「口が、口がまだ痺れておる……」
ううう、と夏樹の隣を歩く理貴はすっぱい顔をしていた。
「蒼穹の、あの鬼のトリル地獄なんぞ……練習はしてきたつもりだけどいざ合奏でやるとマジで走るし、焦って指も追いつかなくなるし……!」
「蒼穹は、金管楽器以上に木管が大忙しだもんな。頑張れ、その間俺はのんびり低音を吹いている」
「このやろー暢気に言いやがって!」
校舎を出て、今二人が向かっているのは体育倉庫だった。机の中には、やっぱりと言うべきか“萬屋夏樹”の名前が書かれた消しゴムの人形が入っていたという。しかも、ご丁寧に血をつけた状態で。
本来ならあれを警察に出せば、DNA鑑定で猫殺しの犯人も見つけられるかもしれないのに――猫の死骸と一緒に、人形も先生達に処分されてしまった。まあ、大事にされて来年度の受験生の数に響いたら困るのだろう。元より私立の高校、本命より滑り止めで入ってくる生徒が多いのだ。夏樹のように、第一志望でここに来た者も多いといえば多いのだが。
まあ、そんなわけで学校側での解決はあまり期待できない状態である。ひょっとしたら犯人も、それを見越して学校で騒ぎを起こしてくれたのかもしれない。夏樹に、殺意と悪意だけはばっちりと示した上で。
呪いなんて本当にあるとは思っていないが、それでも気分が悪いことに間違いはないのだ。できればさっさと、体育倉庫裏に埋められたという人形は掘り起こして処分してしまいたいのが本音だった。よって今、理貴と一緒にその場所に向かっているというわけである。今日の部活に関する雑談や愚痴なんかを漏らしながら。
「まあ、フルートとクラリネットよりも、ピッコロがやばいんだけどな」
理貴は遠い目をして言った。
「ピッコロ担当はフルートのメンバーから出すことになってるのは仕方ないんだけども……いやあ、俺が担当しなくてよかったよかった。クラリネットとフルートがトリル地獄から抜け出した後もまだ地獄の中にいるからな。凄いぞあれ。しかもあんな高いキーで超頑張ってるという」
「何でそれ一年生にやらせたんだよ」
「ジャンケンで決まったんだからしょうがない」
「ジャンケン!?」
「パートリーダーの御意志だ、下っ端は逆らえんよ」
「いやいやいやいや」
まあ、なんだかんだで“彼女ならやれる”と思って任せたのだろうなと思う。一年生でフルートの未経験者だったが、センスが良かったのは間違いなかったからだ。
フルートも音が高くて外すと目指す楽器だが、ピッコロはさらにそれよりも高い音なので失敗すると悪目立ちしやすいのだ。一年生の彼女ならピッコロもこなせるだろう、とパートリーダーも判断したのだろう。実際、今日の合奏でも音を外したところがないわけではなかったが、肝心のトリルはほぼできていたように見えた。トリル地獄に次ぐ地獄が終わったところでちょっと死んだようにぐったりしていたような気がしたが、まあそれはそれである。
「フルートはいいですわ、C管の楽器は楽。ピアノのドと同じなのは本当に楽。音感狂わなくて済む」
「それはわかる。トロンボーンもC管だ……ってのは、中学の時始めるまで知らなかったけど。B管とかだったら音感ぐっちゃぐちゃになってた気がするしな」
「だろー?」
てくてくてくてく。そんな他愛もない話をしながら、夕闇に染まった校庭を横切っていく。ナイター設備がない学校ということもあって、グラウンドの運動部も殆どが撤収を開始していた。陸上部がハードルを片づけているのを横目で見ながら、体育倉庫のある方へ向かう。裏手で何やってるんだ、と彼等に不審がられるかもしれないが(下手をすれば自分達が人形を埋めたと勘違いされるかもしれないが)、今回ばかりはやむを得ないだろう。
夕焼けの世界に、倉庫の黒い影が長く伸びている。体育倉庫が西向きということもあって、裏手は完全に真っ暗な日陰になってしまうのだった。急なことだったので、特にスコップのようなものは用意できていない。人形がそんな深くまで埋められているとは思わないが、そもそも暗いのでスマホで照らさなければいけないかもしれないのが少々面倒くさかった。
「おい夏樹、お前スマホで照らしてくれよ。俺が掘るから」
「い、いや逆でいいって。掘る方が大変だろ、道具ないし」
「俺の方が力も体力もあるし、石使って掘るからいいって。気にするな」
明るい時間帯にやればもう少し簡単だったのに、昼休みにタイミングを逃してしまったのでこんな時間になってしまった。夏樹は言い募ったが、理貴は頑として聴かない。仕方なく、彼に掘る役目の方を頼むことにする。確かに腕力的に言えば、彼の方が適任なんだろうが。
「……あの掲示板にさ、この人形使ったおまじないを書きこんだ書き込みあっただろ」
手頃な石を探しながら、理貴が言う。
「思ったんだけど、“体育倉庫”が“屋外”にある学校ばっかりじゃないと思うんだよな。この学校はあっちこっちに元小学校だった時の名残が残ってるから、いろんな配置が小学校っぽくなってるし、敷地も広いけど。屋内の体育倉庫なら“体育倉庫裏に人形を埋める”って発想がそもそもないし、不可能じゃん?」
「まあ、そうだな」
「だからさ、あのおまじないも結局は“七海高校で実行されることを見越した呪術”だったんじゃないか、って俺は踏んでるわけ。……あの会話の流れ的に、誰かが七海高校の生徒を呪おうとして、そのための方法を探してるのも目に見えてるのに……そういう方法を紹介したやつがいたわけだよ」
それはそうかもしれない、と夏樹は理貴に見せてもらった掲示板の内容を思い出す。
231:今日も今日とてホラーなスクール@全力投球のななし
七海高校って、そういうちょっと寒気がするようなおまじないとかあるのかな?
他にも知ってる人がいるなら教えてほしいww
面白そう!
232:今日も今日とてホラーなスクール@全力投球のななし
おいおい、面白がるなって
233:今日も今日とてホラーなスクール@全力投球のななし
七海の生徒か?誰かが学校そのものを呪ったかもしれないのに、暢気だなあ
234:今日も今日とてホラーなスクール@全力投球のななし
呪いだのなんだのといっても、自分に実害がなければきっと他人事なんでしょ
235:今日も今日とてホラーなスクール@全力投球のななし
七不思議じゃないけど、ホラー的なおまじないならいくつか知ってるぞw
音楽室のお願い事よりも、もっと直接的に人を呪う方法って奴
消しゴムで人型を二つ作ってな。その二つに呪いたい奴の名前を書いて、足に自分の血をつける。
で、片方をそいつの机の中に入れて、もう片方を体育倉庫の裏に埋めるんだ
そうすると、そいつに次々と悪い出来事が降りかかるようになるらしい!
効果は、体育倉庫裏の人形を掘り起こされて処分されるまでは続くんだそうだ
七海高校の、とはっきりその書き込み主は言わなかったが。体育倉庫が屋外にある想定の呪術であったのは間違いない。
ここでの書き込みで紹介されたものを犯人が見て。そして実行に移して呪い殺しても良いと、そう思った人間がいたわけだ。
あるいは、むしろそうなったら面白いと思ったのかもしれない。そう考えると、人間って本当に救いようのない生き物ではないか。自分が安全圏にいるのなら、自分に直接致命的な被害が飛んでこないならば。自分のあずかり知らぬところで、誰がどんな悲劇に見舞われようと関係ないと思う奴がこの世にはいるのである。
否。下手をしたら、その惨劇を間近で見たいと考える者さえいるだろう。
酷い事故で、血まみれの人が呻きながら倒れているような現場を、平然とスマホで動画撮影している人がいる。そして、その動画をアップしてツイッターでバズりを狙う者がいる――現場に居合わせながら、救命に協力することもせずに。承認欲求と、あるいは刺激を面白がる心ゆえに。
その書き込みや動画を、何度も繰り返し面白がって見る者達も大勢存在しているのが現実なわけで。
そういうものを見てしまうと、思いたくもなるのだろう。どのような悪霊や悪魔よりも、人間の方がよほど醜く恐ろしいものなのではないか、と。
「……言いたいことは、なんとなくわかるよ」
ぽつり、と夏樹は呟いた。
「世も末だ、って。俺も思うこともあるし。でも……でも、クズい人間がたくさんいるからってさ、自分も同じものになる必要はないと思うんだ。人がルールを破ったからって、自分がルールを破って良い理由にはならないだろ?日本人はそういうところ狡くて、“なんであいつは破ってるのにオレだけ守らないといけないんだ”ってキレて、どっちに同調する奴も少なくないけどさ」
「まあ、多数に倣え、が身に沁みついてる日本人は特にそういうことあるしなあ。他の国の人にもそういうのないとは言わねえけど」
「……うん。でも、結局自分の価値ってのは自分で決めるしかないから」
理貴が掌サイズの石を拾って、倉庫裏の地面を掘り始める。わりとすぐに、白い人形が出てきた。が、そこに書かれていたのは“河合彩華”という文字。どうやら、他にも同じ呪いをやろうとした人間がいたということらしい。掘り起こした人形を、黙って脇に置く理貴。夏樹はただ、彼の手元を照らし続けるしかない。
「汚いものは、怖いものはたくさんある」
ざく、ざく、ざく。
恐ろしいことに、人形はどんどん出てきた。太田真紀。斉藤雄一郎。笠松みどり。剣崎颯。佐藤瑠璃子、羽丘琴音。中には相当昔のものなのか、やや黄ばんで茶色く汚れ、ボロボロになって名前が読みづらくなっているものもある。鈴木風太、天童海、加藤由美子、長谷川詩織、戸田萌香。人の闇が、欲望が、次から次へと掘り起こされてくる。
「それでも、そういうものばっかりじゃないんだって俺は知ってるし、これからもそうだって信じたい。……人を許すのとか、愛するのって難しいのかもしれないけど。少なくとも俺は、そういう人達に助けられて今の自分があるって知ってるし。誰かを憎むとか恨む気持ちで、そういう喜びや幸せまで見失ってしまうような憐れな人間にはなりたくないって思う」
桜井信吾、滝文子、鈴原廉、浅井麻耶――やがて、やっと見つけた一つの人形。
萬屋夏樹。
ため息交じりに理貴から差し出されたそれを手に取ると、夏樹はじっと観察した後、教室から持ってきたゴミ袋に投げ込んだ。
「よし。じゃあ掘り起こした人形は全部、ゴミ捨て場にでもボッシュートするか。そのうち回収してってくれるだろ!」
「ははは、そうだな。他の人形埋めた奴らに恨まれそうだけどな」
「こんな方法に頼るくらいなら自分で真正面から相手に挑めっつーの。いじめとか、他に方法がないって奴らもいたかもしれないけどさ。やっぱり俺は、こういうの好きじゃないし」
見つけた人形を、無関係だと思って放置しておく人間にはなりたくない。それが、夏樹の他でもない意思だった。
けした手放したくない、夏樹自身の意思だったのだ。
理貴はそんな夏樹を笑って、袋の中に人形を投げ込む作業を手伝ってくれたのだった。