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10.パトロン

 その日の夜、俺は街に出た。


 兄さんと話して思い知った。やっぱり、ノアのことを忘れられない。


 俺はノアの歌声に惚れ込んだんだ。裏で何をしていようが関係ない。

 普通の客として応援して、ファンとしての一線を超えなければいいだけだ。


 今日どこで演奏するか聞いていなかったが、どこかの酒場にはいるだろう。

 そう思って酒場に向かおうとしたものの、どうにも足が進まない。

 少し進んでは引き返し、また進んではわき道に逸れる。遠くから酒場を覗き、ノアが見えないとホッとする。


 そんなことをしながら、ウロウロと夜の街を歩き回っていた。

 ある一軒の酒場の前で、声が外にまで聞こえてくる。もしかしたら、ノアが来ているのかもしれない。


 そう思った瞬間、逃げるように踵を返した。心臓が鷲掴みにされたように苦しい。


 ……今日はダメだ。帰ろう。

 どんな顔してあいつに会えばいいのか、どうしてもわからない。


 人通りの少ない路地を選んで歩いた。

「吟遊詩人が来てるらしいぞ!」「いやあ、今日もキレイだったな」

なんて客の声すら聞きたくなかった。


 明日また来よう。あさってでもいい。そのうち、きっと……


「――っ!」


 寂れた宿屋の前に、2人の人影が見えた。

 太った男に腕を絡ませているのは、長い銀髪。


 考えるよりも、動く方が早かった。

 咄嗟にノアの腕を掴み、強引に引っ張り走り去る。


「おい!」と太い声が聞こえてきたが、構わず走り続けた。

 掴んだ腕は振り解かれることもなく、俺の後に足音が続く。


 なにしてるんだ、俺!



 しばらく走ったところで、身体が限界を迎えた。

 男が追って来ていないことを確認して、建物の陰に身を隠す。


 火事場の馬鹿力で走れたのか、ホッとした途端に息が切れる。ぜえぜえと肩で息をした。


「大丈夫ですか?」


 顔を上げると、ノアがブロンズの筒を差し出していた。


「水です。よろしければ」


 いらない、と意地を張っていられる状況ではなかった。

 受け取った水筒の水を一気に煽る。冷たい水に、火照りきった胃が冷やされる。


 ひと息ついて、濡れた唇をぬぐった。


「ありがとう……あと、なんか、ごめん」

「いえいえ、なかなかおもしろい経験をさせていただきましたよ。まじめな方だと思っていたのに、意外と大胆なんですね。フレディ」


 水筒を腰に下げたノアは、なぜか楽しげだった。


「お久しぶりです。最近お顔を見せてくださらないので、寂しかったんですよ」

「……お前、なにやってたんだよ」

「なにって」

「さっき、男と宿に入ろうとしてただろ」


 ああ、とノアが笑う。


「仕事です」


 絞り出すように聞いたが、なんでもないことのようにさらりと返される。


「お前の仕事は歌だろう」

「あんなのただの客寄せです。誰も聞いていませんよ。みんな僕の身体が目当てですからね。こっちが本業のようなものです」

「っ、だから俺にも……あんなことしたのか」

「ええ。とても楽しい夜でしたが、ご満足いただけませんでした?」


 ノアの一言一言に眩暈がする。


 思い返せば、酒場に集まっていたのは中年の男たちばかりだった。

 女や子供がいないのは夜の酒場だからと思っていたが、それだけが理由ではなかったらしい。


 男たちは歌に聞き惚れていたのではなく、ノアの姿に興奮して色めき立っていたんだ。

 見惚れていたのではなく、ノアを値踏みして舐めまわしていたのか。


 ノアもそんなことは承知で客を取るために歌っていただけで、売春がメインだったと。

 そして俺にしたようなあんなことを……それ以上のことを他の客として、さっきの男ともしようとしていた。


 口の端でノアが笑う。


「ピュアなんですね」


 カッとまた胃が熱くなる。

 恥ずかしくて、悔しくて、腹が立つ。


「お前なら、そんなことしなくても歌を仕事にできるはずだ」

「随分僕を買い被ってくださるんですね。残念ながら、僕の歌だけに金を払ってくれる人なんていません」

「俺はお前の歌に金を払ってた。お前と寝るためじゃない」


 世間知らずだと、童貞だとバカにされたっていい。

 俺がノアに伝えてきた言葉は下心なんかじゃない、全部本心だったのに。


「ノアには才能がある。正当に評価されるようになれば、男と寝る必要なんてなくなる。絶対に有名な歌い手になれる。だから……」

「だから、もう娼婦まがいのことはするなと?」


 口元の笑みが消え、冷ややかな紫の瞳が俺を見据えた。


「例えば本当に、僕が有名な歌い手になれるほどの才能があったとしましょう。でもそれは、明日なれるのですか? 明後日? 僕は一日を生きていくことだけで精一杯の流れ者です。いつかなれるかもしれないその日のために、のんびりと歌のお稽古ばかりしている余裕はないのですよ。貴族の皆さんと違ってね」


 柔らかな声に宿る棘が、俺に突き刺さる。


 ノアにしてみれば、働きもせず小遣いで投げ銭をしている俺など、何の苦労も知らない坊ちゃんにしか映ってないだろう。


 いや、実際そうだ。今の俺は温室からキレイごとを言っているに過ぎない。

 生きるためにやっている相手に、偉そうなことを言える権利はない。


「駆け落ちごっこは終わりにしましょう。そろそろ戻らないと、今頃血眼で僕を捜しているでしょうから」


 くるりと背を向けるノアの銀色が揺れる。

 俺に止める権利はない。これはノアが生きていくうえで仕方のないことだ。


 そう思っても、どうしても、行かせたくない。


 去り行くノアの腕を、もう一度掴んだ。


「手、離してもらえます?」

「……行くな」


 呆れたようなため息が落とされる。


「僕だって好き好んで酒臭い親父たちと寝たくはありませんが、これも生きていくためなのですよ」


 嘲笑するように、ノアが俺の顔を覗き込んだ。


「それともなんですか? 貴方が私のパトロンとなって、お金を支援してくださるとでも?」


 パトロン。

 芸術家に金を出して支援している貴族の話を聞いたことがある。

 金を恵んでもらいたいくらいだった前世の俺には考えもつかなかった立場だ。


 でも今の俺になら、できる。


「わかった」


 掴んだノアの腕が、ピクリと動いた。


「パトロンになるよ。お前の生活費や諸々の経費、全部払ってやる」

「……本気ですか?」

「その代わり、もう客と寝ないって約束しろ。歌と竪琴に専念するんだ」


 予想外の反応だったのか、ノアが口籠る。

 俺は力を込め、揺れるアメジストの瞳をまっすぐと見つめた。


「約束するなら、俺がノアを国一番の吟遊詩人にしてやる」


 一拍置いて、アメジストが挑発的に輝いた。


「いいでしょう。僕の人生、あなたに託します。フレディ」



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