松尾さんの奥さんが電話を終えると、一旦、溜息をついて、一呼吸を置いてから皆に電話の内容を説明をした。
「三上くんの言うとおり、棚倉くんは熱海にいるわ。遊覧船に乗っている時に、財布がない事に気づいてここに電話をしてきたの。まだ、2時間ぐらいは熱海にいるつもりだったらしいけど、相当に慌てているわ。とにかく私から、誰かが財布やバッグを届けに行くから、詳しいことは後で伝えるからねと、一旦、電話を切った状態よ。」
その松尾さん奥さんの話で、荒巻さんは決断をする。
「三上くんと霧島さんは、新幹線で熱海まで向かってくれ。棚倉くんが自分の家に泊まれと言ってきたら、三上くんが断ろうとしても、彼の性格だと厳しいだろうね。とりあえず2人には、予備費からホテルの宿泊費まで含めたお金を一旦、預けるから、できる限り領収書を貰って欲しい。」
「荒巻さん、分かりました。ただ、俺も陽葵も一旦、泊まる支度を…。」
そこまで俺が言いかけたところで、良二と宗崎が寮に遊びに来たが、それと同時に、バイトをまとめていた北里が深刻そうな顔をして受付室に入ってきた。
『そういえば、良二と宗崎に、午後からにしてくれと、昨日、俺が言ったからか…。俺たちはこの事態で昼飯が食えていないけど…』
「三上、それに小笠原さんも食堂に来てくれないか?、バイトの数がいなくて、人手がどう考えても足りないから困った…。」
すかさず、良二が北里に声をかけた。
「あれ?、文化祭の時に、大宮くんや、竹田くんと一緒にいた北里くんだよね?。そんなに寮のバイトの数が足らなくて深刻なら、俺たちが手伝おうか?。三上やここにいる人は、どう考えても会議中だから手が離せなさそうだ。」
宗崎も良二の言葉に笑顔で乗る気が満々だった。
「三上や奥さんが忙しそうだから、俺も手伝うぞ。バイトでも受付でも俺たちを使ってくれ。マジに大丈夫だから。」
それを聞いて俺は手放しに喜んだが、まずは事情をザッと話すことにした。
「良二も宗崎もありがとう。実は、今日、棚倉先輩が実家に帰ったけど、寮に財布とバッグを忘れる致命的なミスをやらかして、途方に暮れていてね。そこで、誰がどのように財布やバッグを届けるのか、皆で話し合っていたんだよ。」
それを聞いた2人はポカンと口を開けて、良二がすかさず突っ込んだ。
「恭介や、それは非常事態だぞ。棚倉さんは名古屋のほうだから、奥さんと一緒に追いかけるのか?。絶対に棚倉さんは、帰れなくて死にそうな顔をしているよな?。それで、みんなは深刻そうな顔をしていたのか?」
「良二、それでビンゴだ。先ほどそれが発覚して、いま、どうするのかを、具体的に話し合っていたんだ。」
荒巻さんはニコリと笑って、良二と宗崎に先ずは声をかけた。
「本橋くんも、宗崎くんも、三上くんが明日まで不在になると思うからすまない。できれば、バイトや受付を明日だけとは言わず、暇な時間があれば手伝って欲しい。バイト代は小笠原くんを含めて弾むからね。ちなみに、棚倉くんは途中の熱海で財布とバッグを忘れたことに気づいて、熱海の駅の周辺で途方に暮れている。たぶん、三上くんと霧島さんは、今日は帰りが遅くなるから棚倉くんの家に泊まるだろうね。」
それを聞いた良二と宗崎は、とても気の毒そうな顔をして、今度は宗崎が口を開く。
「それは、とてもまずいな。三上と奥さんは、すぐに棚倉さんに財布とバッグを届けないと…。俺たちは寮のバイトの手伝いなんて喜んでやるから、そんなことは気にしないでくれ。とにかく、棚倉さんに財布を届けに行ってくれ。今から急がないと、棚倉さんの帰りが遅くなってしまうだろうから。」
「本当に良二も宗崎も、凄いタイミングできてくれて、助かった。そのお礼は何処かで返すからな…。」
「恭介や、そんなのは要らないよ。荒巻さんがバイト代を弾むと言ったお陰で、こっちは年末の出費がかさむ中で、収入が入ってくるから喜んでいるのさ。このあたりは、俺たちにとって三上と奥さんは神様だから。奥さんと一緒に棚倉さんのところへ急いで行ってこいよ。棚倉さんは涙もろいから、いまごろ、熱海の駅前で泣いているかも知れないぞ。」
良二がそう言うと、宗崎と北里と一緒に、食堂へ行ってしまった。
「三上くんと霧島さん。とりあえず、松尾さんに今の件を報告するから、待っていてくれ。それと、霧島さんの家には私から電話をかけるからね。霧島さんはまだ、家に電話をかけないように。小笠原くんは棚倉くんや三上くん、霧島さんとの連絡に備える意味でも、受付を夜まで続けてくれ。」
荒巻さんは、そう言うと、松尾さんの奥さんと一緒に、松尾さんの家に駆け足で行ってしまった。
その間に、俺や陽葵、それに小笠原先輩も松尾さんが持ってきたお菓子で、少しだけお腹を満たした。
少しだけお腹を満たしたところで、小笠原先輩が俺に問いかける。
「三上。昼飯抜きなのはチョイとキツいよな。お前が夕飯抜きで、延岡理事の為に動かされていた気持ちが分かるよ。まだ、ケーキとワッフルで、何となく腹が満たされているからマシだけどさ。」
「小笠原さんも、わたしと同じ事を考えていたのね?。どこかでご飯を食べようと思ったけど、抜け出せる時間がなくて困ってしまったわ。これから熱海まで行くけど、もう、1時に近いわよね。」
「陽葵ちゃん、マジに困ったよ。今年は居残り組が少ない上に、棚倉の馬鹿に振り回されて、俺たちは生殺し的に昼飯が抜きなのかと…。お前たちのほうが、もっと可哀想か…。」
「うーん、延岡理事は、話が長くなってしまうから怖いんだよ。とにかく、バイトが少ないのは少し問題ですよね。」
「三上さ、寮の予備費が今年はかなり余っていたから、居残り組が少なかったこともあるよな?。松尾さんは、今年は、いつも長期の休みに家に帰らないヤツを中心に、今度の正月は家に帰るか?なんて、聞きまくっていたし。」
「それはあると思いますね。だから、バイトの人数が想定よりも足らなくなったのですよ。今日は諸岡と、俺と陽葵が欠けた上に、バイトのベテラン格の先輩が受付に回ってしまっているから、北里から悲鳴があがるのは当然ですし。」
「しかし、この非常事態で、お前の同期の友人が来てくれて手伝ってくれるから良かったよ。それだけでも、相当に違うし。」
「俺もホッとしています。どうも、この寮に来るのが、惰性になってしまっているから、俺が24日に帰ったらどうなることやら…。」
そこに、陽葵も会話に参加してくる。
「ふふっ、それは大丈夫よ。さっき、荒巻さんや寮母さんの会話が少しだけ聞こえていたけど、2人は年末や正月早々は抜きにしても、28日ぐらいまでは受付やバイトに参加するそうよ…。」
「うーん、なんだか申し訳ないことになったなぁ。それにしても腹が減ってますけど、新幹線の中で飯を食べるから、そこまでは落ち着けないかなぁと。」
小笠原先輩と陽葵を交えて、そんな雑談をしていると、陽葵の携帯が鳴って、陽葵が少し面倒そうに電話に出た。
明らかに、陽葵の母親からの電話だろう。
俺の隣に陽葵が座っているから、かすかにお母さんの声が聞こえるが、棚倉さんが困っているから直ぐに行っておいで、俺がいれば絶対に大丈夫だし、陽葵は色々な家の話を聞いて、俺と一緒に見てこい…、なんて、言われているようだ。
それを陽葵は、それに口答えもせずに、素直にうんと聞きながら話を進めていたが、電話が終わると、陽葵が俺に電話の内容を伝えた。
「うちのお母さんからだったわ。棚倉さんの家に泊まる事になっても、それはOKと言っていたわ。荒巻さんは、タクシーを手配して、とりあえず私の家に寄ってから、あの大きな駅まで行くつもりよ。私が泊まる支度を、お母さんが私の代わりにしているみたい。」
それを聞いた俺は慌てた。
「陽葵、ちょっと俺の部屋に行って、泊まる準備をしてくるよ。できればリュックに詰めた方が動きやすいだろうから。」
俺が席から立ち上がろうとすると、荒巻さんが松尾さんと延岡理事、それに延岡さんと一緒にやってきた。
まずは、松尾さんから俺と陽葵に声をかけた。
「三上くんと霧島さん。棚倉君が大変なことになっているから、すぐに財布とバッグを渡しておいで。今日はとんぼ帰りだと、深夜になってしまうだろうから、棚倉くんが三上くんと霧島さんに泊まっていくように声をかけられれば、受けて構わないからね。それでなくても、何処かのホテルに泊まるように。これは安全上の理由からだよ。棚倉くんに会ったら怒らないで、いたわるように。プライドの高い子だから、とても反省している筈だから。」
そこに、荒巻さんが続けて陽葵に声をかける。
「霧島さん、お母さんが電話に出てお話をしたけど、二つ返事で承諾したからね。いま、タクシーを手配したから、じきに寮に来るはずだから。まずは霧島さんの家に行って、そのまま駅に向かってもらう。タクシー代は、延岡理事の指示で大学請求になるから、気にしないで。あとは、切符や新幹線の領収書を窓口でもらっておいてくれ。お釣りはあの時のように返してくれればOKだから。霧島さんはシッカリしているから安心しているよ。」
「荒巻さん分かりました。あの要領でやれば良いから、シッカリやります。」
陽葵がそう言うと、荒巻さんは銀行の紙袋に入ったお金を陽葵に渡したが、その額が大きかったので少し手が震えている。
「とりあえず、ホテルの宿泊費も想定して、余分に渡してあるけど、くれぐれも失くさないようにね。その時点で2人が途方に暮れてしまうから…。棚倉くんの家に泊まらず、ホテルに泊まるようなら、領収書も忘れないように。」
「分かりました、気を引き締めて頑張ります。」
陽葵が荒巻さんの言葉を受けてそう返すと、今度は延岡理事が俺の目を見た。
「三上くん、これは、松尾さんと折半だけど、もうお昼も過ぎているし、食事代を兼ねて、帰りは2人で観光でもしてきてくれ。お釣りは要らないから、気にしないで使ってくれ。」
そういうと、咄嗟に断るような金額を手渡されたので、俺は吃驚した。
「延岡理事も松尾さんも、過分すぎますよ!!。とてもじゃないけど…」
「三上君、大丈夫だから、余れば、今後の寮生活の足しにもしてくれ。三上くんの実家に行ったときに、君が旅館との往復で送り迎えが大変すぎて、夕飯が全く食べられなかったと今更ながらに知って、その時の、ご飯代もあるから気にするな。」
そう言われると、俺も引き下がりざるを得ない…。
「いや、申し訳ないです。そういうつもりではなかったのですが…」
それについて松尾さんの口が開く。
「三上君、大丈夫だからね、君は本当に働きすぎて損をしている事が多いから、その分の見返りだと思ってくれ。棚倉君も忘れ物もそうだけど、こうやって2人が、仲間のためを思って動いてくれるのが、私としては嬉しいのだよ。」
もう、お金の要る、要らないを、松尾さんや延岡理事と押し問答をしていたら、タクシーが来てしまう。
「ありがとうございます。少し、泊まる準備をするのに部屋に戻ります。すぐに、ここに戻ってきますから。」
俺は、急いで部屋に戻って、リュックにひと晩だけ泊まる準備に取りかかって、着替えとか歯磨き、それに携帯の充電器なども揃えてリュックに入れた。
もう、お昼に近かったから、陽葵がお腹を空かせないように、ペットボトルのお茶と、お菓子をリュックに入れて、用意を終えると、部屋の鍵を締めて受付室に急いだ。
もう、タクシーは寮の玄関の目の前にきていた。
小笠原先輩は棚倉先輩のキャリーバッグを持っているし、陽葵は棚倉先輩の財布をバッグにしまっている。
「恭介さん、タクシーが来たから乗るわよ。棚倉さんのバッグを恭介さんは持ってね。私は棚倉さんの財布を持ったから大丈夫よ。」
俺は小笠原先輩から棚倉先輩のキャリーバッグを受け取ると、タクシーに乗り込む。
玄関には小笠原先輩をはじめ、松尾さん、松尾さんの奥さんに、荒巻さん、延岡理事、延岡さんや、北里、良二や宗崎がいるから苦笑いをしていた。
俺と陽葵はタクシーから皆に手を振って、皆と別れたのである。