嫌な予感は、日増しに強くなるばかり。
冬樹は一体、何を“お祓い”してほしかったのか?彼を追いかけ回していたストーカーは誰で、本当に死んでいるのか?クマチ、とは一体どういう意味なのか?
八尾鞠花の告白は何のためのものだったのか?自分を本当に好きで告白してきたのか、それとも他に目的があるのか?
――考えることが多すぎる。ていうか、俺も結論を先延ばしに過ぎだな。
鞠花が転校してきて、そして吹奏楽部に最初に仮入部希望してきてから一週間。音楽室に向かいながら、夏樹は考えていた。同じクラスだというのに、結局鞠花と話すチャンスを逃したままずるずるとここまで来てしまっている。色々考えたが、もしも本当に自分のことが好きだと言うのならいつまでも答えを保留にしているのは申し訳ないだろう。
今日の部活の終わりにでも、きっぱりと断りの話をしようと思っていた。好きだ、なんて言う割に自分に対してろくなアプローチがないのである。その気持ちが本当だと信じるのは正直難しい。一目惚れ、というのをどうしても信じきれない質であるから尚更に。
とはいえ断りというのはあくまで、“あなたのことをちっとも分からないのに、安易に付き合うことはできません”という返事をしようというものである。振るというより、もう少しあなたがどういう人間なのか知らないと判断できません、それまでは友達でいてください、という方向だ。卑怯だと言われるかもしれないが、一週間真剣に夏樹が考えた上での答えだった。
今は学業と部活に専念したいし、弟の件に関して新事実がいろいろとわかってきてしまって、自分の恋愛をしている余裕なんかまったくない状態である。そもそも、自分以外の誰かのために時間を使うというのができる自信もない。本気で恋をした相手ならばその限りでもないのだろうが、少なくとも今の夏樹は鞠花に対してそこまでの感情を持っていないのは事実だった。
確かに彼女はとても美人だ。恋人同士になって並んで歩いたらみんなに自慢できる存在だろう。しかし、顔以外の何ひとつわかっていない相手、好きになれるかもわからない相手だ。そんな相手に、美人だからという理由だけで付き合いますとOKを出すのはむしろ彼女を冒涜していると思うのである。
クソ真面目と言われそうだが、それが夏樹の考え方なのだ。恋愛にしろ友情にしろ、真正面から真剣に付き合わなければ失礼なはずなのだから。
「……ん?」
第一音楽室の前まで来たところで、夏樹は足を止めた。音楽室の前に生徒達が溜まって、何やらざわついているのである。吹奏楽部の部員が多いようだが、それ以外の顔もいる。中を覗き込んで噂しあっているようだった。
「おい、どうしたんだよ?何かあったのか?」
「あ、萬屋先輩……」
ホルンパートの一年生が、やや怯えたような顔で夏樹を見る。そして、アレ、と音楽室の中を指さした。
「ピアノの上の、アレ。今日部活に来たら、あんなものがあって……」
何だ何だ、と夏樹は音楽室のピアノの上を見て、目を見開くことになったのだった。
グランドピアノの上に、重たいものを乗せるなど本来ご法度である。そんなこと、音楽に少しでも関わるものなら知っているはず。
だが、それは確かな存在感をもって鎮座していたのだった。
ピアノの上に置かれた、一枚の楽譜。
それを下敷きにしている、ガラスの花瓶と――生けられた一輪の薔薇。
その薔薇は赤というよりもっと深く暗い――殆ど黒に近い色をしていたのである。
***
七海学園にも、学園七不思議というようなちょっとした怪談の類はいくつかある。比較的新しい学校ではあるのだが、この高校が建つ前にはボロボロになって廃校になった小学校があったとのことで、ようはそれ由来の怪談が多いのだ。かつて呪われた小学校が建っていたせいで、その土地そのものが祟りの場所で――とかなんとか。そんな導入で始まる怪談が多いと聞く。夏樹も、それ系の話が大好きな理貴やその他友人から聞いているので、大凡の話は知っている。
例えば“桜の木の子供”。
校舎が立つ前からある、とある桜の木。その木の上に小さな男の子が座ってることがあると言う。近くを人が通ると、少年がボールを落としてきて遊びに誘ってくるらしいのだ。その時、遊びに応じないと何故か酷い目を見るとのこと。
これは男の子が悪霊というわけではなく、男の子が何も知らない人間を別の悪霊から遠ざけようとしている善霊だからという話らしい。うまり、この幽霊に声をかけられる人間は何かやばい別の悪霊に取り憑かれそうになっていたり、無意識にその罠に嵌りそうになっているということらしい。
“校庭に空く穴”、なんて話もある。
部活動などで校庭にいる時遭遇する怪異だそうだ。活動中、ふと近くに丸い穴があいていることに気づくことがあるらしい。サイズは、大人が一人体を丸めてすっぽり入れるくらいだが、深さは不明。その穴は覗き込むと、どこまでも暗闇が広がっていおり、時には地獄が見えることもあるという。
またその穴を覗き込むと無性に入ってみたくなってしまう謎の魔力があるという説もある。しかし一度そこから落ちてしまったら最後、二度と現世に戻って来ることができない。よって、穴を見つけてしまったら、近寄らないで無視するしか対策する方法はないという。
さらにこんな話もある。“水のパーティ”って言うものだ。
基本的に夏以外には封鎖されている七海高校のプール(ちなみに、うちのプールは校庭の横にある。学校によっては屋上だったりすることもあるらしいが)。そのプールに冬にこっそり侵入した人間は、可愛い女の子達が楽しく泳いでいる現場に出くわすことがあるというのだ。
彼女たちは、侵入者に気づくと“一緒に泳ぎましょう”と手招きしてくる。だが、それは大きな罠。誘れるまま着衣でプールに入ってしまった人間は、夢見心地のまま溺死か凍死をしてしまうというのだ。
――そして、音楽室にも怪談みたいなものがある。怪談にしては怖くない、と言われてはいるけれど。
その怪談は、“音楽室のお願い事”と言う。
かつて吹奏楽部のパーカッションパートの女の子が、ピアノの練習のし過ぎで死んだ。コンクールが近いにも関わらず、うまくできなくて焦っていたのだろうと言われている。彼女はこっそり学校に侵入して、夜中まで練習してたのだそうだ。毎日毎日、それこそ徹夜をしてまで。
だが、そんなこと長続きするはずもない。睡眠不足と過労が祟り、彼女はピアノに突っ伏すようにして命を落としてしまったという。
その時、ピアノの上には花瓶が置いてあり、白い薔薇の花が活けてあった。それが彼女が死んだあと、その白い薔薇が真っ赤に染まってしまったと言うのだ。彼女の死因は過労死か衰弱死であり、けして血を流して死んでたわけでもないというのに。
少女は、自分が所属する吹奏楽部を心の底から愛していた。死の間際まで、コンクールで絶対優勝したい!と願い続けていたという。そもそもそういう気持ちがあったからこそ頑張りすぎてしまったのだから。
仲間達が彼女の死に奮い立ったのか、あるいは少女が死してなお仲間達に幸せの魔法をかけたのか。彼女が亡くなった年の吹奏楽部は全国まで行けたというのだ。
以来、ピアノの上に五線紙を置いて、薔薇の花を花瓶に活けて願いを言うと、そのお願いは絶対叶うという言い伝えができたとされている。まあ、人の死亡が絡んでいるので怪談扱いされてはいるが、実際はそういうおまじない、のようなお話というわけだ。
ただ。
「……どう思うよ、夏樹」
「……うん」
練習のための椅子を運んでいると、理貴が声をかけてきた。彼の顔はやや強張っている。既に騒ぎを聞きつけた先生の手によって、花瓶と薔薇は奥の準備室に片付けられてしまっているが。
「音楽室のおまじない、吹奏楽部の部員なら殆ど知ってるんだよな。でも誰もやらない。つーか、やっちゃいけねーって先生や先輩から釘さされるんだけど」
理貴の言う通り。あのおまじないは、部員にとっては一種のタブーのようなものなのだ。何も、あのおまじないの魔力を信じているからではない。水の入った花瓶をグランドピアノの上に置くなんて論外だから!が最大の理由。また、ああいうおまじないをやることで部員たちの不和を避ける意味もある。ああいうものは、おまじないが本物かどうかということよりも、“それを本物と思って誰かが実行した”ことの方が重要だからだ。
「音楽室のお願い事、を本気で信じてるやつは少なくとも部員にはいないと思う」
夏樹は困惑気味に、理貴に語った。
「グランドピアノの上に日常的に花瓶を置いてたなんて物語の設定がおかしいし。昔、吹奏楽部員で真夜中にこっそり学校に侵入して練習してて死んだ人がいる、なんて話も聞いたことがない」
「だよな」
「もっと言うと、非常に悲しいお話として、うちの吹奏楽部は創部以来一度も全国大会なんぞに行ったことはない。おまじないの元となった話は確定で誰かの作り話だ。信じるにしては信憑性がなさすぎる」
だから、タブーがなくてもまずあんなおまじない、吹奏楽部のメンバーは誰も実行しないと思うのだ。だって誰も本物だなんて信じていないだろうから。
しかし。今回、それを誰かがやってみたわけである。
おまじないが本物だと思ってやってみたのか?あるいは、吹奏楽部へのなんらかの嫌がらせか、悪戯か?ただの悪戯にしては、少々手が込んでいるのは否定できない。
音楽室の鍵は、朝練で誰かが開けたら、放課後に吹奏楽部か部活を終えるまでずっと開きっぱなしになっている。授業があるのだから当然だ。つまり、第一音楽室への出入りは誰でも可能だったということ。ただし、五時間目までの授業で騒ぎにならなかったところを見るに、犯人はわざわざ五時間目でどこかのクラスが音楽室を使ったあとに、こっそり第一音楽室まで来て花瓶を置いていったのである。
何のために?
普通に考えるなら、その後に使う吹奏楽部のメンバーに見せつけるためとしか思えない。重くて大きな花瓶に薔薇だ。人目を盗んで運ぶのも置くのも結構な手間であるはずなのに。
しかも。
「あの薔薇。結構棘が残ってた。しかも、黒い薔薇ってレアだったはずだぜ」
理貴の顔は、険しい。
「そういう薔薇をわざわざ取り寄せて、おまじないに使ったってことだ。……何を願ったのか知らないが、楽しいお願いじゃないことだけは確かだろうよ」