異世界転生して良かったことは、働かなくても食うに困らないということだ。
金がなくてもこんな大きな家に暮らして、働かなくても腹が減れば自動的にメシが出てくる。
そういう意味では、転生ガチャ成功だ。
ただ、それだけだ。
この世界には引きこもって時間を潰せるような娯楽が何もない。
当然スマホもパソコンもない。
紫月ノエルの配信が見たい。
腹が減ってもバイトをクビになっても、推しがいれば幸せだった。
逆を言えば、金があってもメシが食えても、腹は満たされるが心は満たされない。
推しがいない世界なんて、このゴミ溜めの部屋と同じだ。
この世界で、一体俺は何を心の支えとして生きていきていけばいい。
トントンと、控えめに扉を叩く音がする。
「フレデリック様」
メイドのアーニーの声だ。
うちには使用人が何人もいるが、誰一人として部屋に入ってこない。俺が入らせないのだが。
たとえ俺が入れと言ったところで、こんなゴミ溜めの部屋で不潔な主人と会いたくはないだろう。
アーニーは新人の16歳で、俺の担当を押し付けられている可哀想なメイドだ。
「先程リュシアン様からご連絡がありました。本日お戻りになるそうです」
リュシアンは5つ年上の2番目の兄だ。
今はこの屋敷を出て地方の村を統治しているが、たまに俺の様子を見に帰ってくる。
リュシアン兄さんは優しく穏やかで、引きこもった俺を根気強く励ましてくれた。
お前はやればできる子だ、諦めなければ必ず努力は報われる。
俺のために言ってくれていたのはわかっているが、その言葉が俺には致命傷になった。
数年前に兄さんと大揉めして以降は、ほとんど顔を合わせなくなった。
それでも部屋の外から兄さんは俺に話しかけてくる。
声を聞くのも煩わしくて、返事すらしていない。
俺の強情な態度にも構わず、兄さんは最近やたらと家に戻ってくる。
そろそろ強行突破で部屋に入ってくるかもしれない。
逃げよう。
外に出るのも嫌だが、兄さんに会う方がもっと嫌だ。
俺はベッドを抜け出し、ゴミの山を踏みつけながら分厚いカーテンを開けた。
目が眩むほどの眩しい日光に照らされる。ヴァンパイアだったら消えていそうだ。
好都合なことに、ここは一階の角部屋。出窓を乗り越えれば簡単に逃げ出せる。
兄さんは忙しいからどうせすぐ帰るはずだ。
その辺で散歩でもして時間を潰そう。