リュシアン兄さんはアレク兄上とのことを何も聞かなかった。もちろんノアのことも。
読んだ本の話なんかをして、ただ和やかな時間を過ごした。
兄さんは持ってきたエッグタルトをほとんどくれて、俺が食べている姿を見て静かに笑っていた。
「フレディさえよければ、しばらくうちの村に来ないか? 田舎でのんびり過ごすのも、悪くないと思うよ」
ティータイムの終わり際、兄さんがそう口にした。
兄上と俺を同じ屋敷に住まわせておくのは限界だと思ったんだろう。引きこもりの転地療養としても、田舎に行くのは悪くない。
何も迷う必要なんてない。はずだったのに。
「……考えとく」
ノアはこの街からいなくなる。なんの未練もなくなるはずなのに、すぐには決断できなかった。
この街から出てしまったら、ノアと過ごした日々がまるで夢だったかのように消えてしまうような気がして。
次の日、俺は机に向かってガラスペンを弄んでいた。
俺みたいな冴えない男が持つよりも、こういうキレイなものはノアの方が良く似合う。自分には買わなかったんだろうか。
それを聞くことは、もうできない。
窓の外を見上げると、いつの間にか夕日が沈んでいた。部屋の中が薄暗くなっているのすら、気づいていなかった。
今頃ノアはどうしているだろうか。もう街を出ているのかもしれない。
それともまだ、あの宿にいるんだろうか。
考えたって仕方ない。あいつに別れはちゃんと告げたんだ。
机の上に散らばる紙束に目を落とす。全部俺が書き留めたノアの歌詞だ。
思い出に詩集にでもしようとも思ったが、見るたびにあいつのことを思い出す。
良い思い出だと笑って振り返ることが、いずれ俺にできるだろうか。それどころか、二度と会えない彼を思って鬱々としそうな気がする。
散らばった紙をかき集めた。
俺みたいなうじうじした男は、思い出の物なんて残ってると一生引きずってしまう。
部屋にある、最近は使ってなかった暖炉に紙を放り込んだ。
マッチをつけると、火が紙を飲み込むようにして黒く広がり、あっという間に灰に変わっていく。
俺の頭の中の記憶も、そうして全部消えてしまえばいいのに。
すべてが灰になったことを確認し、俺は机に戻った。
あとは、これだけだ。
ガラスペンを掴むと、両開きの大きな出窓を開けた。
周りの景色はすっかり夜の闇に溶け込み、何も見えない。まるでブラックホールのように、なんでも飲み込まれてしまいそうだ。
息を吸い込むと、ひんやりとした夜の空気が肺に入る。 ガラスペンが割れそうなほど、握る指に力を込めた。
これで、終わりにしよう。
力いっぱい振りかぶって、ガラスペンを夜の闇に放り込んだ。
すぐに窓から背を向けると、それが落ちた音すら聞こえなかった。
これでもうノアとの繋がりは何もない。全部終わったんだ。
あれは前世の記憶と同じ、フレデリックにとってはただの夢。
夢だったんだ。全部。
「僕のこと、嫌いになってしまいましたか?」
どこからか声が聞こえた。聞き間違えるわけがない、ノアの声だ。
でも、ノアの声がするはずはない。
俺の妄想が生んだ幻聴?
振り返ってみると、窓の縁から白い手が!
「ぎゃあああッッ!!!?」
ブラウン管から這い出てくる貞子が思い起こされる。
ホラー苦手なんだよ俺は!
しかし腰を抜かしそうな俺の前に、ひょこっと整った顔立ちが現れた。
ひとつに結んだ銀の髪を振りながら「よっと」と、出窓を乗り越えてくる。ひらりと舞い降りたのは、当然幽霊じゃない。
「ノア……」
「そんな悲鳴を上げられるほど嫌われてしまったなんて。僕の心は深く傷つきましたよ」
芝居がかった仕草で胸を抑える。
紛れもなく、目の前にいるのはノアだ。幻聴でも幻覚でもない。
「なんでお前がここにいるんだよ。もう街を出たんじゃなかったのか?」
「その前に、どうしてもあなたに夜這いをかけたくて」
「な……っ!」
「ふふっ、本当にフレディは可愛いですね」
またからかわれた。この期に及んでなんなんだ。
「そういう冗談はやめろって」
「でも、あながち冗談ではないのですよ」
ノアの顔がスッと真面目になる。
いつもの舞台衣装のような服と違い、黒い上下で闇に溶け込むノアはいつもと違って見える。まるで月夜を飛び回る怪盗のようだ。
「僕に連れ去られてはくれませんか?」
「は……?」
「あの夜、あなたが僕を連れ去ったように、今度は僕がフレディを連れ去りたいのですよ」
連れ去るとはなかなか不穏な言い方だが、つまりは――
「一緒に行ってもいいのか?」
「嫌ですか?」
「そんなわけ……でも、この前はやめとけって」
「僕が連れ去ったことにした方が、いろいろと都合が良いでしょう」
俺は勘当される覚悟でノアと行くつもりだったが、それでロストラータ家での立場が悪くなることを危惧したのか。
自分が悪者になることで、俺がムリヤリ連れ去られたことにしようと。
馬鹿だなぁ。
「もちろん無理にとは言いません。あなたはもう、僕のことなど嫌いでしょうから」
ノアが長い睫毛を伏せた。
「なんでそうなるんだよ」
「だって、僕の贈ったガラスペンを捨てたじゃないですか」
「それは……」
「悲しいです、とっても。あなたのことを想って一生懸命選んだのに」
そう言って目元の涙を拭っている。……が、涙が出てないぞ。
泣きマネだということがわかっても胸が痛い。捨てたのは本当だから。
「……逆だよ。嫌いになれなかったから捨てたんだ。ノアのことを忘れたかったから」
ぴたりとわざとらしい泣きマネをやめ、ノアが顔を上げた。
はっきり言わせる気か。それなら言ってやる。
「でも忘れられるわけない。物がなくなったって、お前のことは一生忘れられないってわかってる。それくらいノアのことが、好きになってたから」
推しにガチ恋なんてしないと思ってた。絶対に叶わないに決まっているのだから。
下心なんてなくて、ノアの身を守りたくてパトロンになっただけだ。そうだった、はずなのに。
「ペンは絶対に捜す。割れてるかもしれないけど、でも絶対に捜し出すから。だから……」
ノアがゆっくりと、俺の頬に手を添えた。
俺の火照った顔に、ひんやりしたノアの手は気持ち良かった。
「拒まないんですね」
「誰が拒むかよ」
「いいのですか? 本気になってしまいますよ」
「なってなかったら、わざわざ一文無しの男のとこに来ないだろ」
紫の瞳を瞬かせると、その輝きが柔らかくなる。
「お見通しですね」
「そっちこそいいのかよ。もう金は渡せないぞ」
「お金よりも大切なもの、いただきますから」
彫刻のような美しい顔立ちにはめ込まれた紫の瞳。そこに自分が映っていることに胸が熱くなる。
俺の方から、その艶やかな唇に唇を重ねた。ノアは小さく身体を反応させたが、すぐにその瞳を閉じる。
遠慮がちに、包み込むような唇の柔らかさが心地良い。
そっと離れていくぬくもりを逃がしたくなくて、強く抱き寄せた。ノアの心臓が、どくんと跳ねる。
「言えよ」
「っ、何をです?」
「好きだって」
「これ以上もないほど伝えたでしょう。野暮ですよ」
「言葉で聞きたいんだよ」
ノアの銀の髪を撫でる。さらりとした髪は、すぐに俺の指を抜け落ちてしまう。いつまでも触れていたいのに。
「……好きですよ、フレディ」
少し震えているその声に、よくできたと頭を撫でてやる。
「やめてください。なんだか恥ずかしい」
「今更お前がこんなことで恥ずかしがるのか?」
「抱きしめられたことは何度もありますが……好きな相手にされるのは、あなたが初めてですから」
それを聞き返すほど、俺も野暮な男じゃない。もう一度抱きしめると、ノアの体温が全身に伝わってくる。
推しが……ノアが自分の腕の中にいるなんて夢みたいだ。でも、夢じゃない。
と、右胸に何か硬いものが当たった。
なんだ? と身体を離し、ノアの左胸を見つめる。
俺の視線に気づいたノアが「ああ」と、思い出したかのように懐を探った。
取り出したのは……
「ガラスペン!?」
「あはは、バレちゃいましたね。あなたが放り投げるのが見えて、急いで受け止めたんです。大丈夫、割れていませんよ」
「そういうことは早く言え!」
安堵と脱力感が一気に襲ってくる。こんなドッキリは心臓に悪い。
「すみません。あなたの罪悪感につけこんで、連れ去ろうと思っていたもので」
「なんでそんなこと」
「そうでもしないと、ついて来てはくれないと……」
だからあんな芝居がかったことをしていたのか。
「馬鹿だな、ついてくに決まってるだろ」
俺がノアを拒否すると思っていたなんて。肝が据わってそうに見えて、怖がりなところもあるんだな。
そこまでして俺を連れて行きたかったことは心底嬉しい。が、唯一の後悔は……
「歌詞カード燃やさなきゃ良かったあああ」
ガラスペンは戻ってきたが、灰になった紙は戻ってこない。決別のために燃やしたはずが、無駄な後悔を作っただけだ。
ノアも暖炉の灰に気づいたらしい。
「いいではないですか。いつでも僕の傍で、何度でも書けるのですから」
「……まあ、それもそうだな」
俺とノアの視線が交わった。こうしているだけで、どの世界の誰よりも幸せだと思える。
「そろそろ出ましょう。兄上様たちに見つかったら――」
瞬間、ガチャリと音が聞こえた。
ノアが急いで出窓に手を掛ける。
「フレディ、行きましょう。急いで」
「先に行っててくれ」
扉の前にいるのがアーニーやノーマンなのか、それともアレク兄上か。
誰だかわからないが、逃げてはいけない気がする。
覚悟を決めた俺に、ノアは窓から手を離す。俺の斜め後ろに立ち、息を潜めた。
扉がゆっくりと開かれる。そこに立っていたのは
「兄さん……」
静かに佇む兄さんは、驚いているわけでも怒っているわけでもなさそうだった。
困ったような、寂しげな笑みを浮かべている。
「きっとフレディは、ノアくんと行ってしまうと思っていたよ」
「いつから聞いてたんだ?」
「少し前からね。立ち聞きするつもりはなかったんだが」
少し前というのが、最初からなのか今さっきからなのか。
けど、明らかにしない方がいいだろう。
息を小さく吸い込んで、兄さんの目をまっすぐ見据える。
「俺はノアの傍にいて、ノアの助けになりたい。だから、行くよ」
「それがフレディの、やりたいことなんだね?」
「ああ」
強く答えると、兄さんは息を吐き出した。
「ここにいるよりも君が幸せになれるのならば、喜んで送り出そう。君はもっと広い世界を見た方がいい。私も、弟離れをしないとだね」
エメラルドグリーンの瞳には戸惑いが見えるけど、その奥にはあるのはいつだって俺への愛情だった。
それに気づきも、気づこうともしなかった。
何を言えばいいのかわからない。
兄さんは静かに首を振って、俺の手に布袋を握らせた。丸々膨らんだ袋はチャリ、と僅かに音がする。コインだ。
「これは家から独立するときに渡すことになっている祝い金だ。持って行きなさい」
「いや、でも……」
家出しようと思っていたのに、祝われるなんて想定外だ。受け取るわけにはいかない。
返そうとしたが、兄さんに拒まれる。
「兄上からフレディに持たせるようにと言われたんだよ」
「兄上が!?」
「もう自立するのだから、二度と帰ってこないようにと」
それは祝いではなく手切れ金なのでは……?
どちらにせよ、兄上もああ見えて多少は俺のことを考えてくれていたのかもしれない。兄さんと同じように。
いつの間にか、兄さんの視線はノアに向けられていた。
「ノアくん」
「……はい」
「フレディをよろしく頼む」
深々と頭を下げる兄さんを、俺は初めて見た。
貴族にそんな態度を取られたことはなかったのか、ノアが一瞬たじろぐ。
それから自嘲気味に笑った。
「僕は大切なご令弟を攫っていく男ですよ。恨まれる覚えはあっても、頼まれる
「ははっ、では遠慮なく君を恨ませてもらうよ」
どこまで本気で言っているのかわからないのが怖い。
でもその曇りのない愛情表現を素直に受け取ることができる自分に驚く。
ダメだ。これ以上湧き上がる感情に浸っていると、決心が鈍る。
兄さんに背を向けると、ノアに手を伸ばした。
「行こう」
「ええ」
手を取り合って、俺たちは出窓に飛び乗った。先にノアが庭に降りて行く。
俺が飛び降りようとした瞬間「フレディ!」と兄さんに呼び止められる。
振り向くと兄さんが瞳を揺らし、ぎこちなく笑っていた。
「元気で」
「うん、兄さんも元気で」
ありがとう、と言い残し、ノアの隣に飛び降りた。