棚倉先輩は少し多い荷物を俺の車のトランクに乗せて、後部座席に乗り込んだところで、松尾さんと小笠原先輩が棚倉先輩を見送るために駐車場まで来た。
俺の車を見た小笠原先輩が少しだけ羨ましそうに声をかける。
「三上はスプリンタートレノのAE111か。いいなぁ…。」
「まぁ、先輩、そんなところですよ。とりあえずは、寮に戻ってから、夕飯時にゆっくりと話しましょ。」
「そうだよな、今は棚倉を無事に送り届けることが先決だしな。くれぐれも頼むぞ。」
棚倉先輩は窓を開けて、松尾さんと小笠原先輩に挨拶をした。
「松尾さんと小笠原も、心配をかけてすみません。正月明けにはしっかりと体調を整えますから。」
2人は笑顔で手を振って棚倉先輩を見送った。
俺は車の中で、運転中に棚倉先輩に声をかける。
「先輩。新幹線は、のぞみで直行ですか?」
俺の問いに棚倉先輩は、苦笑いをしながら答えた。
「いや、ノンビリと、こだまで帰ろうと思ってな。乗り過ごしても大丈夫なように、ある意味で対策を練っているわけだ…。」
「先輩、それはアリかも知れません。さすがに無理をしすぎですよ。今日は朝食を食べようとしたら、小笠原先輩と北里がいて、棚倉先輩の尻拭いで、小笠原先輩が相当に嘆いていましたからね。」
「そうだな、小笠原には命を救われたような想いだよ。ほんとうに迷惑をかけた。」
余談だが、棚倉先輩と小笠原先輩は、今は大学の近郊に住んでいるので、今でも、たまにぶらりとサシで飲みに行くような仲らしい。
どうやら、先輩同士の家族は、家族ぐるみで付き合いがあるようだが、小笠原先輩は俺に会いたがっているような事も話していたとか。
ただ、大学教授と一般社会人では、時間がなかなか合わないから、ごくたまに2人でサシで飲むのが精一杯なのだろう。
話を戻して…。
棚倉先輩は、さらに話を続ける。
「いやな、かなり早く寮を出たのは、途中下車をして、熱海あたりでリフレッシュして、ゆっくりしてから帰ろうと思っているのだ。どのみち今日は親が帰ってくるのが遅いから、夜の9時頃じゃないと誰もいないのだよ。下手をすれば、もっと長引く場合もある。」
「それは良い考えですよ。そういえば、先輩の家は、父親は水先案内人で、母親は看護師でしたっけ?。水先案内人だと、家にいない日のほうが多そうですよね。」
「その通りだよ。母親は看護師で仕事が不規則だから、それに合わせた時間だ。親父のほうは、もう、いつ家に帰れるか分からないし、それなら、母親の勤務先の病院を考えて、交通の便が良い都市部に俺が小さい時に引っ越してしまったのだよ。」
棚倉先輩は、そこまで俺に話すと、眠そうにあくびをしている。
「先輩、お疲れですよね。無理は禁物ですよ。熱海だと、足湯は良いかも知れませんね。ロープウェイもあるし、遊覧船とか、熱海城もありましたよね?。あそこは、秘宝…、いや、なんでも…ないです。勘違いしました。」
俺は秘宝館という、日本では希少価値になってしまった、ちょっと古風でエッチな空間があることを、とっさに取り消したが、陽葵は、とてもピュアすぎて、そういう知識に欠けるのは明らかだし、棚倉先輩は、俺の言いかけに突っ込むほど体力に余裕がないことが幸いした。
棚倉先輩は、相当に疲れているから、そんな場所を見に行く余裕なんて皆無だろうし、俺も意地悪が過ぎたと思って、咄嗟に取り消したのだ。
仮に先輩が、俺の言葉を信用して秘宝館に行ったとしても、後から色々と文句が出たに違いない。
『三上よ、お前は時々、俺を罠にはめて悪戯心を出すのは止してくれ。アレは飲み会の話のネタになるが、色々な意味で酷かったぞ。』なんて、棚倉先輩から言われるのがオチだろうから、今はそれを封印することにした。
それでなくても、棚倉先輩の野暮用で都内にて所用があった時に、新島先輩と俺が棚倉先輩の同行を頼まれて、そのついでに悪戯心で某所にある寄生虫館に入り込んで、その後、棚倉先輩から散々に文句を言われた記憶がある。
『お前は理系だから、科学的な観点から、こういうのをマジマジと見ても、興味深く面白がって見られるだろうが、俺は気分が悪くて仕方なかったぞ。俺がゴキブリとか虫系がダメなのを知っての犯行か??』
あの時は、新島先輩がお腹を抱えて笑いながら、棚倉先輩の追求を回避してくれたが、今はそういう犯行に及んでも、怒った棚倉先輩から俺を庇ってくれる人間がいない。
新島先輩は、棚倉先輩が寄生虫の模型やホルマリン漬けなどをみて、かなり怯えていたのをみて、館内で笑いを堪えるので精一杯だったのだ。
その後、新島先輩から『よくぞ、棚倉先輩をこらしめてくれた』と、かなりの勢いで褒められて、後日、都内にある寿司の食い放題の店に連れて行ってもらった記憶がある。
さらに、その翌日には、万遍の笑みを浮かべた新島先輩から、焼肉を驕ってもらったから、相当に痛快だったのだろう。
その際に、俺が『あれは、知らなかった方が良かった世界ですから』なんて言うと、新島先輩は焼いていた肉を真っ黒く焦がすほどに、お腹を抱えて笑っていたのだ。
それは置いといて…。
棚倉先輩は少し嬉しそうに、俺に話を続けた。
「さすがは三上だな。そういう知識がお前は豊富そうだしな。そんなところを巡って、親と彼女にお土産でも買ってから、帰ろうと思ってな。新幹線は熱海までしか買ってなくて、このポーチに観光を満喫するだけのお金を入れて、時間まで休もうと思っているのだ。」
「それで良いですよ。たまには頭を切り替えないと。このままでは、院試が終わるまで、小笠原先輩は棚倉先輩の尻拭いを永遠とする羽目になりますからね。」
「ふふっ。棚倉さん、それなら、わたしも安心しましたわ。新幹線の中で寝てから、熱海でリフレッシュして下さい。なんか羨ましいわ。恭介さんも同じだけど、途中で魅力のある観光スポットに寄ってから家に帰るなんて…。」
そんな俺と陽葵の言葉に、棚倉先輩は申し訳なさそうにしている表情が、ルームミラーからでも分かった。
「三上や陽葵ちゃんも、心配をかけてすまない。いやな、俺は家庭教師のバイトをやっているから、少し金に余裕ができたこともあったのだよ。新島がいるときは、アイツと一緒に帰って、俺の親が家にいない時は、新島の家で、両親と一緒にご飯を食べながら過ごす事も多かったからな。」
新島先輩と棚倉先輩は、同じ高校の先輩・後輩の仲だし、親同士も知っている仲だったから、棚倉先輩が新島先輩の家にいても、一向に気兼ねがないのは、新島先輩から聞いた事がある。
「そういえば、この前、また、新島先輩から電話があって雑談をしていましたけど、今は隔離病棟から退院しましたが、少しだけ咳き込んでましたから、チョイと心配ですよ。退院直後よりはマシですけど…。」
「その通りだ。新島は、ほんの僅かだが、他人に結核をうつすリスクがありそうだから、2月も半ば頃になって、俺が大学の用事がなくなって相当に暇になったら、家に来いと言って聞かない。だから、この正月休みは、新島の家に寄れないのだ。俺も暇だから、院試の勉強の合間に彼女とデートをするぐらいだしな。」
「棚倉先輩は院試を控えているから、余計に新島先輩が気を遣っているのではないでしょうか?。大切な時期に結核なんてうつしたら、完全に新島先輩の責任になってしまいますから。」
「うむ。それはありそうだ。その辺は新島らしいな…。」
そんな話をしていたら、少し大きな駅まで着いたので、俺は駅前にある、コインパーキングに車を駐めた。
心配なので、棚倉先輩を改札口まで見届けようという算段だ。
陽葵はそれに暗黙の了解で大賛成をしている感じがしたので、想いは同じだったのだろう。
俺と陽葵は棚倉先輩を駅の改札まで見届けて、寮に戻るために車に乗り込むと、陽葵が嬉しそうな表情をしている。
「陽葵、どうしたんだ?。なんだか嬉しそうにしているから、可愛くてしかたないよ。」
「もぉ~~~♡。恭介さんったら、お世辞が上手すぎるのよ。何気ない会話で、大好きな人から可愛いなんて言われたら、わたし、舞い上がっちゃうからやめてね♡。そうよ、棚倉さんをあれだけ心配するのは、やっぱり恭介さんらしいと思って、少し嬉しくなっちゃったの。」
このカップルは、2人っきりになった途端、お互いほ大好きが止まらなくなるから、危険極まりない。
当然、皆が心配しているし、寮の受付の仕事も残っているから、このままホテルに直行して、大好き過ぎる陽葵ちゃんと、大いなる愛を爆発させるなんて無理だから、過激な言葉のキャッチボールを控える方向で、話を本題に戻す。
「まぁ、棚倉先輩が無事に家に帰るまでが心配だよ。夜になって電話をかけてみるよ。」
「そうよね、ほんとうに心配だわ。だって、恭介さんがコインパーキングに駐めた時点で、棚倉さんを改札まで見送ることが分かったから、恭介さんらしいと思ったのよ。わたしも大賛成だったわ。」
「あれは心配になるよ。だいたい、風呂に入るのに、脱衣所で服を脱がずに、全裸で寮内を歩こうとした時点で色々な意味で危ないよ。ああ、それと、諸岡は白井さんの両親の付き合いで、たぶんこのまま、正月明けまで寮に居ないよ。だから、小笠原先輩、それに、バイトをやっている北里あたりに迷惑がかかっちゃう。」
陽葵は北里と聞いて、記憶を辿ると、名前と顔が一致したようで、ハッとした表情を浮かべている。
「あっ、北里さんって、文化祭の時に、大宮さんや竹田さんのフォローに回っていたバイトの人だったわよね。あの人もしっかりしてそうだから、安心よ。」
「北里は、俺の同期だけど、大宮や竹田がいない時は、アイツがバイトのリーダーみたいな感じだ。今日は小笠原先輩と、北里と一緒に朝食を食べていて、棚倉先輩が疲れすぎている話をしていたんだ。」
「恭介さん、ところで、北里さんは、ズッと寮に残っているの?」
「そうなんだ。アイツの実家は長崎の離島で、家に帰る為の旅費の問題がある上に、なかなか家に戻るのが面倒でね。夏休みに実家に帰って、寮に戻ろうとしたら、台風と時化で船が動かずに、2~3日遅れたなんてこともあったし。正月や春休みの短い休みだと、寮に残っていた方がマシと言い切っているからさ。」
「…それは…、北里さん、かなり大変そうよね…。」
「寮生の中にはそういう奴もいるし、家庭がギスギスして、家に帰るのを躊躇っている奴もいるし、諸岡のように不憫な寮生もいる。」
そんな話をしながら寮に戻ると、小笠原先輩が松尾さんが出してくれたお菓子を美味そうに食べながら、受付をしていた。
今は寮生の大半が実家に戻ってしまったこともあって、出入りも少ないし、寮に遊びに来るような学生なども皆無だから、受付は暇つぶしに困るぐらい時間が長く感じる。
「よっ、三上も陽葵ちゃんもお疲れだよ。棚倉は無事に電車に乗り込んだよな?」
当然の如く、小笠原先輩から声をかけられる。
「先輩も、お疲れさまです。とりあえず改札まで見送りましたよ。もうね、心配で仕方ないです。」
「俺も心配だよ。棚倉がまたドジを踏まなきゃ良いけどね。アイツが家に帰るまで気が気でならない。」
「夜になったら、私も棚倉先輩に電話をかけてみますよ。疲れている自覚があるから、随分とマシですけどね。」
「その通りだな。棚倉が帰る間際に、三上の言葉をアッサリと聞いてくれたから良かったよ。そうだ、さっき、荒巻さんと大学の理事と、学生委員長の延岡が来て、今も松尾さんの家で何か話している感じだぞ。理事が来たってことは、三上の事件の話で色々とあるのかな?」
「うーん、それは分からないです。あの事件を切っ掛けにして、延岡理事や延岡さんと密接なコネクションができたから、単に遊びに来たって線も否定できないです。でも、それがとても怖いですよ。」
「三上、お前ってマジにスゲーな。俺も文化祭の時に寮の手伝いを大宮や竹田、それに北里たちと一緒にやっていて、あのトークイベントを聞いていたけどさ、延岡や金谷とも、親しげに話して、あの手の上流階級から慕われちゃうからマジに怖いよ。」
「先輩、そうでもないですよ。この前、学生委員会の会合に出ましたけど、俺や陽葵を敵視するヤツもいるから、あの場から早々に逃げたいです。あんな意識が高すぎる上流階級すぎる輩なんて、俺としては疲れすぎますから…。」
「そうだよなぁ、あの手の輩は、ギスギスしたところもあるから、三上はやりにくいだろう。お前の見かけは、前よりはズッとマシだけど、完全にド底辺だから、あんなキラキラしたヤツと住むべき場所が違うし。」
「そういうことですよ。できれば、あの事件が解決したら、俺は学生委員会を降りますよ。面倒くさくて仕方ないです。」
そんな会話をしていると、寮監室と松尾さんの家を繋ぐ廊下のほうから、足音が聞こえてきたから、俺たちは会話を止めて誰が来るのかをジッと待った。