緑は、心だけ上の空で講義を受けた。
バインダーにルーズリーフをとめる。
物をまとめる意識は残っている。
それでも心ここにあらず。
ぼんやりした緑は、
いつにも増してぼんやりしていた。
一つ講義を終え、部屋を移動。
学生がぞろぞろとあっちこっちに大移動。
地味なもの派手なもの、
男も女も、
友人などと楽しく会話しながら、流れに乗っている。
歩きながら器用に携帯をいじったり、
笑顔で話をしたり、
些細な会話なのかもしれない。
それでも、話している彼もしくは彼女たちには、
その会話の世界が大きなものなのだ。
(多分、真夜中から経験していることが…)
緑はぼんやり思う。
(経験していることが、僕にとって大きな世界であるように)
学生が流れる。
緑も流れに乗る。
(みんな、今は、この世界でいっぱいなんだ)
会話が断片して聞こえる。
レポートがどうした、
テキストがどうした、
それに混じって聞こえた女性の会話。
「デートするんだってー」
「えー、ほんとー?」
ごくありふれた会話の断片。
緑は断片だけ耳に届かせると、
はっとした。
いつものぼんやりが、なんだかちかちかした明滅に変わるような感覚。
何か、ひらめいてしまったような感覚。
女性の会話はもう聞こえない。
雑多な流れに消えてしまった。
「でーと」
緑は言葉だけ繰り返す。
「デート」
俗に男女が日取りを決めて…
何かするようなこと。
何かとは、映画でもいいし、ショッピングでもいい。
車があればドライブだろうし、
極端に言えば散歩でもいいのかもしれない。
「デート」
もしかして、もしかして…
「デートに誘われた?」
緑の頭の中で、パーティーのクラッカーが派手に鳴らされたようなひらめき。
(デートに誘われてしまったのか!)
緑は軽くパニックを起こした。
飲みにいく、ショッピングをする。
緑には縁がないが、
これを明日、ケイと行う。
それはデートだったのだ!
緑はあたふたとする。
何から手をつけていいか、わからなくなり、
とにかく時計を見た。
そろそろ次の講義の時間。
緑は取っていないから、帰ってもいい。
情報処理ルームで調べるか。
この時間なら解放されているだろう。
とにかく何か調べないと。
デートだ、デートなのだ。
緑は心底パニックだ。
ただ食堂会議しているときにはなかった、特別な感じ。
デートという言葉に行き着いたそれだけで、緑はパニックを起こした。
結局緑は、情報処理ルーム、通称パソコンルームにやってきた。
パソコンだったら、いつもいじっている。
とにかく、このパニックのキーワード、デート。
それを、自分が取り扱える範囲まで分析する。
緑にとっては大変なことだ。
デートというキーワードだけで、やまのように検索にヒットする。
検索件数だけでうんざりした。
がっくりする。
女心とか、デートスポットだとか、さらにキーワードはぞろぞろ。
手に負える相手じゃないものと戦っている気分だ。
「だめじゃないか…」
どうしていいかわからない。
「おや」
情報処理ルームの入り口で声がした。
聞き覚えのある声。
お茶の殻博士だ。
「調べ物かい?」
「あ、先生は…」
「本を忘れていたと、気がついてね。おおあった」
お茶の殻博士は、本を手に取った。
「風間君は、何を探しているのかな?」
「え…」
「探していることは、いつも近くにある」
「近くに」
「自分が何を見たいか、探索するといいとおもう」
「自分が何を見たいか」
「そう、大きな化け物と戦うときは、わかる一点に絞るといい」
「ばけもの」
そう、緑はデートという化け物を見つけて、戦っていた。
わかる一点。
ケイの笑顔が見たい。
飲みに行くのも、ショッピングも、ケイの笑顔が見たいからで、
デートとは…緑にとっては、ケイの笑顔を見ることだ。
お茶の殻博士は満足そうにうなずき、部屋をあとにした。
緑は肩の力が抜けた。
微笑みすら浮かぶ。
ちょっとだけいいのを着ていこう。
特別だけど、特別じゃないさ。
緑は、一回伸びをすると、情報処理ルームをあとにした。