サファイアの研究施設には、
蒸気のしゅうしゅういう音と、
スミノフの泣き声がくぐもって聞こえる。
誰も来ない。
サファイアと、リタと、スミノフ。
三人だけの部屋。
「平和が一番ではありますけどね」
サファイアがつぶやく。
「この世界が一つになること、それに逆らう意思があること。それを仮定するのだが」
「逆らう意思?」
リタが聞き返すと、サファイアはうなずいた。
「思うに、何かを作り出すことには、痛みがつき物」
「痛み?」
「そう、茨の道を歩み、切り開くような痛み。それに逆らう意思があってもおかしくない」
サファイアは、いつもの目で二人を見る。
「痛みなく、ずっと平和のままならいいかもしれない。けれど、世界は一つになろうとしている」
サファイアは、リタのほうに目を向けた…ような気がした。
「多分、君たちが、世界を一つにしようと選んだから。そうだと思う」
スミノフが顔を上げる。
「選んでなんていないよ」
まだ、蒸気と涙が残っている。
「選んでいたんだよ。どこかで君たちがであったときから」
サファイアは、天井を見た。
蒸気管が無数に伸びてうねっている。
「君たちがお互いを選んだときから、互いのために世界を動かそうとしている」
「知らないよそんなの!」
スミノフは、泣き声のまま、叫んだ。
「それでも、リタを捨てることは出来ないだろう。スミノフ」
サファイアは、静かに諭す。
スミノフは、ぽろぽろと涙を流して答えた。
サファイアは、二人のほうを向く。
「世界を一つにして、見つけるんだ。記憶を、思い出を、大切な人を」
それはリタがリタでないときに聞いた予言。
記憶の底にある。
『世界はまた一つになり、彼は見つける』
「世界はまた一つになり、彼は見つける」
リタはそらんじる。
サファイアはうなずいた。
「彼とは多分、リタ、君のことだ」
サファイアは仮定する。
「いや、エーテルとしてのリタ。様々の世界にいるであろう『彼』、彼が見つけるんだ」
「エーテルとしての、僕…」
「そう、世界をつなぐエーテル、意思のリタ。柱のスミノフ。君たちが選んでしまった道だ」
スミノフは、まだ泣いている。
「外の人たちが、みんな怪物にされたらどうしよう…」
スミノフは、いつもの覇気をなくしている。
ただ、泣いている。
不安がっている。
「僕たちがであったから…リタとであったから…」
スミノフは大きく泣き出した。
「何で出逢っちゃったんだ!何でリタのそばが心地よかったんだ!」
「スミノフ…」
「この町の人が怪物にされるなら、出逢わなければ…」
「スミノフ、言わないで」
リタは、スミノフを制した。
スミノフは、一瞬虚をつかれ、黙る。
「どんなにがんばっても、出逢わないことにはできない。そう思うんだ」
「でも!」
「痛む道なら、スミノフの痛みを引き受けるから」
「そうじゃないよ…そうじゃないんだ…」
「町の人が怪物にされたなら、僕が責任を取る」
「どうやってさ…君はヒーローじゃないんだよ」
「怪物をやっつけて、世界を一つにする。そして、君を女神にするんだ」
「それはリタが選んだ道?」
「スミノフの痛まない道を選んでみた」
スミノフは、リタの服の襟を、きゅっとつかんだ。
「…痛みは、怖くないよ」
「どうして泣いているの?」
「わからない」
スミノフは、リタの肩口に顔をうずめる。
「わからないけど、怖い」
リタは、スミノフの頭をなでた。
「スミノフの笑顔が見たい」
スミノフは顔をうずめたまま、頭を振った。
「スミノフの笑顔を見るためなら、ヒーローにでも悪役にでも、なんにでもなるよ」
「…できないくせに」
スミノフが、小さく答える。
リタは、スミノフの背を、ぽんぽんと叩いた。
「そばで見ていて。難しいこといろいろあるけど、やることやるつもりだよ」
スミノフが顔を上げた。
黒い目は、涙でぬれている。
リタは、スミノフの頬に手を置いた。
親指で、スミノフの涙をぬぐう。
どこかでした行為。
「君のためなら、空だって飛ぶさ」
リタは言い放つ。
「…できないくせに」
スミノフはようやく、笑った。