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18.誕生日


 それから一週間、使用人たち総出でパーティーの準備が進められた。

 みんなワクワクしてるのが見て取れて、屋敷が一気に明るくなったような気がする。


 様子を見に行くと「フレデリック様は主役なんですから!」と追い出された。仲間に入れてほしかったんだが、まあ仕方がない。


 思えば前世のときから、誕生日会など開いてもらったことがなかった。子供の頃は母親が祝ってくれたし、別に不満があったわけじゃない。


 フレデリックとしても幼少期には家族に祝ってもらった。

 あの頃は父上も母上もいて、アレク兄上も厳しいけど頭ごなしに怒ったりはしなくて、リュシアン兄さんはよく一緒に遊んでくれて……


 やめにしよう。誕生日前に鬱になってどうする。

 当日を楽しみに待つのが、俺の役目だ。



 そして、一週間が過ぎ――


「お誕生日おめでとうございます!」


 ノーマンに連れられて屋敷の大広間に入ると、使用人たちが声を揃えて出迎えてくれた。

 ダンスパーティーも開けるような広間には煌びやかな装飾品が飾られ、絶対に食べきれないであろうご馳走の数々が並べられていた。


 天井近くには横断幕のようなものが掲げられ、こちらの言葉で『フレデリック様! 19歳のお誕生日おめでとうございます!』と書かれていた。

 ここだけやたらと庶民的だ。小学校のお楽しみ会を思い出す。


「少々幼稚だと思ったのですが、アーニーがどうしても用意したいと聞かず……」


 横断幕を見上げる俺に、ノーマンが囁いた。

 見ると、アーニーが期待半分不安半分の目で俺を窺っている。これを一生懸命用意してくれているアーニーを想像すると、微笑ましくなった。


「ちょっと照れるけど、誕生日!って感じで盛り上がるな。ありがとう、アーニー」

「はいっ! 喜んでいただけて嬉しいです!」


 ぴょんぴょん跳ねるアーニーを、他のメイドたちが良かったねと囲んでいる。

 何もしていないのに、俺の方が嬉しくなる。


「おめでとう、フレディ」


 花束を持って、リュシアン兄さんがやって来た。


 深みのある青い花が散りばめられた花束。柑橘系のような、それでいて深い香りがする。


 うちの勲章に使われている花だ。本来は成人したときや、何かを成し遂げた祝いのときに送られる。

 まだこれを受け取る資格は俺にないとは思うが、兄さんの好意を無駄にはできない。


「ありがとう、兄さん」

「この1年はきっとフレディにとって、とても意味のある年になると思うよ」


 そうだろうか。でも引きこもりを脱却し、ノアと出会えた段階で今までとは違う人生になってきたとは思う。


「さあ、誕生日の挨拶を。みんなフレディの言葉を待っているよ」


 兄さんに促されて、花束を持ったまま皆の前に進み出る。


 集まってくれた十数人の使用人たちを見まわした。

 これだけの人数の前で喋るなんて初めてかもしれない。偉くなったと錯覚してしまいそうだ。


 さっきまでいたノーマンンの姿が見えないが、何か仕事をしているんだろう。こんなときまで大変だ。後で礼を言わなければ。


「今日は俺のためにありがとう。こんな盛大に祝ってくれて、すごく嬉しいよ。俺の誕生日ではあるけど、久しぶりのパーティーだ。みんな存分に楽しんでほしい」


 ワッと盛大な拍手が沸き上がる。まさか俺が拍手を受けることになるなんて。

 こんな俺のためにもったいなすぎる。胸に染み入るってのは、こういう感覚か。


 と、ノーマンが部屋に入ってくるのが見えた。まっすぐ兄さんの傍に行き、何かを耳打ちしている。


 兄さんは頷くと、俺に向かって笑いかけた。


「フレディ、お友達が来たようだよ」


 お通しして、と兄さんが伝えると、ノーマンは部屋を出て行った。

 いよいよノアがやってくる。なんか緊張してきた。


 兄さんをチラリと見上げると、どこか楽しそうだ。

 ものすごく期待されてる気がする。ハードルが上がってるが、本当にノアを受け入れてくれるだろうか。今になって不安になる。


 やっぱり、先に吟遊詩人だと伝えた方がいいかもしれない。


「兄さん、あのさ……」


 そのとき、一瞬にして部屋の雰囲気が変わった。

 アーニーたちが息を飲み、色めき立つ空気が伝わる。


「本日はお招きいただき、身に余る光栄にございます。レインジア子爵」


 ノアが胸に手を当て、恭しく兄さんに一礼した。


 レインジア子爵は兄さんの爵位名だ。ちなみにアレク兄上はアズレウス伯爵。そして俺はロレンティア男爵だったりする。

 父上が律儀に3つも爵位を持っていたお陰で、仲良く3人に分配されている。


 ノアの出で立ちは兄さんを前にしても霞むことはなかった。

 大切に育てられた貴族の末裔と言われても信じてしまう。その日暮らしの旅芸人にはとても見えない。酒場の中では浮いていた煌びやかなローブマントも、ここでは馴染んでいる。


「ノア・シャレードと申します」


 その声にハッと我に返り、2人の間に入る。


「兄さん、ノアは吟遊詩人をしてるんだ。最近よく俺も聞きに行ってるんだけど、ノアの竪琴と歌は本当にキレイで」


 驚きもせず、兄さんは微笑んで頷いた。


「ノアくん、いつもフレディと仲良くしてくれているようだね。ありがとう。来てくれて嬉しいよ」

「フレデリック様は私のような者にも、慈悲深くお心遣いくださっています。大変畏れ多いことでございます」


 俺に向けられた言葉ではないが、めちゃくちゃ他人行儀なことにむず痒くなる。


 兄さんが、ノアの持つケースに視線を移した。


「今日はキミの竪琴と歌を聴かせてもらえるのかな」

「お許しいただけるのであれば、フレデリック様のお祝いに1曲奏でさせていただきます」


 良かった。兄さんには好感触だ。

 兄さんが離れたのを見て、ノアに近づく。


「来てくれてありがとう、ノア」

「お招きいただいたのですから当然でございます。フレデリック様」

「俺相手にその話し方やめろよ。普通に喋ってくれ」

「それは助かります。慣れないことをするのは気疲れしますね」


 正直すぎるだろう。


 ふとみれば、アーニーたちがこちらを気にしている。お目当てはもちろんノアだ。

 気づいたノアがにこりと笑顔を向ければ、さすがにキャー! とは言わないまでも、みんな顔を赤くしている。


「みんな噂の吟遊詩人に会えるのを楽しみにしてたんだ。広場でやってるような、女子が喜ぶ流行歌をやってほしい」

「ですが、今日はフレディの誕生日でしょう。あなたの好きな曲を歌いたいのですが」

「俺はノアの曲は全部好きだぞ」

「嬉しいことを言ってくださいますね」


 兄さんがシャンパングラスを片手に、みんなの前に立つ。

 俺も主役なのだからと前に押し出され、横に並んだ。


「本日は私のかわいい弟、フレデリックの誕生日だ。皆も知っての通り、最近のフレデリックは見違えるように変わった。皆にはこれからも、温かい目で見守っていてほしい。……フレディ」


 急に兄さんの視線が俺に向けられ、みんなの注目も集まる。

 慌てて背筋を正し、グラスを握り直した。


「皆も私も、そして兄上も、いつでも君を大切に思っている。そして君には、無限の可能性がある。フレディはなんでもできる、なんでも叶う。君はひとりじゃない。それを忘れないでいてほしい」


 また拍手が起こった。嬉しいが恥ずかしすぎる。


 これまではこんな輝かしい希望に満ちた言葉なんて、素直に受け止められなかった。けど今なら、少しだけ信じられる気がする。


「フレデリックの新しい門出に、乾杯!」

「乾杯!」


 兄さんの音頭でグラスが掲げられた。明りに反射して、シャンパンがキラキラと輝く。


 独り引きこもっていた暗闇では見えなかった光。こうしてまた明りの下にいることになるなんて、少し前までは考えもしなかった。


「おめでとうございます。フレディ」

「ありがとう、ノア」


 ノアの銀色の髪はいつも以上に美しく見えて、まるで天の川のようだ。

 誕生日にみんなに囲まれ、隣には推しがいる。これ以上の幸せがあるだろうか。


 しばらく歓談の時間が続き、俺は使用人たち1人1人に感謝を伝えてまわった。


 俺のことを考えてくれる人がこんなにいたのに、なぜあんな孤独に苛まれていたんだろう。悲しみと惨めさと怒りで、完全に周りが見えなくなっていた。


 その感情が完全になくなったわけじゃない。それでも――


「皆様、吟遊詩人のノア殿にフレデリック様の誕生日を祝して歌をお贈りいただきます」


 ノーマが紹介すると、三日月型の竪琴を持ってノアが麗しい足取りで前に出る。


 竪琴を胸に抱えて一礼すると、深々とお辞儀を返したくなる。この月の天上人より自分の身分が上だと、まだしっくりこない。


「フレデリック様、改めましてお誕生日おめでとうございます。本日は私のような旅芸人をお招きいただき、大変な光栄にございます。フレデリック様の未来が希望と幸福に満ち溢れますよう、祈りを込めて」


 豪華なシャンデリア、華美な調度品に赤い絨毯、アンティークな洒落た椅子。

 劇場でこそないが、今のノアにとっては一番の舞台だ。


 ゆったりと椅子に腰掛け、胸に抱いた竪琴に指を添える。


 酔いしれるような甘いメロディーが始まった。

 曲が始まれば、一気にここはノアの世界になる。


 弦を弾きながら小さく息を吸い込むノアに、くるぞ……と胸元を握りしめた。


 透き通るような歌声が、さざ波のように広がっていく。

 男にしては艶やかな、女にしては芯のある歌声。本当に女神や天使がいればこんな歌声なのかもしれない。


 アーニーたちはあっという間に頬をピンク色に染め、ノーマンも「ほう」とモノクルを押し上げた。

 兄さんも温和な眼差しでノアを見つめている。


 流れるように曲調が変わり、流行化のイントロが始まった。アーニーたちが嬉しそうに顔を見合わす。

 アップテンポなその曲を歌うノアは、まるでアイドルのようだ。


 もし前の世界だったらダンスを踊っていたかもしれない。ノアの場合はヒップホップやジャズではなく、バレエが似合うだろう。

 どの世界でもノアは人々の目を惹きつけて離さないはずだ。


 と、また転調した。何曲かメドレーで弾いてくれるらしい。

 明るいけど深い音色、そして力強い歌声。俺の好きな曲だ。


 引きこもりを脱却しても気が滅入ることはある。

 広場での演奏や、店で歌う許可をもらうのに苦戦したとき自分のふがいなさに落ち込む。


 そんなときはこの曲を脳内再生したり、書き起こした歌詞を見て勇気づけられてた。

 ぐいぐいと引っ張られるようなポジティブさではなく、隣を一緒に歩いてくれるような優しい曲。


 酒場に行くとよく演奏してくれたけど、聞くのは久々だ。

 悲恋の歌はノアの色気が存分に発揮されて好きだが、心が温かく包み込まれるようなこの曲がやっぱり俺のお気に入りだ。


 続いて今度は、力強く弦が弾かれた。バラード? にしては力強く、底から何かが湧き上がってくるような音だ。暗く、深い。


 罪を犯して囚われた男が、牢の中から美しい娘に恋をする物語だ。けして届かないと知りながら、鉄格子のはまった小さな窓越しに見える娘を唯一の希望として暗い牢の中で過ごす。解けない鎖と共に、永遠に。


 祝いとして演奏するには重すぎる歌だ。

 不穏な気持ちはすぐに伝わり、ノーマンが眉間に皺を寄せる。アーニーたちも息を飲んでいた。兄さんの微笑は消え、じっとノーマを見つめている。


 大丈夫なのかとも思ったが、よくよく聞けば印象が変わる。

 あなたの声が聞きたい、触れたい、好きだと、随分直接的な歌詞だ。恋愛ソング、なのか?


 ふと、弦を見つめながら歌っていたノアが顔を上げる。まっすぐこちらを見つめるノアと視線がぶつかった。

 ノアの指先が弦を強く弾く。そして「愛してる」と囁くように、それでいて何かに縋るような歌声。


 その紫の瞳が鈍く歪んだ。


 メロディーが途切れ、しんと静まり返った。


 と思ったら、また緩やかな曲調に変わる。昔からこの国に伝わる子守唄のような曲だ。

 ホッとしたようにアーニーたちの顔が緩む。


 そうして大きな拍手の中、ノアの演奏は終了した。

 流れるように一礼するノアもまた美しくて、ここが酒場だったらかなりの投げ銭が飛んだだろう。


 取り囲むアーニーたちへにこやかに手を振って、竪琴を抱えたまま俺の傍にやって来た。


「お楽しみいただけましたか? フレディ」

「最高だったよ。アーニーたちも喜んでるし、俺の好きな曲もやってくれてありがとな。……ただ、途中やたらと重い曲やってただろ」

「ちょっと攻めすぎましたかね。あまり人前ではやらない曲なんです。ウケが悪くて」


 いたずらがバレたように笑う。


 それならなんで今日やったんだよ、と思ったが口には出さなかった。

 わざわざこれを選んだことに、何か意味があるのかもしれない。


「ノアくん、素晴らしかったよ」


 兄さんが手を叩きながらやってきた。どうやら印象は悪くなかったようだ。


「お褒めに預かり光栄です。レインジア子爵」

「歌や楽器の音色は人の心を癒す。フレディが元気になった理由がわかったよ。君のおかげだね」

「滅相もありません。私こそ、フレデリック様にご拝聴いただき心から救われております。もし、少しでもフレデリック様のお役に立てたのであれば、吟遊詩人としてこの上ない喜びにございます」


 吟遊詩人として、か。それは当然だ。

 でも胸に引っかかるのは何故だろうか。


「まだまだパーティーは続く。どうか身構えず、ゆっくりしていってほしい。もし君が良ければ、今日は屋敷で休んでいくといい。歓迎するよ」

「いえ、そこまでして頂くわけには――」


 言い終わる前に、兄さんはノーマンにゲストルームの手配を頼みに行ってしまった。

 戸惑っているノアの肩に、ぽんと手を置く。


「せっかく兄さんがああ言ってくれてるんだ。一泊くらいしていけよ」

「とても有り難いことですが……」

「なんだよ、浮かない顔して。そんなに嫌だったのか?」

「いえ、婿入り前のフレディと一晩ベッドを共にするなんて……」


 ノアが大げさに胸を掻き抱き、頬を染めている。

 ふざけてんだろ、こいつ。


「誰が同じベッドで寝るか! ノアにはゲストルーム用意してるから。というか、そもそもお前俺に、あんなこと……」


 あの日の夜のことを思い出しただけで、身体が熱くなる。

 にやりと口の端に笑みを浮かべて、ノアが顔を寄せた。


「あんなことって、どんなことでしたっけ?」

「あ……あんなことはそんなことだ! 覚えてんだろ! 言わせんな!」

「そのピュアな反応、私の汚れた心が洗われます。いつまでもそのままでいてくださいね、フレディ」

「お前……」


 バン! と、激しい音が部屋に響き渡った。

 一瞬にして部屋中の空気が凍る。


 勢いよく開かれた扉。

 現れた人影は――


「アレク兄上……」


 ラスボスのように仁王立ちで現れたのは、アレクサンドロ兄上だった。

 ヒョロガリな俺とは違い、見上げるような上背にがっしりとした肩幅。どんな軍勢でも跳ねのけるような出で立ちは、見ただけで相手が逃げ出すだろう。


 帰宅して部屋に直行してきたのか、黒いマントを羽織ったままで魔王のように見えるのは大げさじゃない。

 そもそも、まともに顔を見るのは何年振りだろうか。


 深い藍色の髪の奥では、青筋を立てているのだろう。

 強い意志を主張するかのような吊り上がった眉に、鋭い視線。部屋中の全員が蛇に睨まれた蛙状態になった。


「フレデリック!!」


 地の底から叫ばれたように、兄上の声が腹に響いた。周りを吹き飛ばすほどの迫力に倒れそうになる。


 地ならしでもするように近づいて来た兄上に、俺は一歩も動けない。動いたところで、どこにも逃げ場などないのだが。


 兄上が俺の胸倉を掴める距離に迫る寸前、兄さんが間に入った。


「兄上、到着をお待ちしていました」

「リュシアン、これは一体どういうことだ。なぜ旅芸人風情を屋敷に上がらせている!」


 ギロリと音が聞こえるほどの勢いで兄上がノアを睨んだ。

 ノアのことは俺が説明しなくてはいけないのに、兄さんの後ろに隠れて声が出せない。情けない。


「彼はフレディの友人です。誕生日なのですから、友人を招待するのは何も……」

「友人? 随分おめでたい頭になったな、リュシアン。田舎に行くとそうなってしまうものか」


 心臓が兄上に握られたようだ。息が上手く吸えない。


「フレデリックが巷でどんな噂になっているのか知っているのか。ロストラータ家の三男は吟遊詩人に入れ込んで夜な夜な大金を貢いでいると」


 そんな噂に……なっているんだろう。


 引きこもりだったとはいえ、俺のことはこの街じゃ誰もが知ってる。

 そいつが突然姿を現し、酒場で吟遊詩人に投げ銭をしていることなど格好のネタだろう。この街に暮らしていない兄さんはともかく、兄上の耳に入らないはずがない。


「そんな言い方は……フレディはただ、吟遊詩人の歌に代金を支払っていただけです」

「その金はどこから出ていると思っている。働きもせず引きこもっていたかと思えば、外で遊び歩いて下賤の男相手に散財しているとは。うちがどれだけ笑いものになっているか理解しているのか。そもそもお前がフレデリックを甘やかし、小遣いを与え続けていたのが原因だろう」


 引きこもり中も絶えず用意され、最近では値上がりまでした小遣いは兄さんが管理していたらしい。

 考えてみればそうに決まっている。貴族だからといって金が湧いて出てくるはずもないのだから。


「何をしている貴様」


 兄上が怒りの矛先をノアへ向けた。

 縮み上がりそうな剣幕にも、ノアは臆することなく兄上を見据える。


「アズレウス伯爵、ご不在のところ勝手な真似をして申し訳ありませんでした」

「わかっているならば、さっさと出て行け」


 一礼して、竪琴のケースを手にノアが出て行こうとする。


「ノア、待っ――ッ!」


 兄さんの背中から離れた瞬間、兄上に胸倉を掴まれた。

 力任せに引き寄せられ、踵が浮く。


「フレデリック! ロストラータ家の面汚しめ。お前は大人しくしていることもできないのか。河原乞食に施してやっているなど、責務をまっとうせず貴族気取りか。逃げて隠れることしかできないと思っていたお前に、そんな度胸があるとはな」

「あ、兄上……俺は……」

「兄上、落ち着いてください。フレディは、彼のおかげで希望を取り戻したのです。何も恥じることはしていない」

「これが恥ではなくなんだ! お前がこいつを甘やかすからだろう、リュシアン!」


 捨てられるように床に投げ飛ばされる。ノーマンたちが駆け寄ろうとしていたが、兄上の形相の前にどうすることもできないようだ。


 こうなった兄上は止まらない。とにかく今は黙って従っておくしかないとわかっている。

 それでも今は、俺だけの問題じゃない。


 飛び起きると、兄上を搔い潜ってノアの後を追いかけた。

 兄さんの呼び止める声が聞こえたが、構わず屋敷の外に出る。


「ノア!」


 屋敷の門を出たところで、銀色の後ろ姿を見つける。

 さらりと髪を揺らし、ノアが振り返った。その顔は何事もなかったかのように、いつも通り涼やかだった。


「ごめん! 兄上があんな……」

「どうかお気になさらず。よくあることです」


 こんな扱いが、よくあること。

 それでもまさかうちの屋敷に招いて、こんな目に遭わせてしまうなんて。


「兄上は俺のやることなすこと気に食わないんだ。だからノアのことも、ロクに知らないのにあんなこと言って。兄上はノアの歌を聴いたことがないから……」

「フレディ」


 ノアがゆっくりと首を振った。

 そこに悲しみはなく、窺えたのは諦めだった。


「もう部屋にお戻りください。兄上様がこれ以上お怒りになられたら大変でしょう」

「でも……」

「ああ、そうでした。これを」


 取り出した長方形の箱を手に握らされた。


「誕生日プレゼントです」

「こんな、俺――」


 ノアの指が、俺の唇に当てられた。

 憂うような紫の瞳で見つめられ、それ以上言葉が出なくなる。


「今日はお招きいただきありがとうございました。とても楽しかったですよ。おやすみなさい」


 去って行くノアの後姿を、ただ見送るしかできなかった。




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