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<27・鞠花。>

 鞠花の心は、とっくに決まっていた。

 いずれ、この男は自分の手で断罪するつもりだった。それが、今になったというだけのことだと。


「くっ……!」


 そこまで広くもない屋上。地上に逃げる出口は、給水塔横の一箇所のみ。そちらに駆け去ろうとする萬屋夏樹の行動を読み、先回りするのはさほど難しいことではなかった。


「逃さない」


 カッターを構えて、鞠花はまっすぐに夏樹を睨みつける。


「旗色が悪くなったらさっさと逃げるの?さっきまで、私を偉そうに追い詰めて、名探偵気取りだったくせに」

「俺はあんたに本当のことを伝えたいだけだ!俺はあんたのお姉さんの想い人じゃない!」

「よろずや、なんて珍しい名字で、お姉ちゃんの写真にそっくりな人が他にいるとでも?」

「だから、それは俺の弟だ!それに、弟はお姉さんと付き合ってたわけじゃない!」


 この期に及んでまだ、双子の弟なんて都合良すぎる存在を捏造するつもりなのか。それに、姉をストーカー扱いするなんてあまりにも愚弄しすぎている。絶対に許さない。カッターを握る手に、力が籠もった。


――お父さんは、私のことまで失うんじゃないかって酷く怯えてた。お姉ちゃんが死んでから、私の願いは殆どなんでも聞いてくれるようになった。……七海高校に転校したい、なんて希望も。


 姉の弔いもかねて伸ばしていた髪。決意を固めてからは結ぶのもやめて、姉のようにお淑やかな女性を演じることを心がけた。どうせ、人を殺したらもう自分は元の自分に戻ることなどできなくなる。ならば一足先に、姉を救えなかった“八尾鞠花”など捨ててしまえばいい、そう思ったのだ。

 そして、決意した。もし、萬屋夏樹が自分の顔を見て怯えるようなら。そして己の行いを反省するようなら、そこで復讐をやめようと。それが、最初にして最後の譲歩だと。でも。




『萬屋夏樹君、ですよね。私、今日から二組に転校してきた、八尾鞠花と申します』




 様子を見るため。そして、彼に近付くために告白してみた時の、夏樹の顔。




『私、萬屋君のことが好きです。付き合ってください』

『……は?』




 彼は本気で、私の顔がわからなかった。

 中学まで付き合っていたはずの、強姦までしたはずの、目の前で飛び降り自殺させたはずの――そんな少女にそっくりであるはずの鞠花を見ても、なんの反応も示さなかったのだ。

 怒りを感じるな、という方が無理な相談だった。

 こいつはただ殺すだけでは飽き足らない。姉のことを思い出し、祟りに怯えてじりじりと追い詰められるまで。自ら死を懇願したくなるほど恐怖させて苦しむことになるまで、徹底的にあの手この手を尽くしてやるつもりだった。音楽室の黒薔薇は、手間がかかった割にインパクトが薄くて失敗だったように思う。吹奏楽部への恨みと思われたのもとんだ誤算だ。だから、その次はもっと恐ろしい呪いを見せつけてやろうと思ったのである。

 ただ机の中に呪いの人形を入れるだけでは、本人が気づかない可能性がある。そもそも、鞠花自身あの手のおまじないを信じているのではなく、あくまで彼を殺そうとしている人間がいることを示して脅かすのが目的だ。気づかれないのでは何の意味もない。

 そこで思い出したのが、過去に姉がやった“猫殺し”である。

 少々罪悪感はあったが、それ以上に夏樹を恨む気持ちが勝っていた。猫の死骸を机の上に乗せてやれば、嫌でも気分が悪くなるだろう。案の定、これは効果抜群だった。彼は保健室送りになるくらい具合を悪くしたのだから。まあ、教室を汚してしまい、他の生徒に迷惑をかけたのは申し訳ないと思うけれど。


――それから、闇掲示板への書き込み。本人があの書き込みに気づくように、それとなく誘導するつもりだった。なんなら、私から“こんな書き込みを見つけたんですけど”なんて教えてやってもいい。


 まさか、夏樹ではなく理貴が襲われることになるとは。それに関しても悪いという気持ちはある。まあ、親友が怪我したことで夏樹にもかなり精神的なダメージがあったようだし、結果オーライと言えなくもなかったが。

 やりたいことは、まだまだあった。

 吹奏楽部で彼が座る椅子に細工をして怪我をさせてやってもよかったし、校舎の上から仕掛けを使って彼の直ぐ側に花瓶を落としてやっても良かった。オカルトな方向で攻めるのもいい。呪いの手紙系の話も結構な数集めてある。実際に呪いの効果がなくても、自分に悪意を向けている人間がいるというだけで人は十分ショックを受けるものなのだから。

 そして理貴が巻き込まれて怪我をした以上、彼も自分のせいで知り合いが傷つく可能性を考えるはず。うまくいけば孤立を狙えるかもしれない。独りぼっちになった彼に近付いて、献身的な恋人を演じればきっと彼の警戒心も解けると踏んでいた。

 なんせ、相手は姉の心も体も弄んでゴミのように捨てたゲス野郎だ。

 女にだらしない男の本性を暴き出してやればそれでいい。ちょっと色仕掛けの一つでも使ってやれば簡単に落ちるはず。それこそ、こいつを殺せるなら処女を捨ててやっても構わないとさえ思っていたのだ。

 それなのに。


――うまくいかない。全然私の“好意”に頷かないし……こんなところで全てバレるなんて!


 姉が九町恋花だというところまでバレる可能性はあると思っていた。それでも自分が姉の復讐を目論見、嫌がらせをしていることは――そして最終的に殺そうとしているなんてことは、演技を続ける限りそうそう気づかれないと思っていたのだ。なんせ、物的証拠は何も無いのだから。

 それなのに。我ながら、情けない。自分からボロを出してしまうなんて。

 姉のことを知らぬ存ぜぬとされたばかりか、悪評を並べ立て、しまいにはストーカー扱い。それでキレるなというのが無理な話だ。


「運動神経にも力にも自信があるの。あんたなんかに負けないから!」


 鞠花は一気に距離を詰める。こちらが出口を背中にしている以上、彼も屋上からは容易に逃げられない。そして絶えず攻め続ければ、スマホで助けを呼ぶことも出来ないだろう。屋上で“殺されるから助けてくれ!”と叫んだところで、果たしてそれを聞き届けてくれる人間が何人いるやら。意外と地上まで声は届かないものだから尚更に。


「うあっ!」

「捕まえたっ」


 避けようとした男の腕を右手を掴み、カッターナイフを振り下ろそうとする。が、ナイフを持つ右手首を握られて、阻止されてしまった。立ったまま、膠着状態になる。だが、有利なのは鞠花の方だ。男女とはいえ、鞠花の方が体格は良いし陸上競技で鍛えていたこともあって筋力も並の女子より遥かに強い自負がある。

 お互い右利きで、向こうは逆手である左手で鞠花のナイフを防がなければいけない。それに加えてこちらは相手を完全に殺すつもりで仕掛けている。気概から大きく差があるのだ。

 負けるつもりはない。こうなった以上、何が何でもここでトドメを刺してやるつもりだった。


「や、やめろ……!俺はあんたの姉に会ったこともない。弟も、あんたの姉を捨てたりなんてしてない……!」

「まだ言い逃れする気!?」

「本当のことだ……!そ、そもそもあんたの姉の話はおかしい。あんたの姉は俺が認識してない以上、吹奏楽部じゃないはず。中学の時も、吹奏楽部は毎日活動があった。毎日一緒に帰るなんて無理だ……!ていうか、冬樹と毎日一緒に帰ってた俺が把握してないはずがない!デートだって変だ、あいつ俺や男友達と遊んでばっかりで休日もそんな時間なんて……がっ!」


 よくもまあ、この状態でまだ言い訳する余裕があるものだ。むっとして、その脇腹に思い切り蹴りを入れてやった。見た目通り体重が軽かったらしい少年は軽々と吹っ飛び、コンクリートに転がる。


「お姉ちゃんは、嘘なんかつかない!」


 起き上がる前に、その腹の上に馬乗りになった。そしてカッターを首めがけて振り下ろそうとする。今度は両手で阻止された、が。体制はさっきより遥かにこちらが優勢だ。体重をかけて押し込めば、じりじりと刃が彼の首元に迫っていくことになる。


「チェックメイトね。これでもう、あんたは死ぬだけ。最後に、助けてくれって叫んでみたりする?運が良ければ誰か助けに来てくれるかもよ?」

「……そ、それで、助けに来た奴にお前が危害を加えたらどうするんだ。俺のせいでまた、誰かが傷つくのは嫌だ……」

「偽善者。まだそんなこと言う余裕があるの?」

「余裕なんかじゃ、ない。ただ、そういう気持ちを捨てたらもう俺は俺じゃないからだ……っ!」


 ぐくぐ、と刃が重力に従って降りていく。


「目を覚ましてくれ、八尾さん!あんたのお姉さんは嘘を言ったつもりじゃないのかもしれない。でも……でも、時に人は真実よりも“自分に都合の良い真実”が見えてしまうものなんだ。人の心はそんなに強いものじゃないから……!」


 夏樹はナイフを抑え込みながら、必死で訴えた。


「よく、考えてくれ……!あんたが人殺しになって、あんたの親は悲しまないのか。それに……“あんた自身”が後悔しないって、本当に言い切れるのか。俺を殺したら今度はあんたが、誰かに“恨まれて殺される”側になっちまうかもしれない。俺はあんたにも……俺の友達や家族にもそうなってほしくない!死ぬのも嫌だけど、同じくらいそういうもので大事な人たちの人生が壊れるのも嫌なんだよ!!」


 何を言ってるんだ、こいつは。生き残りたくて必死すぎやしないか。鞠花は笑おうとした。――笑おうとして、出来ないことに気が付いた。

 鞠花の中の冷静な部分が、姉の言葉を蘇らせたからだ。




『吹奏楽部でね、フルートが凄く上手なの。遠くからこっそり練習を聞かせてもらってるんだけど、凄くきれいな音色でね……』




 姉は確かにそう言っていた。しかし、現在この吹奏楽部で、夏樹はフルートを吹いていない。中学の頃からずっとトロンボーンだと、確かそう言ってはいなかったか。


『萬屋君ってイケメンだけど、クールでちょっと近寄り難いところがあるっていうか。女の子たちも遠巻きにしてる印象なのよね。友達もそんなに多いわけじゃないというか、少ない友達を大事にするイメージ?吹奏楽部だと、一之宮君と一緒にいることが多いし』


 コントラバスの先輩の証言。――姉から聞いていた“萬屋君”は、いつもたくさんの友達に囲まれた明るくて快活な人物だったはず。人物像が、合わない。

 それに。




『……あんたの事が嫌いなわけじゃないんだ。でも、俺は一目惚れとか、そういうものじゃなくて……できれば相手のことをきちんと知った上で付き合うってことをしたいと思ってて。後で予想外の一面をあんたに知られて失望されるのも悲しいし、逆にあんたのこと何も知らずに付き合って考え方や性格があわないことを知って、即効で関係が終わるのも悲しいから』




 姉から聞いた萬屋君とやらは、女子とあんなに距離がある人物だっただろうか。自分みたいな美人に、あそこまで慎重な態度を取る人間だっただろうか。もっと女遊びが激しくて、軽薄なところもあると聞いていたのに。




『猫が、可哀想で。俺に、嫌がらせのつもりか?そんなことのために、なんで』




 あんな。

 自分がされた嫌がらせより、猫の心配をするような人物が本当に、姉をレイプして捨てたりするものなのか?




「そんなはずない!」


 湧き上がりかけた考えを、鞠花は強引に振り払った。


「あんたに都合よく双子の弟なんかいない!人違いなんかじゃない!お姉ちゃんは嘘なんかついてない妄想なんかじゃない全部全部私に本当のことを言ったんだ!本当の本当に付き合ってた“あんた”にボロボロにされて捨てられて学校の屋上から飛び降りたんだ!私は間違ってない間違ってない間違ってない間違ってない間違ってない間違ってない間違ってない間違ってない間違ってない間違ってない間違ってないっ!!」


 こいつは言い訳して、意味不明なことを自分に吹き込んで混乱させようとしているだけ。そうしてなんとか自分が助かろうとしているだけ。

 カッターの刃が、萬屋夏樹の首筋に触れた。刹那。


「あんたは、九町恋花じゃなくて、八尾鞠花だろ。……姉のために、本当の自分を捨てるなよ」

「!」


 思わず、力を緩めてしまった。その瞬間、何かが思い切り背中にぶつかってきて息が止まった。


「がっ」


 混乱しているうちに両腕を掴まれて、後ろから誰かに羽交い締めにされる。誰だ、と言いかけた途端、すぐ後ろから泣きそうな声がした。


「鞠花ちゃんやめて、やめてよお!!」


 コントラバスの、億田おくだ先輩。その声を聞いた瞬間、凍りついたように動けなくなっていた。

 バタバタと複数の人が屋上に駆け込んでくるのが見える。顧問の五条先生に、トロンボーンのパートリーダーの二階堂先輩。


「ああ、あぁ……っ」


 自分は最初にして最後のチャンスを逃したのだ、と悟るしかなかった。鞠花の手から、ぽろりとカッターナイフが落ちて、屋上の床を転がっていったのである。


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