結城さんから聞いていた通りの人だわ。わたしも、そのことを新幹線の車掌さんに尋ねて、結城さんに残金はいくらなのと、聞くまくっていたのよ。三上さんは癖があるけど、凄く頭の切れる理系の人と聞いていたけど、それがすぐさま出てくるのはチョッと凄いと思うの。」
それをジッと聞いていた棚倉先輩が助け船を出す。
「三上よ。マジにお前は雑学が豊富で、金がない寮生が割安で実家に帰る話を色々と聞かされることが多いせいか、鉄道マニアでもないのに、即座にそれが浮かんでくるから凄い。普通の人は、この状況だと慌てるから、良案なんて、すぐには浮かんでこないぞ。」
俺は話が切れるのを待って、とりあえずは寮に無事に棚倉先輩に財布とバッグを届けたことを、報告しようと携帯に手をかけたところで、棚倉先輩に声をかけられた。
「そうだ、すぐに帰るではない。まずは礼がしたいから、この駅の近くの喫茶店に入ろう。」
もう、この時点で、俺も陽葵も、棚倉先輩の家に泊まることが、ほぼ確定だと察した。
「とりあえず、寮のみんなが心配しているから、棚倉先輩と合流できたことを報告させてください。無論、彼女さんの件は伏せますからね。」
棚倉先輩や加奈子さん、それに陽葵も笑顔でうなずいている。
俺が寮に電話をかけると、真っ先に松尾さんが電話に出た。
「松尾さん、無事に棚倉先輩と合流して、バッグと財布を手渡したところです。」
「三上君、良かったよ。その後、どうなったのか、また報告してくれ。私は棚倉くんが心配だから、二人が名古屋まで送ってくれたほうが、安心するぐらいだよ。」
「分かりました。まだ、合流したばかりなので何も決まっていません。この後、近くの喫茶店で、休憩がてら、お茶を飲もうとしているのですが、十中八九、そうなるでしょうね。」
「ははっ、そうだろうね。分かった。連絡を待っているよ。」
「そうそう、三上君、熱海に無事に着いたことは、私から霧島さんの家に電話を入れるから、霧島さんは何もしなくて大丈夫だからね。」
「分かりました、本人に伝えておきます。」
そう言って電話を切ると、皆が、全ての仕事を終えたような気分になって、安堵の表情を見せている。
とりあえず、陽葵に松尾さんから言われたことを、すぐ伝えることにした。
「陽葵、熱海に着いた話は、松尾さんが家に伝えるそうだから、大丈夫と言っていたよ。」
「分かったわ。うちの両親も、恭介さんには、あのように言っているけど、とても心配しているのが、よく分かるの。たぶん、松尾さんがウチに電話をかけたほうが、親にはリアルに伝わるから、余計に安心すると思うわ。」
その会話が終わるのを待って、棚倉先輩は俺と陽葵に声をかける。
「三上、すまぬな。電話に出たのは松尾さんか?。とりあえず行こうか。これで、彼女やお前たちにも、飯を奢ることができるから。」
そんなことを棚倉先輩が言うと、加奈子さんが早速、突っ込んだ。
「もぉ、結城さんはメンツにこだわりすぎよ。午前中の早いうちに年末最後のゼミがあったから、熱海に来るのが、こんな時間になっちゃったし。あの時の電話で、往復の新幹線代だけで良いからなんて言うから、私も油断したわ。年末にゼミの忘年会があるから、お金を必要最低限しか持ってきてなかったから、とても後悔をしているのよ。」
俺と陽葵は思わず目を合わせて、クスッと笑ってしまっていた。
加奈子さんが棚倉先輩へ的確なツッコミを入れている時点で、これは棚倉先輩は頭が上がらないだろうと確信していた。
棚倉先輩の将来的な奥さんとして、完全に適性であるだろう。
「うぐっ、加奈子、ほんとうにすまない。お前がいなかったら、俺は気持ち的に、かなり萎えていたから…」
陽葵はそこで、棚倉に言うべき事を考えていた。
この場合、恭介が何か言う前に、自分が本音を言えば、上手くこの場を丸めることができると考えたのだ。
どう考えても、力関係は棚倉よりも加奈子さんの方が上だから、加奈子さんが納得すれば、こっちのものであると陽葵は考えた。
陽葵は、ある種の笑いをこらえながらも、棚倉に自分が考えている事を吐いた。
「…クスッ…。棚倉さんは、加奈子さんがいなかったら、生きていけないかもしれないわ。加奈子さんは棚倉さんをシッカリと支えてくれているから、わたしも安心して見ていられるの。棚倉さんは、もっと加奈子さんに頼っても良いのよ。恭介さんは、1人で頑張っちゃうところもあるけど、わたしを頼りにしてくれている部分が多いわ。」
陽葵に、軽く説教された形になった棚倉先輩だが、陽葵にも頭が上がらない彼は、逆らいようもないから、下を向くばかりだ。
それを聞いて、笑顔で喜んだのは加奈子さんである。
「陽葵ちゃん、よく分かっているわ!!。そうなのよ。もぉ、結城さんは、もっと、わたしに頼って欲しいのよ。」
そこから陽葵と加奈子さんは、喫茶店まで歩いている最中に女同士の話で盛り上がっているが、それを横目に、うなだれていた棚倉先輩が溜息をつきながら、俺に小声で本音を吐く。
俺も無論、棚倉先輩の返事は小声だ。
「三上よ、やっぱり男は嫁の尻に敷かれた方が、家庭は円満だろうな…」
「先輩、そういうことですよ。俺は陽葵に敵いませんからね。陽葵も怒ると怖いですから。」
「それはよく分かる。お前も新島も、加奈子も陽葵ちゃんもそうだが、お前たちが怒ると、俺はなぜか縮こまってしまう。ああ、高木さんは例外だがな。」
この場にいる人物は、棚倉先輩が耳を傾ける、唯一の人物が寄り集まっているわけだから、先輩は財布やバッグを忘れた件もあるし、大人しくせざるを得ないのである。
陽葵は加奈子さんから、味噌カツやひつまぶし、喫茶店のモーニングなどの話を聞いているから、もう、先輩の家で泊まることは決定しているのだろう。
今は名古屋城や、動物園、観覧車が建物に張り付いているような場所がある話をしているが、俺は知らないフリをして軽くスルーをしていた。
女性陣は、そんな会話をしているから、棚倉先輩の愚痴などは耳にも入ってないだろう。
これが、教育学部の山埼さんのような地獄耳じゃなければ、普通の人間では聞こえていないのが確実だ。
そんな話をしていると、駅前の喫茶店に着いて入ると、とりあえず座ってコーヒーやチーズケーキを食べながら4人でひと息を入れる。
そうすると、加奈子さんが苦笑いをしながら、本音を俺たちに吐く。
「これで、やっと座れたのよ。三上さんたちに、何かあって来られなくなった場合に、結城さんが帰れないから、極力、お金を使うことを避けていたの。だから、指をくわえながら駅の周辺をぶらりとしただけで留まっていたから疲れてしまったの。」
「加奈子さん、それはお疲れさまです。なんだか、こんな良い所に来たのに、このまま、とんぼ帰りじゃ辛いでしょうから、足湯とロープウェイでも乗って帰りたい気分ですよね。あっ、私たちは構わないで下さいね。」
陽葵は、俺の言葉に激しくうなずいている。
できれば、先輩の家などに泊まらずに、俺も陽葵も、このまま帰りたい本音があるからだ。
その場合は、先輩から財布を忘れたことを聞いた彼女さんが、慌てて熱海までわざわざ来たから、彼女さんに任せて安心して帰ったと説明すれば、皆は、とても安心をするだろう。
棚倉先輩に彼女がいることは、松尾さんや荒巻さんたち、それに寮の幹部やバイト勢は知っているから話が早い。
「三上よ、それに陽葵ちゃんも、俺も加奈子の命の恩人だ。お前たちが、このまま帰ってしまうのは、命の恩人に対して失礼だ。どちらかというと、俺もそうだが、加奈子のほうが、その意思が強くてね…」
『まずいな、これはマジにまずいな…』
俺と陽葵は、この展開を予想しつつも、とても厄介なことになったと感じていた。