「……正直、八尾さんの気持ちもわからないわけじゃないんだよ」
屋上での事件から、一週間後。
夏樹は駅前のベンチに座って、理貴と電話で話していた。
「もし、似たような感じで相談されててさ、屋上から飛び降りたのが冬樹だったら。俺もきっと、“恋人”のこと恨んで復讐したいって思ってたと思う。例え、自分の兄弟に危ういところがあるってわかってても。妄言を言っている可能性がチラついても。……自分の兄弟の味方をしたいって、やっぱそう思っちゃうだろ」
『……そりゃ、そうだけどさ』
「人間ってそういうイキモノなんだよ。いつだって求めてるのは“真実”じゃなくて、“自分に都合の良い真実”なんだ。そこから簡単には動けない。己の視点にフィルターがかかっていることにさえ、気づいてない奴もいるから尚更に」
あの後。吹奏楽部の先輩たちと先生に取り押さえられた八尾鞠花は、もう暴れることはしなかった。ずっと子供のように、まともな言葉にもならない言葉で喚きながら泣きじゃくっていた。多分、先輩たちに“夏樹君に双子の弟がいるのは本当だから”とか“こんなことしちゃいけない”と何度も諭されたというのも大きいのだろう。
彼女の中では、萬屋夏樹こそが“姉をレイプして捨てて自殺に追いやった諸悪の根源”であり、それ以外の真実などあってはならないものだったに違いない。姉の仇を討つ――それが彼女の心の支えであったがゆえに。そのためだけに、かつての自分を捨ててきたがゆえに。
掲示板やネット、それから理貴が友人達から聞いた“九町恋花”の評判は殆どがさんざんなものだった。実際、美しくて上品なその外見や成績の良さへの嫉妬もあったことだろうし、それを信じていたら裏側にあったギャップに恐怖した人間も多かったということなのだろう。彼女は、自分が欲しいと思ったものを手に入れるためならば目的を選ばない人間だった。それこそ、人間以外なら生き物を殺したり人が大切にしているものを壊すことも厭わないほどに。
それが、多くの生徒達にはサイコパスとして受け取られ、怖がられ、孤立していた。その結果、余計好きになった少年――萬屋冬樹に、その恋心に依存していったというのもあるのだろう。
でもきっと。あれだけ妹に慕われているのだから、それ以外の一面だってあったに違いないのだ。少なくとも鞠花にとっては、自分を理解してくれる優しいお姉さんであったのだろうから。誰かの目から見える姿が全て、物事の真実とは限らないのである。
もしも、恋花のそんな少しばかり病んだ性質に向き合ってくれる人が現れたなら。そして彼女が、己の心の問題に気付くことができていたのなら。このような悲惨な結末だけは、避けられたのかもしれなかった。
「同じ学校に通ってたら、お姉さんの方がおかしいってことにも気づけたかもしれないけどさ。実際、八尾さんは別の学校だったし、毎日逢えていたわけでもない。その上で、お姉さんにとって都合の良い情報ばっかり吹き込まれてればそりゃ、勘違いもしちゃうって」
まあ、見せてもらった写真とやらがスマホで撮影したピンボケな“冬樹の隠し撮り(夏樹の写真と間違えるくらいの)”だった時点で、鞠花には違和感を感じてほしかった気がしないではないが。そこはもう、今言ってもどうしようもないことである。
「俺だって、冬樹の隠し事に気づけなかったんだ。一緒の学校にいてさえそうだったんだよ。……八尾さんのこと、頭っから責めたりできないって」
『お前な、殺されかけたのによくそういうこと言えるな……』
「そりゃ殺されてたらこんなこと言えてはないですけども。やっぱり兄弟いる身としては、考えちゃうわけだよ。自分だったならどうだったかなって」
そもそも、冬樹の部屋から証拠の手紙やらヤバイ毛やらが出てきていなかったら、自分は感情だけで冬樹の潔白を信じたかもしれないのだ。都合の良い真実、というのなら自分だってけして否定できる話ではないのである。
あの事件は、警察に言わないということで決着した。他でもない夏樹がそう望んだからだ。吹奏楽部のメンバーにはある程度事実は知られてしまったが、夏樹と先生が皆に頼んで箝口令は敷いた。どこまで人の口を閉ざしておけるかはわからないが、部としても不名誉な話であるし余計なお喋りをする人間はいないと信じたい。
猫の件ももう、学校側に表沙汰にしないでくれと頼まれてしまっているし、夏樹としても騒ぎ立てるつもりはない。あとは八尾鞠花本人がどう選択するか。残る問題は、それだけなのである。
彼女はあれから一週間。学校には、来ていない。
『……本当にまた、二人だけで会う気かよ。八尾鞠花と』
電話の向こうの理貴の声には、じんわりと怒りが滲んでいる。
『俺が通り魔に襲われた件はどうでもいいよ、八尾さんだってまさか俺が襲撃されると思ってたわけじゃねーみたいだしさ。でも、そもそも俺は友達としてお前にしたことは許せない。むしろ冬樹君のストーカーの件も含めて、きちんとお前に土下座してほしいくらいなんだけど?』
「ストーカーの件は、やったのは八尾さんじゃなくてお姉さんだから。本人に責任追及はできないよ」
『でも、八尾さんが本当にお前や吹奏楽部の先輩たちの話を信じたかどうかなんてわかんないんだぜ。お前に謝るどころか、まだ逆恨みして殺しにくるかもしれない』
「かもな。……でも、今日会うのは人通りの多い駅前だぜ。騒ぎなんかそうそう起こせないだろ」
『暢気すぎ。世の中には駅前の通りで人を刺しまくったり轢きまくったりするような凶悪犯だっているんだぜ。八尾鞠花がそうじゃないなんて言い切れるのか』
「言い切れない。でも、きちんと話がしたいっていうなら、俺だってちゃんと誠意持って応えたいってだけだから」
『でも……』
本当に心配性だな、と夏樹は笑ってしまう。自分も逆の立場だったら同じくらい言い募るだろうから、人のことは言えないのだが。
――ていうか、お前実は近くで見てるだろ。もう退院してんだし。
電話の向こうから喧噪が聴こえてくる。なんとも過保護な親友だ。バレていないとでも思っているのやら。
「大丈夫だって。……万が一、があったら誰かに心配かける。傷つける。それは俺だってもう、身に染みてわかってるから」
じゃあ切るな、と一方的に通話を打ち切った。理貴は“おいちょっと待て!”とストップをかける声が聞こえてきたがひとまずスルーである。
夏樹が座っているベンチは、謎の銅像?のような女性のオブジェが立てられている真正面にある。そのオヴジェを取り囲むように、四つのベンチが設置されているのだが。
本当はとっくに気づいていた。夏樹の真後ろのベンチに、ポニーテールの少女が座ったことに。
「……萬屋君」
夏樹が電話を切ったことに気づいてか、彼女は掠れたような声で口を開いた。
「……本当に、ごめんなさい。先輩達から、何もかも聞いたの。双子の弟がいるの、本当なんだってね。しかも事故に遭って、入院してるって」
「うん」
「……教えて。お姉ちゃんが……ストーカーしてたって、それ、本当なの?お姉ちゃんと、付き合ってなんかなかったって……」
信じたくない。そんな響きが、彼女の声からは滲んでいる。今日、夏樹に会いたいと言うまで。信じたくない真実を受け入れて整理するまで、一体どれほどの葛藤があったのか。
すぐに謝罪に来なかった、なんて責める気にはなれなかった。姉がしたことで人生が滅茶苦茶になったという意味では、彼女も被害者に違いないのだから。何より。
このまま行方を暗ませたほうがずっと簡単だったのに、彼女は罵倒されることも覚悟でここまで来たのである。その勇気は、正しく評価されるべきと思うのだ。
「……弟の部屋から、お姉さんから来た手紙が大量に残っててさ。中学生で、まだ結婚なんかしてないのに……生々しい結婚生活の妄想とかたくさん書いてあったんだよ。しかも、明らかにやばい毛とかが入ったものもあったし」
「……私も、お母さんの家まで行って。ずっと放置されてたお姉ちゃんの部屋を確認したの。そしたら」
「そしたら?」
「……ずっと気づいてなかった、クローゼットの奥の隠しスペースから……大量に、隠し撮り写真が出てきて。なんであれ、先に見なかったんだろう。……萬屋君と、弟君。近くで見たら、そこまで似てないのに。それに、本当に付き合ってたら、あんな隠し撮りばっかりの写真なんて。弟君が、着替え、してるところのやつまで……」
彼女は。この一週間で自分なりに答えを見つけていたのだろう。
知りたくないことを知るのは、そのための努力をするのは大変な勇気がいる。彼女は彼女なりに、苦しみ抜いた果てにその勇気を選択することができたということらしい。
「本当に、ごめんなさい。私は、なんてことを……」
「八尾さん」
決意の果てに。どうにか本来の八尾鞠花を取り戻そうとしている彼女。
今日此処まで来ることを、選んだ彼女。
だから、夏樹は。
「本当に謝りたいと思ってるなら、真正面に来て、俺の目を見てくれないかな」
振り向いて、震える少女の肩に向けて語りかけるのだ。
「お姉さんがしたことに関してまで、君が負い目を感じる必要はない。でも、俺は吹奏楽部のみんなに迷惑をかけたことや、間接的に理貴に怪我させたことに関しては結構怒ってる。俺の弟をレイプ犯扱いしたってこともさ。……あいつ、一人の女の子とちゃんと付き合う甲斐性なんかないって。童貞だし、実はキスとか手を繋ぐ勇気もないくらい純粋だったんだから。モテたのに誰とも付き合ってなかったの、そういうことなんだよな」
「……そう、なの」
「うん、そうなの。そういうことに関しては、結構ムカついてるわけ。でも、俺も君の立場だったら同じことをしちゃってたかもしれないから、気持ちは理解できるんだ」
だから、と夏樹は続ける。
「もし俺やみんなに、少しでも申し訳ない気持ちがあるなら。……吹奏楽部で、コントラバス弾き続けてよ。君の音が鳴ってた方がさ、曲の厚みがあって俺は好きだなって思ったから」
「!」
はっとしたように鞠花が振り向く。その泣き出しそうな顔に、夏樹は笑いかけた。
「もっと君を教えてくれる、その努力をするって俺に約束したのは君だろ。教えてくれよ、俺に。お姉さんの真似事じゃない、本当の君を」
少しキザな台詞も、今は意味あるものにできる。
涙を浮かべた彼女が立ち上がり、自分の前に辿りつくまで――あと十秒。