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~エピソード4~ ⑫ 将来が約束された三上くん。~1~

 腕の痛みで目が覚めて時計を見ると朝の5時だった。

 少し寝不足気味だったが、俺は勢いでそのまま起きることにした。


 病室の洗面台で片手でなんとか顔を洗ってタオルで拭いて、まずは下着を着替えた。

 陽葵が来る前に、着替を済ませないと、昨日のように、なすがままに裸にされてしまうから、それは避けたかったのだ。


 時間が掛かったが、なんとか自力で着替えた。


 今日は早くに起きたし、寮長会議が終わって、寮の部屋でやるつもりだったレポートや課題を朝食までの間に全部やってしまおうと決意した。


 ロッカーにあるバッグを開けて必要なものを取り出す。

 やっぱり左手が駄目なので、バッグを開けるにしても本やレポートを出すにしてもやりにくい。


 俺は講義の合間に暇を見つけて何処でもレポートや課題ができるように準備をしているのでバッグには課題に困らない程度の専門書やノートも入っていた。


『そういえば、一昨日の夜に棚倉先輩の部屋で微積を終わらせておいて良かった。このまま放置すると、退院後にレポートや課題が溜まって死ぬし、休日は陽葵と一緒に話をしていたいから、完全に課題やレポートなんて忘れたいからな。』


 ベッドの上の小さいテーブルの上に、ノートやレポート用紙を広げてみたら、テーブルが小さいから少しやりにくい。


 さらに左腕が駄目なので、レポート用紙がズレないように本を文鎮代わりにする。参考書類は右手で閉じないように思いっきり広げ、それでも駄目なら本で押さえる。


 俺は、不便さを感じながらも、レポートや課題を必死にやって次々と片付けていった。


『あと、もう少しで終わりだ。』


 もう2時間ぐらい経ったのだろうか?。

 病室の外からそろそろ朝食の準備をしている音が聞こえてきたし、ご飯の匂いもしてくる。


 そこに陽葵が病室の前までやってきた。

 彼女は部屋が静かなので、恭介が寝ていると思い込んでいた。


 陽葵は彼を起こさないようにソッと病室に入ったが、恭介の様子は彼女の予想とは違っていた。

 彼は、何やら必死にレポートを書いているようだ。


 1.5メートル程度の距離まで、恭介に近づいても気付いていないぐらい、彼は集中をしていた。

 陽葵は、興味本位で、恭介が何を書いているのかを、ソッと見ていた。


 ≪…残留オーステナイトと呼ばれる組織が残る。残留オーステナイトは、マルテンサイト化しきれていない未変態のオーステナイト組織である。残留オーステナイトは常温で放置して時間が経つにつれ徐々にマルテンサイトに変態し…≫


 さっぱり意味が分からない。

 彼が見ていた専門書には何やら難しそうなグラフや絵などが随所にある。


 ペンを置いた恭介がようやく彼女に気付いた。

「陽葵…きてたのか…。ごめん、気付かなかった。あと少しで終わるから待ってて。」


「恭介さん、横で座って見ていて良いですか?」


 陽葵は大好きな彼から名前で呼ばれたことに心底、嬉しくなっていたので名前で呼び返していた。

 彼の邪魔をしてはいけないので、レポートが終わるまで、ベッドの脇にある椅子に座って、終わるまで待つことにした。


「いいよ。あと5分ぐらいで終わるから、そんなに待たせないと思うよ。」


 レポートを書きながら陽葵の姿を見ると、昨日の服装とは違って、カジュアルな装いだった。

 そして、病院が用意したカードを首からぶら下げている。


 カードには俺の名前と病室の番号と共に入院患者家族と書いてある。


「陽葵。この時間から病室に入るのには、そのカードが必要だけど、どうして入手できたの?」


 俺は率直な疑問を陽葵にぶつけた。でも、レポートを書き続ける手は止めない。


「看護師さんが配慮してくれたの。それと恭介さんの保護者扱いとして、寮監さんにも同じカードが荒巻さんを通じて渡されたわ。」


 俺は彼女の話に頷くと、全部の課題やレポートをやっと終えた。


「ふぅ、終わった。待たせてごめんね。」


 レポートが終わったので、まとめようとしたが、左手が使えなくて戸惑っていると、彼女はすぐに手助けをしてくれる。

「あっ、ありがとう。じゃぁ、この本とこのレポートはこっちに…。」


 後から取り出しても分かりやすいように陽葵に分別をしてもらって、バッグに入れるようにお願いした。彼女はそれをテキパキと整理してバッグの中に入れる。


「恭介さん、理系は本当に大変なのね。先ほどの専門書やレポートををチラッと見たけど…、さっぱり分からないわ。」


 俺は疲れたように陽葵の問いに答える。


「うちはマジに課題が多くて辛い。油断をして手を抜くと、補講になったり課題が積み上がったりするからさ。レポートなんか適当に書くと、再提出になって死にそうになることもある。」


 陽葵は俺のレポートや課題や専門書などをテキパキと片付けると、ベッドの横にある椅子に座った。


「陽葵、本当に助かった。あのメールの後、しばらくして眠ったけど、朝5時から目が覚めてしまって。それなら、課題やレポートを早々に片付けてしまって、陽葵と一緒に過ごしたかったんだ。」


 陽葵は嬉しそうな顔をした。


「わたしも恭介さんと一緒にいたいのは同じだわ。昨日の夜はあまり眠れなかったのよ。あの携帯のメールは凄く嬉しかったわ。」


 俺は陽葵の言葉に喜びつつも昨日の事を素直に話した。


「俺も嬉しかったよ。昨日から名前で呼ぼうかと迷っていたんだ。あれは本音が出てしまったから…。」


 陽葵がなにかを言おうとした時だった。看護師さんが朝食を持ってきた。


 俺は、昨夜から何も食べていない事に気づいて、急にお腹が空いてきた。

 昨夜からの興奮状態で空腹も忘れていたのだろう。


 病院食は味気がなくて嫌う人もいるが、俺は味が悪くても好き嫌いなく食べられるほうだ。

 俺は看護師さんが持ってきたお盆を見て、これから起こることが容易に予見できて、極度の緊張感に襲われていた。


 お盆を見ると、箸が2膳。スプーンが2つ…。

 看護師さんが、陽葵と笑顔で目を合わせると、ベッドの上の小さいテーブルに食事が乗せられた。


『こっ、こっ、これは…。』


 看護師さんは朝食を置き終わるとすぐに病室を出た。

 それを確認した俺は、恥ずかしさから場を誤魔化すように陽葵に声をかける。


「ひっ、陽葵さん…。あ、朝ご飯は食べてきましたか…?」

 俺はかなりの動揺から、自然と言葉が敬語になっていた。


「家で食べてきましたよ。きょ、恭介さん…。片手が使えないでしょ?」

 陽葵もすでに頬を赤らめていた。


 俺は箸をとって、おかずに手を付けたが、片手が使えないので行儀が悪い。

 それを見た陽葵は、顔を赤らめながら食器を手で支えた。


 でも、俺が試みた、ささやかな抵抗は時間の問題だった。

 俺がおかずに箸を伸ばそうとした瞬間だった。


 恥じらっている陽葵によって次々とご飯が俺の口に運ばれていった…。

 俺は顔を赤くしながら相当な幸せをかみしめている。

 こんな可愛い子にご飯を食べさせてもらえるなんて…夢のようだった。


 『俺は入院中、毎日のように陽葵に飯を食わせて貰って俺は駄目にされていくのか…』


 俺は朝食が終わると、そんな思いを込めて、まだ顔が赤くなっている陽葵をジッと見つめて、基本的な質問をした。


「陽葵…、そっ、その…、これって…、昼や夜もですか?」


 彼女は即答だった。

「はい。」


 陽葵は即答したわりには、恥じらって顔をさらに赤らめた。


 -今日の朝はこんな感じで始まった。-


 ドキドキのお食事タイムが終わって、歯を磨いて、棚倉先輩が俺の部屋から持ってきた電動シェーバーを使って髭を剃って落ち着くと、今度は看護師さんがきて検温や採血があった。


 一眠りして、熱も下がっていたから安心した。


 そして看護師が部屋から出た後に、陽葵が真剣な目差しで、俺に話しかけてきた。


「恭介さん、もしかしたら入院中にうちの家族が、恭介さんに挨拶とお礼に来るかも。ホントはもっと落ち着いてからが良いと思ったけど、両親が、どうしでも、ここに来たいというのよ…。」


 彼女が心配そうな顔をして俺の目を見て、言葉を繋いだ。


「…恭介さんごめんなさい。」

 陽葵は申し訳なさそうにしていた。


「いいよ、謝らなくて。こんなことで陽葵のご両親に気を遣わせてしまって…。でも、大丈夫だよ。」


 ちなみに、この時の俺は、単に『陽葵の両親が娘を助けてくれたお礼としての挨拶』としか捉えていない。

 その『挨拶』に関して、彼女の家の結婚観からくる複合要因が含まれていた事案などは思いもよらないでいた。


「ごめんね、恭介さん…。」


 このとき陽葵は『親があのことを話して、恭介さんが認めてくれるか』が、とても心配だった。

 昨夜の両親の話では、母は無論、父も手放しで承諾を得た状態だった。


 家族は全面的に後押しをしてくれるだろう。


 三上恭介は、霧島陽葵と付き合った1日目の夜で、2人の将来に向けたレールが彼のいないところで整ってしまっていたのだ。

 それも、先輩2人と義理の母親の3人の手によって。固定されたレールに乗せられていたのである。


 そんな事を全く知らない俺は、目を閉じながら軽く首を振った。


「俺も陽葵に危険な思いをさせた事について判断ミスしたことを親御さんに謝らないといけない。うちの親も今日か明後日に、ここへ来るかも知れない。陽葵、俺こそ、少し落ち着いた後に親が来ても良かったのに。ホントにすまない。」


 俺は、まず素直に陽葵に対して謝った。


「うちの親は、もう陽葵と交際している事を知っているよ。荒巻さんが親に詳しく話した事もあって、陽葵と付き合ったことを親に白状したんだ。だから陽葵を紹介したいと思って。…でも、嫌だよね。本当に面倒な事になって…。」


 俺は付き合って間もない状況で、陽葵を自分の親に会わすなんて、酷だと考えていた。

 陽葵は、恭介が自分を責めてる言葉に関して怒ろうとしたが、彼がその後に続けた話を聞いて、何故か喜んだ。


「恭介さん、それなら話が早いです。恭介さんのご両親ともご挨拶させてほしいです。今日はいらっしゃらなくても、明後日なら都合をつけて、うちの親も呼びますから。」


「…あ゛???…え゛???」


 俺は陽葵が言った言葉の意味を読み取ることに関して、相当に混乱をしていた。


 そんな話をしていると、病室に手術を担当した先生が回診で入ってきた。

 今日は病院が休みだが。若くて熱心な先生なのだろうか?。忙しそうだし、休みがなくて大変そうにも見えた。


「三上さん、その後、具合はどうですか?」

「ちょっと痛くて、なかなか寝つけずに眠りが浅いです。」


 先生は術後の具合を、一つ一つ丁寧に確認していく。


「いやぁ、三上さん。身を挺して彼女を守るとはねぇ…。それは骨を折るほど力が入りますよ。男の勲章だね。貴方の敬意を表して、手術は私の手の尽くす限り丁寧にやりましたよ。」


 先生から背中をポンと軽く叩かれた。


「あ、ありがとうございます。」

 俺は、その言葉に戸惑いながらも先生にお礼を言う。


 実は、昨日、救急車で運ばれて診察したときに、どうしてこんな怪我を?と、先生に聞かれたので、俺は「大学で暴漢に襲われて争っている際に骨が折れてしまいました。」と、答えるに留めた。


 しかし、そばにいた陽葵が「三上さんが私を守る為に身を投げ打ってくれました。」と、目を輝かせながら先生に言ったので、先生がかなり熱くなってしまったのだ。


 それから、俺が入院してる病棟内で看護師さん達にその話が伝わり、先ほどの朝食でスプーンが2つあったりする惨状になっていた。

 陽葵が家族扱いで病院に自由に出入りできるのも、その影響なのだろう…。


 「三上さん、眠れないほど痛いのなら、少し痛み止めを強くしましょう。お昼の薬から少し変えます。では…、三上さん。彼女を大事にしてね。」


 そういうと先生は次の回診に向かってしまった…。


「はぁ…」

 俺はこの病院の取り巻く人間的な環境に戸惑いを隠せず暫く思考停止をした。


『大学に行ったら、俺は、学部の仲間から彼女ができたことに関して、徹底的に追求をされるだろう。それと、この入院中に向けられる大勢の生暖かい周りの目と、どうやって向き合えば良いのか…』


 「あ゛~~~、はぁ…。」


 俺は言葉にならない声をあげた。

 その後に長い溜息をついて、病室の見知らぬ天井を見上げていた。


 その姿を陽葵は不思議そうに見ていた。

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