リタとスミノフは、廊下に出て、扉を閉める。
蒸気光石の光る廊下。
ある程度の蒸気、そして、蒸気管。
扉がいくつかある。
リタとスミノフの部屋も、そのうちにある。
スミノフはリタの左隣を歩く。
左隣。
リタは何か引っかかった。
左隣に何かあった気がする。
どこかの記憶だろうか。
やがて、スミノフは自分の部屋にやってくる。
扉を開けようとして、振り返った。
「リタ」
呼びかけられ、リタも振り返る。
「また会えるよね」
「はい、きっと」
「見つけるって約束、忘れないでよ」
「はい」
「げんまんするかい?」
「げんまん」
表側の世界で覚えた約束のしかた。
きっとスミノフも、リタと同じような表側の世界にいるのだ。
きっと近くにいるのだ。
スミノフが、小指を差し出す。
リタが小指を絡める。
「ゆびきりげんまん」
「うそついたら、はりせんぼんのます」
「ゆびきった」
スミノフとリタが小指を離す。
スミノフは、満足そうに微笑む。
「また会ったら、リタの髪を直してあげたい」
「きっと、もじゃもじゃしてます」
「リタは僕がいなくちゃね」
スミノフは、身を翻す。
「そして、僕はリタがいなくちゃ止まれないんだ」
リタは、扉にかけようとした手を、思わず止めた。
パタンと小さな音を立てて、スミノフの部屋のドアが閉まった。
リタは、思い返す。
どちらにとっても、いなくちゃいけない存在なのかもしれない。
そんなことを思った。
リタは、静かに扉を開く。
置いてあるものの少ない、部屋が姿を現す。
蒸気消毒のにおいがする。
心地悪いものではない。
リタは、靴を脱いだ。
ベッドのそばに靴をそろえる。
スミノフがまとめてくれた髪も、ゴムを外してばらばらにする。
プルプルと顔を振る。
頭が薄らぼんやりしてくる。
眠れということだろう。
リタは、壊れた時計を確認する。
ジャケットの中に、ある。
リタはベッドにもぐりこんだ。
乾いていて、清潔なにおいがする。
睡魔はすぐに訪れる。
鼓動と蒸気の音と、壊れた時計のギミックの音とともに。
彼は離れていく。
ベッドから、研究所から、錆色の町から、クロックワークの狭間から。
好き勝手な長針短針秒針。生真面目なギミックの刻み。
自身の鼓動。
包み込むような刻み。
彼は身を丸める。
刻みが聞こえる。
鼓動なのか、時計なのか、耳をすませば、何かが流れるような…
どこかで聞いた水の流れる音か…
どこかで聞いた蒸気の音か…
どこかで聞いたさざなみの音か…
どこで聞いたのだろう、とても懐かしい。
丸まった彼を、音が包んでいる。
刻み、流れ、あたたかい。
彼は沈むような感覚と、浮かび上がるような感覚を持つ。
水面を目指して。
つながっているんだ。
彼は思う。
何とつながっているかは、よくわからない。
ただ、つながっていると思った。
あるいは、記憶の端っこのネットだろうか。
あるいは、記憶の端っこのグラスルーツだろうか。
あるいは、記憶の端っこの蒸気管だろうか。
あるいは、彼を今包んでいる音だろうか。
彼はどこかにつながっている。
彼ではない誰かと。
彼である誰かと。
つながっているんだ。
いろいろなことが思い出されては、泡のように消える。
大切なことも思い返そうとするのに、
波の心地よさに音もなく消えていく。
あたたかいまどろみ。
彼の世界でありながら、彼だけの世界でなく、また、彼がいなくては完成しない世界。
水面が見える。
思い出さなくちゃ…
彼は無駄な抵抗をする。
さざなみと刻みが、ほとんどをさらっていく。
あたたかいまどろみに、全てを手放そうとする。
やくそく。みつけるってやくそくしたんだ。
彼はそれだけ、思い出すと、水面に吸い込まれ…
やかましい目覚ましの音が鳴った。