日曜の朝、目が覚めたら陽葵は甘い香だけを残してベッドにはいなかった。
『なんで、こんなに甘い香りがするのだろか…』
陽葵とは長年一緒にいて慣れている筈なのに男として本能をくすぐられる匂いに翻弄されてしまう。
娘の葵は隣でぐっすりと寝ている。
昨夜の陽葵との情事を少しだけ思い出し再び滅茶苦茶に愛してしまいそうな感情を抑える。今はベットの上で理性を取り戻すことに専念している。
数分が経ち、寝ている葵を起こさないようにソッとベッドから出る。階段を降りてダイニングに行くと息子の
「こんな朝早くから珍しいじゃないか?」
俺は思わず恭治を見て口にしてしまった。
恭治は俺に眠たそうな顔を向けると少しうなずく。恭治は13歳。娘の葵と10歳違いである。俺に似て小柄だが、とにかく物覚えと要領が良い子だ。頭の回転が速いのは陽葵に似たのだろう。
陽葵はキッチンで朝食を用意している。
ダイニングの椅子に座ろうとしたら陽葵が恭治の代わりに俺の問いに答えた。
「恭治は何時ものメンバーと出かける約束をしているの」
陽葵は、奇妙に余所余所しい感じがする。恐らく昨日のことを思い出してしまって、何か言いたいのを我慢しているのだろうか。
「ああ、そうか。それなら安心だな…。」
俺も昨夜の事をかき消すように押し殺した声で陽葵に答えた。
何気ない夫婦の会話だが、陽葵は目線がうつむきがちになっている。そんな可愛い陽葵をみて頭の一つでも撫でてやりたいが子供がいるので、ここは意地でも普通にせざるをえない。
「あ、あなた、葵は?」
なんだか陽葵のぎこちなさが少し目立つような気がしてきた。
「まっ、まだ、寝ているよ。無理矢理に起こすのも気が引けて、そのままのほうが良いと思ってね。」
俺も普通に装ってるが、恭治がいなかったら陽葵の頭でも撫でているだろう。
この時、やっぱり陽葵も昨日のネットいちゃつき事件と、その後の情事を思い出していた。いたたまれなくなった陽葵は現実的な問いを俺に投げかけた。
「そっ、それよりも仕事のほうは進んでいる?」
俺は陽葵の少しぎこちない問いに苦笑いをしつつ、同時に仕事の進みが遅いことに苛立ちを覚える。
うちは小さな町工場を営んでいる。
家とほぼ隣合わせに小さい工場がある。
先代の父が病気で他界して以降、相次ぐ不況に耐えながら看板を何とか維持してる状況だ。母も父が他界して後を追うように病気で亡くなってしまった。
陽葵は経理を担当しているが、相当に胃が痛い状況になってて本当に申し訳なく思っている。今も相当に厳しい状況で、綱渡りで切り抜けているのは陽葵のお陰である。
そんな厳しい状況でも離縁の話しや喧嘩も起きずにいるのは陽葵との愛が相当に強い由縁である。
…不甲斐ない俺と一緒に厳しい状況でも耐えてくれている…。
こんな愛されている妻がいることに、俺はズッと幸せを噛みしめているのだ。
ただ、いつまでも惚気てはいられない。
俺は現実に戻される。
「例の件なんだけど、一昨日、具合が悪くて1人…帰っただろ?」
陽葵の顔が少し曇った。
この不景気で従業員に休日出勤させる訳にはいかない。そのぶんのコストも馬鹿にならないのだ。
「俺が引き継いでやって明日には納めないと。」
本来なら、その仕事を昨日やりたかったが、SNSのいちゃつき事件で仕事どころの騒ぎではなかった。あのままでは陽葵への愛が強すぎて仕事が手に付かず、品物がお釈迦になって、あの世に逝ってしまう。
*業界用語で『お釈迦』は失敗して品物が駄目になる・寸法がNGになる等の意味
あの心理状況で品物を作ったら、お客からクレームがつくのが明白だった。
これが自営業の利点でもある。従業員がいなければ休日などは自分のペースで仕事ができる。それに加えて陽葵のお陰で俺は現場指揮に集中できる利点もある。
さらに、もう1つの利点は、いつも可愛い陽葵の顔が拝めることだ。
陽葵の顔がハッとして、さらに曇った。
「あなた…。そういえば、そうだったわ…。」
一昨日のことを思い出したのか、バツが悪そうにしていた。でも、これは仕方ない。
陽葵とそんな会話をしているうちに朝食がテーブルに並ぶ。恭治は眠気をこらえながら食事に集中してるので、ぎこちない会話なんて頭には入っていない。
何気ない夫婦の会話だが、俺は幸せを噛みしめながら朝食をとることにした。
朝食後、俺は手早く食器を下洗いして食洗機に食器を入れ、早々に仕事をやる事にした。料理は少し苦手なので陽葵に任して裏方に回る。家事で陽葵に少しでも負担をかけたくない努力はしている。
今は娘の葵が陽葵に甘えたい盛りなので相当に手間が掛かる。息子の恭治も塾や習いごとで忙しい日々を送っている。
その送り迎えも夫婦で分担している。
食器を洗い終えた後に葵が起きてきた。葵はまだ小さいので幼児用の椅子に座って幼児向けの番組を見ている。そうしているうちに、恭治も友達との約束があるので出掛けてしまった。
『さて、仕事に行くか。』
俺はダイニングの椅子から立ち上がると、陽葵の頭を無意識に撫でてしまっていた。昔からの癖だ。どうしても陽葵を見ると可愛さのあまりに頭を撫でたくなってしまうのだ。
自然に陽葵の頭を撫でいた自分が少しだけ恥ずかしかった。これが少し若ければ陽葵の頬に口づけをしたかも知れぬ。
それをみた葵が俺の方を向く。
「ぱぱぁ~~、あおいちゃんもなでて~~~」
頭を撫でられて頬をほんのり赤らめていた陽葵から明るい笑い声が出た。俺は葵の頭も撫でて、ひとり休日の仕事場へ向かった。
三上家の休日はこんな感じで流れていく…。