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9.リュシアン


 こうして、俺はすっかり引きこもりに逆戻りした。

 何もやる気が起きない。虚無感に襲われている。


 時折ノアのことを思い出しては「あああっ」と叫んで布団を被ったりしていた。

 何もする気が起きないのに、何もしていないとノアのことを考えてしまう。

 頭の中でノアの歌がエンドレスリピートされて消えない。


 こんなことなら、死んだ方がマシ……


 コンコン、とノック音が聞こえた。


 また引きこもった俺を心配して、時々ノーマンやアーニーたちが様子を見に来てくれる。

 病むギリギリで思い留まっているのは、使用人たちがいてくれるお陰だ。

 頑張って掃除を手伝ってくれたアーニーを、泣いて喜んでくれたノーマンを悲しませたくはない。


 俺は呼吸を整え、手櫛で最低限髪を整えて扉を開けた。


「っ、フレディ」

「……リュシアン兄さん」


 確認もせずに扉を開けたことを後悔した。

 立っていたのは、2番目の兄リュシアンだった。


 俺よりも明るく柔らかな藍色の長い髪を、ハーフアップのように結い上げている。

 そしてキレイなエメラルドグリーンの瞳。目鼻立ちの整った色素薄い系男子。

 怒ることを知らない穏やかで落ち着いた表情が絶えることがない。


 どこからどうみても、大切に育てられた貴族のご子息といった雰囲気だ。

 血を分けた兄弟とは思えない、見るだけで自分のコンプレックスを刺激される。


 今でも独身なことを、弟の俺でも不思議に思う。


 そんな兄が涼やかな瞳を大きく見開いている。

 まさか俺がすんなり扉を開けるとは思わなかったんだろう。事故なんだが。


 驚いた顔を一瞬で引っ込め、リュシアン兄さんは穏やかな表情を浮かべて俺を見つめる。

 その視線に耐え切れず、逃げるように床に目を伏せた。


「久しぶりだね。顔を見せてくれて嬉しいよ」

「え、あ、ああ、まあ……」


 開けてしまったら閉めるわけにもいかない。

 兄さんだって俺に開けられて困惑しているんだろう。そんな素振りを見せないところは流石だ。


 「様子を見に来た」という事実を作りたかっただけで、本当に俺の顔を見たいわけじゃなかっただろうに。


「散髪をしたのかい? とても似合っている」

「そ、そう、うん……」


 コミュ障過ぎるぞ俺。

 でも今更兄さんと何を喋ればいいのかわからない。それは向こうも同じだろう。

 頼む、早く帰ってくれ。


 という俺の願いも虚しく、兄さんは話を続けた。


「せっかくだから、久しぶりに一緒に食事をしないか? 昼食はまだだろう?」

「え? いや、俺は……その、食欲が」

「すぐにお食事をご用意いたします。リュシアン様」


 いつの間にか音もなく傍にいたのはノーマンだった。

 チラリと見上げると、にっこりと笑っている。俺と兄さんが喋っているのがそんなに嬉しいのか。


「アーニー、すぐに昼食の準備を」

「かしこまりました」


 後ろで控えていたアーニーが、ノーマンに言われた瞬間に動き出す。

 なんだこれは。何かが仕組まれていたのか? 全員グルになって俺をどうしようっていうんだ。


「さあ、行こう。フレディ」


 兄さんが俺の腕を掴んだ。一体何を考えているのかさっぱりわからない。

 引きこもりを直す矯正施設にでも連れて行かれるのか? ついに絶縁されて家を追い出されるのか?


 為すすべもなく、俺は兄さんに連行されて行った。



 そのまま家を追い出されることもなく、連れて行かれたのは屋敷の食堂だった。

 どうやら本当に昼食を食べるらしい。


 だだっ広い部屋に、クロスの掛けられた長い机が置かれている。

 その端と端にでも座りたかったのだが、上座側に向かい合わせに座らされた。


 食事は使用人たちと一緒に食べないから、わざわざ食堂を使うのも面倒だと相変わらず部屋で食べていた。

 この部屋で食べるのも一体何年振り、そして兄さんと食事をするのも……


 既に食欲がない。何も喉を通る気がしなかった。


 パン、サラダ、スープ、オードブルの魚。

 コース料理のようなメニューが一気にテーブルに並べられた。


 兄さんが上品に微笑む。


「フレディは順番に配膳されるのが苦手だっただろう? こうして並んだ料理を見ると、昔を思い出すね」


 食べてる最中に次の料理が運ばれて、食べたらその都度皿を下げられるのが苦手だった。

 早く食べろと急かされて、絶対残すなと言われているようで、落ち着いて食べていられない。

 アレク兄上には許されなかったが、リュシアン兄さんと2人だけのときは最初から全部の料理を並べてくれた。


 そんなこと、まだ覚えていたのか。


 兄さんが優雅な仕草でナイフとフォークを手に取る。俺も慌てて形だけ真似る。

 食欲はなかったが、白身魚を適当に口に運んだ。


「……旨い」


 魚が口の中でホロっと崩れた。ソースがまた堪らなく俺の好みだ。

 失せていた食欲が復活して、箸が……いやフォークが進む。


 気づくと兄さんが手を止めて、子供を見つめるような優しい笑みを浮かべていた。


「昔から、フレディは肉より魚が好みだったね。口に合ったようで良かったよ」

「……なんか、ありがとう。いろいろと」


 俺好みの配膳に俺好みの食事。

 全部兄さんが決めてくれたんだろう。


 俺が礼を言うと、兄さんは意外そうな顔をした。少しだけ目が潤んでるようにも見える。

 ノーマンといい、大の大人を泣かせてしまうほど、今までの俺は酷かったのか。



 よそよそしかった空気が若干緩み、ぽつりぽつりと兄さんと軽い話をしていく。


 兄さんが今統治している小さな村は農村地で、自然に溢れ森や川がとてもキレイだという。

 仕事の合間に散歩に出かけ、農家の人々から野菜を貰うこともあるんだとか。


 アレク兄上は庶民と積極的に関わることなんてないが、リュシアン兄さんは違うようだ。

 兄弟だというのに、本当に好みが真逆だ。そもそも兄上だったら仕事のためとはいえのんびりとした田舎の人たちと馬が合わず、すぐに揉めるだろう。


「フレディも最近よく街へ出ているそうじゃないか。何かおもしろいものでも見つけたかい?」

「まあちょっと……ぶらぶら散歩したり、本屋とか入ったり」


 適当に言っただけなのだが、兄さんは興味深そうに頷いた。


「本を読んでいるんだね。どんな本が好きなんだい?」

「どんな、って……」


 前世ではバトル漫画や異世界もののラノベを読んでたが、こっちにそんなものはない。

 第一、この家には軍事記録だの歴史書だの小難しい本ばかりで小説すらない。

 兄さんたちは読書家だったが、フレデリックとしてはあまり本に親しみはなかった。


「私も小説をよく読むんだ。だが、今暮らしている村には大きな本屋がなくてね。なかなか新しい本を手に入れることが出来なくて残念だよ」

「え、兄さんが小説を読むのか?」

「ああ、特に魔法使いや妖精が出てくる話がおもしろい。空想小説というのかな」


 兄さんがファンタジー小説を!?

 前の世界では驚くことでもないが、こっちの世界では空想小説なんて暇を持て余した貴族の女が読むものという認識だ。

 アレク兄上もリュシアン兄さんも、てっきりそんな本は嫌いだと思っていたが。


 俺が驚いていると、兄さんが照れ臭そうに頭を掻いた。


「兄上からは良い顔をされないけれどね。こんな魔法はデタラメだとか、妖精や精霊なんているはずがないと散々言われたよ。でもそういうことを空想していると、心がわくわくとしてくるだろう」


 まるで少年のような顔をして、兄さんはそう言った。

 それは前世で好きなアニメを語らう子供や俺たちオタクと、なんら変わらないように見える。


「現実と違うからこそ、夢が見られて楽しいんだよな」


 思わず口をついて出てしまった言葉に、前世の記憶がよみがえった。



 前世の俺。楓人としての子供時代は、あまり楽しいものではなかった。


 小さな頃に両親が離婚して、母親は働き詰めで家ではいつも1人。

 そんな時に支えになったのがアニメや漫画だった。

 母親も漫画に寛容なタイプだったから、厳しい家計の中からたまに漫画を買ってくれた。


 でも高校生になって、母親が再婚すると事情が変わった。


 再婚相手の男は俺と真逆で、オタクが大嫌いなタイプだった。

 嫌いなだけならともかく、義理の息子になった俺がオタクなことを許せなかったらしい。


 アニメを見ていれば罵倒され、どんなに隠しても家に帰ると漫画やラノベが庭に捨てられていた。


 アニメや漫画に支えられてギリギリのところでメンタルを保っていた俺は、完全に壊れた。

 家にあの男がいるから完全に引きこもることはできなかったが、虚無な3年間を過ごした。


 卒業と同時に家を出て、バイトしながら1人暮らし。

 そのバイト先もブラックでパワハラやいじめを受け転々として、途中から日雇いバイトばかりしていた。


 そんな中で紫月ノエルと出会い、細々と応援することが俺の生きがいになっていた。


「フレディも空想小説が好きだったのかい?」


 兄さんの穏やかな声に、ハッと現実に引き戻される。

 すっかり楓人の意識だったが、今の俺はフレデリックだ。


「ええと、本屋でちょっと見たのが、おもしろくて」

「どんな物語なのかな?」

「え……」

「聞かせてほしい。今フレディが何を好きなのか」


 ナイフとフォークを置き、淀みのない純粋な目がこちらを向く。


 適当に誤魔化してしまうこともできるが、兄さんへの罪悪感からか気が引ける。

 とはいえ、前世の漫画やラノベの話なんてしてもわかるわけがない。


 適当にこっちの世界にありそうな小説をでっち上げるか。でもそんなの……

 脳裏に、銀色の光がよぎった。


「ぎ、吟遊詩人が出てくる、話」


 苦し紛れに口から出たのは、ノアの話だった。

 小説の話とはいえ吟遊詩人、印象が悪い可能性もある。


 でも兄さんは驚きもせず、むしろ興味深そうに身を乗り出した。


「ほほう、吟遊詩人。歌を歌う旅人のことだね」

「そ、そう。銀色の流れるような髪に、三日月みたいな形の竪琴を持ってるんだ。男なんだけど幻想的で、この世の者とは思えない月の住人のような美しさで」


 うんうんと、兄さんが俺の話に耳を傾ける。


「見目麗しい吟遊詩人か。きっと、見た人誰をも虜にするんだろうね」

「ああ! でも、そいつが本当に魅力的なのは歌声なんだ。鈴の音みたいな神秘的な歌声。もちろん竪琴の演奏も心地良くて。けど周りは、みんな見た目の良さしか見ていない」


 俺だって人のことは言えない。最初に興味を惹かれたのは、紫月ノエルと似た風貌だったからだ。

 それでもあいつはノエルじゃない。あの歌声に竪琴。俺はそこに惚れ込んだのに。


「フレディは、彼が大好きなんだね」


 改めてそう言われると、急に恥ずかしさが込み上げる。


「し、小説の話だから!」

「わかっているよ。好きなものがあるというのは幸せなことだ。物でも人でも、何か夢中になるものがあると人は変わるものだからね」


 食事を終えると、兄さんについてくるよう言われた。

 入ったのは兄さんの部屋。いくら兄弟でも無断では入らないから、子供の頃以来か。


 既に住んでいないとはいえ、書き物机しかないシンプルな生活感のない部屋だ。

 本棚は壁に埋め込まれていて、小難しい本がずらりと並んでいる。


 兄さんはおもむろに本棚の仕切りに手を掛けると、スライドした!? 後ろからまた別の本棚が出てくる。

 隠されていた本棚には、アンティークのような箔押しのオシャレな背表紙が並んでいた。


「ここの本棚はすべて小説だ。好きに読むといい」

「これ全部!? でもなんで本棚が二重に」

「兄上に見つかると捨てられてしまうからね。一部は家を出るときに持って行ったが、全部をこっそり持ち出すのはとても無理だから」


 兄上には内緒だよ、と兄さんが人差し指を唇に当てた。

 俺とは真逆だと思ってた兄さんが、捨てられないように漫画を隠してた前世の自分と重なる。


 戸惑いつつも、とりあえずいくつか兄さんのオススメの本を借りた。

 それを部屋に置いて、兄さんを玄関先まで見送りに出る。


「今日はたくさん話をしてくれて嬉しかったよ。また食事をしよう。本の感想も聞きたいからね」

「兄さん、あの……」


 ごめん、と言うべきかもしれない。あんなことをして。


 でも、どうしても喉の奥に突っかかって出てこない。


「……ありがとう。本、大事に読むから」

「ああ。本をたくさん読んだり外に出掛ければ、フレディの世界も広がる。きっとやりたいことも見つかるだろう。フレディはやればできる子だからね。私も兄上も、ずっと信じているよ」


 笑顔で軽く手を振って、兄さんが帰って行った。


 兄さんは優しい。

 でもその優しい言葉が呪いにもなると、兄さんは知らない。




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