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4.生きる希望


「ノア……」


 屋敷に戻ってからも彼の姿が、声が頭を離れなかった。


 この世の者とは思えない、幻想的な姿と声。

 紫月ノエルにそっくりだ。でも喋り方は、ノアの方が上品だったな。


 ホームレスのような俺を見ても嫌な顔ひとつしなかった。

 それどころか、あんな優しい笑みを俺に向けてくれた。

 あの魅惑の声で「フレデリックさん」なんて名前を呼んでくれた。


 俺、フレデリック・ヴァン・ロストラータ。

 転生後にも推しを見つけました!


 また会いに行こう。

「また来てくださいね」って言ってくれたもんな。


 だが、推しに会いに行くというのにこんな格好ではダメだ。


「おーい! アーニー! ちょっと来てくれ!」


 部屋の扉を開けて、大声で叫んだ。

 飛んできたアーニーが目を丸くしている。


「フレデリック様、いかがいたしましたか?」

「すぐに散髪屋を呼んでくれ」

「散髪屋……髪を、切られるのですか?」

「そうだ。髭も剃ってもらいたい。大至急。ああその前に、風呂にも入らないと」

「か、かしこまりました」


 風呂に入ると、自分でも引くほどお湯が汚れた。

 髪も身体も念入りに石鹸で洗うと、薔薇の香りに包まれる。


 身綺麗になっていくにほどに、酷い格好でノアの前に出てしまったことが恥ずかしくて仕方ない。


 でもそんな酷い身なりで酷い臭いを漂わせていた俺に、ノアは笑顔を向けてくれた。

 見た目だけじゃなく、中身まで天使なのか。


 その日のうちに散髪屋が屋敷に到着した。

 髪をさっぱりと短くして髭を剃った俺を見て、アーニーが目を輝かせる。


「見違えました、フレデリック様! とっても素敵です!」

「そ、そうか……?」


 そう思って鏡を見たが、映っているのは黒っぽい藍色の猫っ毛、丸くも切れ長でもない平凡な暗い瞳。

 見目麗しい兄2人とはまったく違う、どこにでもいる平々凡々を絵に描いたような男だ。

 元が酷かっただけで、けしてイケメンになれたわけではない。


 しかし、大事なのは顔の造形じゃない。清潔感だ。


 見た目だけではダメだ。この汚部屋にいたら、いくら風呂に入ってもすぐに臭くなってしまう。

 部屋を掃除しよう。



 それから毎日、部屋の掃除をした。


 前世だったら清掃業者が入りそうなレベルだったが、責任をもって1人でこつこつとゴミの山を崩していく。

 食べかすに腐ったゴミ、汚れた皿、ナイフにフォーク。


 何かを書き殴った紙も大量に出てきた。

 日記のようにその日あった嫌なことや、自分への呪いの言葉が綴ってある。まともに読んでいたら気分が沈みそうだ。

 こんなものは捨てた方がいい。そして全部忘れてしまおう。


 来る日も来る日も黙々と掃除をしていると、アーニーが様子を見にやってきた。

 いつも三つ編みをしている赤毛を、今日は頭の後ろでひとつにまとめている。


「フレデリック様、私もお手伝いいたします」

「え、助かるけど……いいのか?」

「はい。ぜひやらせてください」


 1人でも手伝ってくれるのはありがたい。

 ところが、アーニーが来てから1人、また1人と徐々に他の使用人たちも手伝いに来てくれるようになった。


 そこからは、あっという間にゴミに埋もれていた床も机もベッドもすっかり片付いた。

 俺の身なりと同じように、すっかりキレイさっぱりだ。床を見るのは何年振りだろうか。


「ありがとう! みんなのお陰で、こんなに部屋がキレイになった」


 当然の感謝を伝えただけなのに、皆がどよめいた。

 そういえば、フレデリックとして礼の言葉を伝えたことなんてなかった気がする。

 今までは鬱々とした自分の気持ちに支配されていて、周りに気を配る余裕もなかった。


「見違えたのは坊ちゃまの方でございます。ご自分でお部屋のお掃除をなされるなんて……きっと兄上様たちもお喜びになるでしょう」


 俺が子供の頃から屋敷で働いている執事のノーマンが涙を浮かべている。

 引きこもって荒れていた期間をすべて知っているとはいえ、大げさじゃないか。


 でも考えてみれば貴族として当然とはいえ、子供の頃はメイドたちが掃除をしてくれていた。

 引きこもってからは誰も部屋に入らせず、もちろん自分で掃除なんてしていない。

 それどころか風呂にも入らず、髪も伸ばしっぱなし、服も着替えない。


 そんな俺が身なりを整え自ら掃除をしたのだから、それこそ生まれ変わったように見えているんだろう。

 確かに俺は生まれ変わった。転生したという意味じゃない。


 ノアのお陰で、俺は変われたんだ。




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