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<5・演奏。>

 自由曲のタイトルは、『英雄の再誕』。ひょっとしたら、作曲者には何か頭の中にストーリーがあって、その通りに曲を書き起こしたというものであったのかもしれない。激しくリズムを刻む箇所からゆったりとスローテンポで流れる場所まであり、指揮者と演奏者のリズム感が試される曲でもあった。

 この曲の長さは、きちんとリズム通りに演奏すれば五分弱で終わる。

 吹奏楽コンクールの場合制限時間があるので、それを守って演奏しなければいけない。課題曲の演奏開始から、自由曲の演奏終了まで合わせて十二分と決められている。この時間をオーバーすると失格になってしまうため、時間制限ギリギリの長い曲を採用するのは避けなければいけないのだ。

 なお、課題曲五つは、長いものでも五分以内のものばかり。五分の曲を選んでも、間のインターバルを二分以内に収めれば間に合う計算となっている。


――……キーの高さ、きっついんだよなこれ。トロンボーンの見せ場だから頑張りたいんだけど。


 譜面とにらめっこをしながら、夏樹はため息をついた。『英雄の再誕』は、トロンボーンにもメロディーパートがある。正確には、トランペット、ホルン、ユーフォと一緒にメロディーを奏でるのだ。ちなみにトランペットとホルン、ユーフォニウムはハ長調の譜面で記載され、トロンボーンはヘ長調の譜面で記載されるのでまったく同じ高さの音で演奏するわけではない。というか、物理的にほぼ不可能。同じメロディーを、違う高さで演奏することでユニゾンを奏でて、音に厚みを持たせる仕組みなのだ。

 ちなみにホルンとユーフォニウムは非常に音域が広い楽器であることでも知られている。特に、ユーフォニウムはヘ長調の譜面が渡されるケースもあるので(それくらい、低い音にも充分対応しているということだ)、当たり前だが両方の譜面で吹けるように慣れるのも大事なことなのだった。実際、譜面上だけ見ればトロンボーンとユーフォニウムは今回同じ高さでメロディーを吹いている。ヘ音記号で書かれているか、ト音記号で書かれているかの違いというだけで。

 で、トロンボーンがメロディーをやる場合は高い確率で、ハイ〇〇のキーを吹く必要に駆られることになる。ようは、高いキーを結構頑張って出さないといけないのだ。

 楽器ごとに得意な音域があり、トロンボーンもその例に漏れないため、楽器が得意とする音域より超絶高い音や超絶低い音は苦手としている。特に高い音を出す時は、唇をぎゅっと縮めてかなり頑張って高い音を出さなければいけない。頑張りすぎると、唇が痛くなってしまう。

 しかも、単発で音を出せばいいというものではなく、メロディーとして高音を連発し、タンキングも欠かさず、息継ぎも意識しながら音色を奏でなければいけないのだ。当然、技術が必要になってくる。出来るようになるためには、練習あるのみだ。


――息継ぎタイミングってこのへん?……高いのも辛いけど、速いのもつっらいなー!


 トロンボーンはスライドを動かして演奏する楽器だ。つまり、音を変えるためにはスライドをその位置に持っていかなければいけないわけで――要するに、速く動かすためにはぶっちゃけ身体能力が必要だ、と夏樹は思っているのだった。腕を素早く動かす体力が必要。そもそも、肩に担いで構えているだけでそこそこ重い楽器だというのに。

 無論そんなこと言ったら、チューバとかユーフォとかもっと重い楽器を頑張っている人もいるわけで。その人達と比べたら、トロンボーン程度で泣きごとを言うなと怒られそうなものなのだが(以前同じ吹奏楽部の人のバリトンサックスを運んだことがあったが、いやマジですんませんでした!と謝りたくなるくらいの重量だった。バリトンサックスであれとは、チューバやコントラバスはどうなっているのか恐ろしい)。


――練習するしかないな、うん。以上。


 曲のイメージを掴んだり、抑揚を持たせるなんてことはひとまず最低限音を辿れるようになってからのことである。そもそもみんなで演奏する曲だから、イメージに関してはみんなである程度共通するものを持たないといけない。これも、そのうち話し合いがもたれることだろう。現在は合奏を数回やった程度、まだ皆の技術がまったく追いついてない状態なのでその段階にはないだろうが。


――あの人、どうなったかな。


 譜面を片づけながらちらりと見れば、鞠花はコントラバスの先輩と話をしているところだった。先輩の目が、ほぼ涙目になっていて鞠花に慰められている。なかなかシュールな図だ――そんなに、コントラバスの体験に来てくれたのが嬉しかったのだろうか。実際、彼女は部活が終わる時間の最後まで、コントラバスの先輩のところにいたようだった。本当に入部して、コントラバスの奏者になるつもりなのかもしれない。

 ちなみに、過去この吹奏楽部にもコントラバスが二人いたことがあるので、楽器そのものは二つ存在している。片方のコントラバスは最近出番が巡ってこないまま、奥の準備室でケースに埃を積もらせてはいるが。


――……入部する気かもしれないし、早めに話をしておいた方が良い、よな。俺だって、変な疑念をずっと抱いたままにしておくのは嫌だし。


 譜面台を折りたたむ、パキン、という音がやけに大きく響いた。譜面台と楽器ケースを準備室まで片づけたら、鞠花に声をかけてみることにしよう。




 ***




 パートリーダーに呼ばれてごたごたしていたら、少しだけ遅くなってしまった。もう先に帰ってしまっただろうか、と思って早足で靴箱に向かえば、鞠花が座って待っていた。彼女いわく、“来ると思っていた”という。


「ずっと、私と話したそうにしてましたもんね?嬉しいなあ」


 にこにこと笑う彼女。何だろう、天使が舞い降りたかと思うほど美しい笑顔なのに、どこか底知れないものを感じてしまうのは。

 彼女は何か、大きな隠し事をしてそこにいる。そんな気がしてならないのだ。


「……入部する気、なんだ?それに、コントラバスやるのか?」


 考えた末、最初に出たのはそんな当たり障りのない質問だった。鞠花もわかっていたのだろう、特に気にした様子もなく“そうですねえ”とのんびり返してくる。


「音楽は元々好きですし。……コントラバスって触ったこともない楽器だったんですけど、やらせてもらったら結構面白いです。私の体格だと向いてるかもしれないって言われて、センスあるって褒められたら誰だって調子に乗りません?それに、一年生が入らなくて困っていたみたいだし……私が入ってお役に立てるならそれでいいかなって」

「メロディーできないけど、いいのか」

「メロディーを奏でるばかりが吹奏楽曲ばかりじゃないでしょ?夏樹クンがやっているトロンボーンだって、和音の方が多い楽器じゃないですか」

「……まあ、そうだけど」


 付き合いますとも言っていないのに、いきなり名前呼びとは。ちょっと馴れ馴れしくないか、と思ったがツッコミは控えた。何も、無闇と傷つけたいわけではない。本気で好きになってくれているかもしれないなら尚更に。


「八尾さんが吹奏楽部に来たのは、俺がいるからか?」


 はっきりと、こちらはまだそのつもりでないので、を示すために苗字で呼んだ。その態度に気づいてか、彼女は“鞠花でいいのに”と口を尖らせる。生憎、出会ったばかりのクラスメートをいきなり下の名前で呼ぶほど図々しくないのだ、こちらは。


「正解です。だって、ここの吹奏楽部って……他の学校の吹奏楽部と同じように、ほとんど女子でしょう?部員の数、今五十二人でしたっけ。私が入っても、まだ吹奏楽コンクールに全員出られる人数ですよね。最大五十五人までだったはずだから」

「調べたのか」

「好きな人がやってる部活と大会のことを調べるのは普通のことでしょう?」

「…………」


 夏樹は眉間の皺を深くする。好きな人がやっていることを調べるには――というが。彼女とは、今日出会ったばかりというのを忘れてはいないだろうか。でもって、夏樹が吹奏楽部であることを知ったのも、長くて数時間前のことであるはず。これくらいの事はネットで簡単に調べられる時代とはいえ、ちょっと念入りすぎる気がしないでもない。

 どちらかといえば。前々から夏樹のことを知っていて、予め所属する部活動やその性質について調べていましたとでも言いたげな口ぶりだ。特に、コンクールの最大参加人数なんて、ピンポイントで検索でもしない限り出てこない情報だろうに。


「女の子が圧倒的に多い部活で、それでも吹奏楽部に入ろうとするなんて……よっぽど、音楽が好きなんですね。それとも、トロンボーンが好きなのかな?中学の頃も、吹奏楽部だったりするんです?」


 彼女は立ち上がり、くい、と顔を近づけてきた。長身の彼女は、夏樹より少しばかり背が高い。至近距離に近づかれると、その美貌もあいまって威圧感がある。


「……あのさ」


 微妙に、煙に巻かれているような気がしている。ここはストレートに切り込むべきだ。


「その、君は。俺のこと、前々から知ってたのか?だから、前々から俺のことが好きだったとか、そういうことか?俺は、完全完璧に、君とは初対面だと思ってるんだけど……」


 こんなモデルのような美少女、どこかで見かけていたらまず忘れないだろう。接点なんてないはずだ。少なくとも、自分が記憶している限りでは。


「……いいえ」


 少しの間の後、鞠花は頭を振った。


「私と、貴方は。今日が初対面ですよ」

「じゃあ、何で……」

「でも運命って、理屈では図れないものだと思いませんか?私も女の子なので、そういうものをついつい信じちゃうんです」


 気が付いた。真正面で見る、鞠花の顔。ずっとにこやかな笑みを浮かべているように思っていたのに、それはあくまで唇と眉毛の動きでそう判断しただけだった。

 間近で見る、その顔は。明らかに目だけが、笑っていない。

 一目惚れした相手を見る眼というより、むしろ。


「出会った瞬間、貴方には運命を感じました。この人と一緒にいたい、付き合いたい。その時間を少しでも長くするためには、私も吹奏楽部に入るのが一番いいって。……一目惚れって、そういうものじゃありません?私はもっともっと、貴方のことが知りたいんです。だから、もっと貴方のことを私に教えてください。そして私のことも、好きになって欲しいな」

「お前……」


 少しばかり、恐怖を感じてしまった。理解が追い付かない、そう思ったのだ。

 深い深い奈落の底を覗きこむような眼をしながら、同じ唇で浮かれたような愛を語るその姿が。


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