メイが書斎の扉を開いた。
ワイヤープランツ男爵は、書斎の椅子に腰掛け、机にひじを置いている。
そして、
書斎の床に、多くの本が並んでいる。
本の真ん中には、少年が一人。
紺色の半ズボン、白のシャツ、やや短い髪、黒縁のめがね。
「おとうさま」
メイが声をかける。
ワイヤープランツ男爵はうなずいた。
「エリクシルの諸君、エバはこの通りだ」
「この通りとは?」
タムが問い返す。
「本の世界に、私たちに理解できない場所を持っている…そう思う」
「ふぅむ…」
タムはうなった。
アイビーからの仕事の依頼というのが、記憶の末端を探すこと。
ならばエバの、記憶の末端は、本にあるのだろうか。
「記憶の末端は本の中に、タムはそう思う?」
「うん、僕はそう思う」
「じゃあ、私は先に始めるわね」
ベアーグラスはそう言うと、書斎に散らばった本を、手に近いところから読み出した。
「メイちゃん」
タムが声をかける。
メイは不思議そうにタムを見る。
「エバ兄さんの読んでいる本を、僕も読みたい」
「いーっぱいあるよ」
メイが手を広げて、いーっぱいをあらわす。
「まずはメイちゃんのわかる範囲で。メイちゃんとどんな本を読んでいた?」
「ちょうちょのえほん、にいさんがよんでくれたよ」
「そこからはじめよう。どこにある?」
「もってくるね」
メイは書斎をパタパタと出て行った。
ワイヤープランツ男爵は、ため息をつき、苦笑いを浮かべた。
「途方もないね」
タムも苦笑いする。
「そこからはじめないと、いけない気がするんです」
タムは書斎をぐるっと見た。
本、本、本。
床にもばらけている。
ベアーグラスは、何冊か速読している。
エバもページをめくっている。
ページをめくる音が響く。
やがて、パタパタと足音が聞こえる。
「もってきた、ちょうちょのほん」
「ありがとう」
タムはメイの頭をなでて、絵本に集中する。
極彩色の蝶々が、境界を飛んでいく。
タムはイメージを持った。
蝶々は境界を行く。
ゆえに蝶々は見えたり見えなかったりする。
絵本には違う物語が文字となって描いてあるが、
タムは、そんなイメージを持った。
ベアーグラスが、速読していた本を閉じた。
エバは…
ページをめくっていない。
うつろに本をながめている。
「ねぇ」
エバは独り言をする。
「僕はどこにいるんだい」
エバは顔を上げた。
茶色の目が、不安そうに揺れている。
「僕は理解されない場所にいる、僕はどこにいるんだい?」
「本の中にあなたはいないわ」
ベアーグラスが静かに言う。
「でも、確実に本の中に僕はいた」
エバは独り言を続ける。
ベアーグラスは反論する。
「少なくとも、書斎の本は大人の書いたものよ」
「僕は本の中にいたんだ」
「女神の物語や、壊れた時計の物語に、あなたはいない」
「でも、本の中に僕はいたんだ」
ベアーグラスはタムを見る。
タムの出番だということだろう。
タムは、絵本を持ち、一歩、エバに近づいた。
タムはエバに近づき、エバに視線をあわせる。
「蝶々がいるんだね」
タムは話し出す。
「境界の蝶々は修羅の桜と無虫より生まれる」
タムは絵本から得たイメージで話す。
「境界の蝶々は毒の蜜を好む」
これはタムの得たイメージだ。
「あ…」
エバの視線が、不安なものから、彩を変える。
「境界の蝶々は境界を飛ぶ。ゆえに、どちらからも見えるときと見えないときがある」
「僕は境界を飛んでいた」
エバが話し出す。
「僕は境界を飛んだ。それは理解できない場所だ。絵本を読んで聞かせながら…僕は…」
「理解されるはずさ、それを言葉に変えれば」
「言葉に…」
「イメージを言葉にすれば、理解はそこから立ち現れる。境界を…」
タムは、イメージを言葉にする。
「エバ、君は境界を無意識につないでいたんだ」
「つないでいた…」
「つながるそれこそが…」
タムはその言葉を言おうとした。
タムはそれをやめた。
タムだけの言葉でないと、そう思ったからだ。