退院日の朝。
俺は朝食を食べ終えると、井森さんから薬を渡されて名残惜しそうに声をかけられた。
「あ~あ、この日が来ちゃったか…。ちょっとだけ寂しいけど、三上さんは絶対に頑張ってね。私から言えるコトはこれだけよ。」
井森さんの言葉にうなずくと、少しだけ笑顔を作った。
「少しだけ寂しいですけど、ネックレスを選んでもらった恩は忘れませんよ。夕方に彼女の親から食事に誘われているので、その時に渡しますから。井森さんには色々なことを含めてお世話になりました。」
俺がそう言って深くお辞儀をすると、井森さんが少しだけ涙ぐんだ。
「ぐすんっ、よっ、よしてよ!。もう、そんな水くさい言葉はナシよ!!。そうだわ、退院手続きをしちゃうわね。少し別の要件があるから20~30分ぐらい待ってね。」
井森さんは少し急ぐようにナースステーションに戻っていった。
俺はその間に着替えを終えて、バッグを持った。冷蔵庫に1つだけペットボトルのお茶があったので、それを持つとベッドのテーブルの上に置いた。
上着の胸ポケットに忍ばせていたネックレスはバッグの奥に入れた。
そのまま上着を着てしまうと、ケースが服から出っ張って細長い四角形のシルエットが見えてしまうからだ。
貴重品入れから財布や寮の部屋の鍵などを出して、最後にお見舞いをまとめた封筒を取りだして上着の内ポケットに入れると、荒巻さんが病室にやってきた。
「三上くん、少し待たせたかな?。退院手続きはどうなった?」
「看護師さんが少し待ってくれと言っていたので、病室で待機してる状況です。」
「そうか、じゃぁ、少し椅子に座って待っているか…」
荒巻さんはそう言うと、時計を見ながら少しばかり苛立ちを抑えるように待っていた。
それを見た俺は少しだけ会話をすることにした。
「荒巻さん、電話で話したとおり銀行に寄って下さいね。寮に置いとくのも不安な金額なので…」
「いやいや、三上くんのお父さんの兄弟が8人もいると聞いて吃驚したよ。それは、お見舞いも相当な数になってしまうよね。」
「お返しは母親がやってくれるそうなので一安心しましたが。あと一つ、お願いがありまして…。」
俺が言いずらそうにしているので、何かあったのかと荒巻さんは少しだけ深刻そうな顔をした。
「いや、大したことじゃないです。実は今日が霧島さんの誕生日なので、サプライズで看護師さんと協力してプレゼントを選んで一緒に買ったのですが、それを内緒にするために裏口合わせをお願いしたくて…」
それを聞いて荒巻さんは笑顔が止まらなかった。
「いやぁ、それが三上くんらしくて、とても良いよ。もう少し詳しい話を聞きたいな…」
俺は陽葵が看病をしている時に偶然に学生証が落ちたのを見て誕生日が分かったので看護師さんに相談したことや、先生から外出許可を貰って看護師さんとネックレスを選んだこと。そして、本人から誕生日を告げられたのが昨日だったから、大学に戻るときに荒巻さんと相談してサラッと買ったことへの口合わせをお願いした。
それを聞いていた荒巻さんは、さらに笑顔が止まらなかった。
「もうね、胸がキュンとするほど良い話しだよ。久しぶりに胸がほっこりとするなぁ。そんな話なんて、すぐに聞いてあげるよ。だって、入院中に買ったなんて霧島さんに言ったら、彼女の性格を考えたら、少し怒りそうだもんね。」
「そうなんですよ。あれだけ熱心に看病してくれて、抜け駆けしてプレゼントを買ったなんて言ったら、ちょっと…。」
荒巻さんは俺の右肩を優しくポンと叩いた。
「分かるよ、三上くん、そういう女性の心を上手く読むと、あとで結婚しても苦労しないよ。女心ってホントに難しいからね…。」
そんな会話をしていたら、井森さんがやってきた。
「三上さん、それに大学の職員さんも一緒にサインをお願いします。この手続きが終われば、ロビーにある退院専用の会計に回って下さい。詳しい話を聞いていますので、この会計で支払いは発生しないはずです。」
『ん?、ウチのお袋は、全額の入院費を払っているのか?。そういえば、足りなかったらお見舞いの中から出せとも言われてたな。ドタバタでスッカリ忘れていた。あっ、そうだ、お袋の親類のお見舞いを書留で貰ったから、ソレは入院費に充てるからね…なんて電話で言っていたなぁ。』
荒巻さんは俺が眉をひそめているので、詳しい話を補足した。
「ご両親が来た時に、入院費の見込み金額の全額を支払っているし、少しだけ早い退院になったから、差額は三上くんに返金にするよ。それで、大学の保険を使って医療費と見舞金がご両親の口座に振り込まれることになるから安心して。処理の関係で私はその領収書を会計から預かるからね。」
それを聞いて少しだけ安心した。
『お袋の祖父母は俺を可愛がっているから、話を聞いて入院費をお見舞いとして工面してくれたのか…。だけどお礼を言わないとマズいけど、お袋がなんとかしたのか…。』
「本当は私がやらなければいけない作業を、荒巻さん達がやって頂いて本当に申し訳ないです。」
俺は色々と思考を巡らせているのを誤魔化すように荒巻さんに謝った。
「いや、謝らないで欲しい。今回は本当に大変なコトが起こっているから異例だけど、私もこれは当然だと思っている。うちの大学側の責任が大きいからね…。」
そんな会話をしながらサインを終えると、井森さんは漏れがないかチェックを始めた。
「三上さん、それに大学の職員さん、漏れはなさそうです。これで退院手続きは完了です。彼女さんや大学の女性職員さんから家族カードは返却してもらったから大丈夫よ。」
俺と荒巻さんは立ち上がって荷物を持つと井森さんと一緒にナースステーションまで歩いた。
井森さんはちょっとだけ、涙声になりながら俺に握手を求めた。
「三上さん、頑張ってね。もう、わたしが泣いちゃうからこれでお別れよ。彼女さんと絶対に結婚するのよ!。」
「井森さん、本当にありがとうございます。あんなに気立ての良い子を貰っておいて、離したくありませんよ。彼女の誕生日になったら、しばらくはあの店に行きますから。」
そう言って、俺は井森さんと固い握手をしてナースステーションを離れた。
他の看護師さんが手を振ると、俺も看護師さんに手を振って、最後に深くお辞儀をした。
「皆さん、お世話になりました!」
そうしてエレベーターに乗ってロビーまで降りると、荒巻さんが俺に話しかけた。
「三上くんは、皆から好かれるから、みんなお別れが辛くなるのだよね。それと、退院の書類を持ってきた看護師さんに、霧島さんにプレゼントするネックレスを選んでもらったんだね。」
「そうですね。あの看護師さんが私の担当だったので、気軽にお話ができました。」
そうして、ロビーにある受付の端のほうにあった入退院受付の窓口で職員に声をかけると、35と書かれた番号札を渡された。
「すみません、これって、35人待ちってことですか?」
俺は窓口の職員に尋ねると「その通りです。すみません1~2時間程度は待ちます」という返事が返ってきた。
荒巻さんと顔を見合わせると、ハッと思い出したように俺の顔を見た。
「三上くん、この間に銀行に行ってしまおうか?。ここから少し歩くとあるはずだから。大金だから私が一緒について行くよ。」
「荒巻さん、ありがとうございます。全く土地勘がないので道案内をお願いします。」
「大丈夫だよ、この辺は前に住んでいたから、よく知っている場所なんだ。」
荒巻さんと一緒に病院を出ると、ショッピングセンターのほうに向かって歩き出した。
歩きながら荒巻さんが話しかけてきた。
「三上くんが体育祭の実行委員をやったときに、偶然に居酒屋でばったり会ったでしょ?。その居酒屋はここから、そんなに離れてない場所にあるよ。」
「あの居酒屋は少しトラウマですよ。実行委員チームのお母さんたちに抱きしめられて、そこから逃げるのに精一杯でした。会費は先に払っていたし、2人が酔っ払っていたので隙を見て逃げたのですが、10分以上かけて近くの駅まで歩いてタクシーを捕まえて寮の近くにあるスーパー銭湯まで行ったのは苦い思い出です。」
俺の言葉に荒巻さんが複雑そうな顔をした。
「ごめんね、あの時、女房と一緒に笑っていたけど助けてあげるべきだったか…。松尾さんから後になって事情を聞いて、三上くんには悪いことをしたかなと。」
「荒巻さんは悪くないですよ。当事者から謝罪を受けているし、丸く収めてますからね…。」
荒巻は三上の言葉を聞いて、少しだけ根に持っている事が分かったので、話題を切り替えるために彼の今の話を利用することにした。
「そういえば、寮の近くのスーパー銭湯をよく知っていたよね。寮生は大学や駅とかバス停が逆方向だから、4年間いても全く気づかない寮生が多いのに…。」
「1年の時に、もの凄く道に迷ってしまって、偶然に見つけた時から1人でコッソリと行ってました。課題が詰まって徹夜から解放された時とか、最近はバレーボールの練習が終わると、同じチームでも学部の仲間だけに教えて秘密基地のように使っています。」
「ははっ、三上くんらしいなぁ、わたしも、あそこのスーパー銭湯は、たまに女房と行くよ。いつかバッタリと会うかもしれないね。」
そんな会話をしているうちに銀行に着くと、キャッシュカードを使って無事に入金することができた。
帰りも荒巻さんと歩きながら雑談をして病院に戻った。
ロビーにある椅子に座っていると、しばらくして俺の名前が呼ばれて、ようやく会計処理を終えた。
返金などもあったので時間がかかってしまった。
荒巻さんが病院の入口に駐まっていたタクシーに声をかけて乗り込んだ。
「やっと帰るべき場所に帰れますよ。しかし、この1週間は内容の濃い1週間でしたよ。ホントは寮に戻ってゆっくりとボーッとする時間を作りたいですが、そうも言ってられないでしょうから。」
それを聞いた荒巻は三上に悪いことをしたと後悔をしていた。
彼には心をリフレッシュする時間が必要だが、これからは休日も関係なく、霧島のことや文化祭の仕事、それに棚倉と諸岡だけで回していた寮の残務処理などに追われるだろう。
「しばらくの間は高木さんに受付などの応援を頼もうか?。」
「荒巻さん、それは棚倉先輩の人使いが荒かった場合にお願いします。ただ、せめて日曜日の夕方に霧島さんの家から帰ってきてから、何もせずにボーッとしたいですね。それだけでも気持ちが少し違います…。」
荒巻さんは俺を見て少しだけ考えていたが、少しだけ眉間にしわを寄せて口を開いた。
「私の女房と一緒にスーパー銭湯に行く事も考えたけど、その怪我では…」
「そうなんですよ、傷口に細菌類が入るのが怖いですからね。ギプスが取れてからじゃないと。」
そんな会話をしているうちに、タクシーは寮の近くまできていた。
『いよいよか…。』
俺は少しだけ緊張した面持ちでいた。