不意にドンドンと玄関の戸を叩く音が聞こえて来る。誰かが怒鳴っている声も。何を言っているのか分からなかったが、何やら尋常では無い雰囲気だった。彼女が帰れと言っているのが聞こえる。来て欲しくない誰かが来ているようだ。相手の声は男。彼女一人で住んでいるのを知っての事か?知っているならばただ事では無いだろう。動かしにくい体を起こして、用心の為に軍刀を持ち、玄関に近付く。引き戸を少し開け、玄関を見た瞬間だった。男が彼女を引っ叩いた。その瞬間、俺はカッとなった。体に力が漲り、軍刀を抜き、男の顔に突き付けた。
「勝手に動くなよ?この軍刀は良く切れるからな。」
男を見下ろして言う。男は刃物を突き付けられている事に驚いている。
「ゆっくりそこから退け、ゆっくりだ。」
男はガタガタと震えながら彼女から離れる。隙を作らないように体が勝手に動いていた。刃物を扱う時の動き。彼女を自分の背後に庇う。
「女に手を上げるとは、男の風上にも置けないな。」
男は俺に両手を見せて、抵抗の意志は無いと示している。こんな腑抜けに彼女が殴られた事に憤慨する。
「五体満足で帰って来たくせに、やる事は下品下劣この上ない!お前のような奴が居るから我が国は戦争に負けたのだ!」
腹から声を出したのは久しぶりだった。男はガタガタと震え首を振っている。
「金輪際、この家には立ち入るな!彼女に関わるな!分かったな!」
言うと男が言う。
「分かった!もう来ない!近付かない!だから命だけは…」
俺は軍刀で玄関を指す。
「行け!二度とその面、見せるな!」
男は転がるように家を出て行く。彼女に振り返り、軍刀を収める。彼女を見ると彼女はぼうっと俺を見ている。彼女に近付き、跪いて聞く。
「大丈夫か。」
次の瞬間、体がグラッと揺れる。思わず土間に手を付く。
「すまない、まだ体が…」
彼女が俺を支えてくれる。情けない、こんな非常事態に…。
「ありがとうございます、助かりました。」
そう言う彼女を見ると彼女の頬が赤くなっている。その頬に触れて言う。
「すまない、もっと早くに出ていれば、殴られずに済んだだろうに。」
弱っている体が情けなかった。
「良いんです、そんな些末な事。それよりあなたのお体の方が心配です。」
彼女はそう言うと俺を支えて立ち上がる。部屋に戻り、俺を布団の上に座らせる。
「何か飲み物を…」
彼女はそう言って立ち上がる。
「綾乃さん、」
そう呼び掛けると彼女が振り向く。
「殴られた所はすぐに冷やした方が…」
言うと彼女は微笑み頷く。
「はい。」
そして彼女が続ける。
「あの、私の名は呼び捨てで結構です、綾乃と。」
言った瞬間、彼女の頬が紅く染まる。すぐに彼女は浅くお辞儀をして踵を返し、部屋を出て行く。頬を染める彼女が可愛かった。綾乃、か。そう呼ぶのは気恥ずかしかったが、彼女が望むならそうしよう。
彼女が湯飲みを持って戻って来る。彼女から湯飲みを受け取り、それを飲む。彼女を見る。殴られた方の頬が赤い。痛々しいそこに手を伸ばし、触れるか触れないかの塩梅で撫でる。
「すぐに冷やさないと。」
彼女はほんの少し頬を染めて頷く。
「はい…」
彼女が一向に動かないのを見て言う。
「すぐに冷やしなさい。」
俺にそう言われて彼女は立ち上がる。
「はい。」
夕飯を食べ終わり、片付けが終わった彼女が桶を持って部屋に来る。俺の体を拭く為だ。
「あの男は何者なんだ?」
聞くと彼女が俺の体を拭きながら言う。
「あの人は集落の外れに住んでいる人です。昔から仕事もせずにブラブラしているような人で、戦争に行っても逃げ帰って来たと、まるで武勇伝のように吹聴していました。」
溜息をつく。
「脱走兵か。」
戦争での戦闘が嫌になって、ごく稀に脱走する者が居たと聞く。
「この集落の男はほとんどが戦死して、生きて帰って来た者も五体満足ではありません。そんな中であの人は五体満足で働き盛りで体力もある。集落中の独り身の女に言い寄っては断られ、鬱憤が溜まっていたのでしょう。」
怒りが腹の底から湧き上がって来る。
「それにしても、だ。女に手を上げるとは。ここには綾乃が一人で住んでいる事は知っていたんだろう?足入れ婚などとほざいていたが、」
そこまで言って彼女を見ると、彼女は頬を染めている。驚いて言い淀む。彼女に聞く。
「どうかしたか?」
彼女は頬を染めたまま俯き、言う。
「いえ、名を呼ばれたので…それが嬉しくて…」
そう言われて自分が彼女の名を呼び捨てていた事に気付く。
「あ、いや、その、そう呼んでくれと言われたから…」
自分の顔が赤くなるのを感じる。
「いえ、良いんです、ただ嬉しくて…」
彼女は手拭いを水で濯いでいる。胸が高鳴った。どうにか自分を立て直して言う。
「そうか、ならこれからもそう呼ぼう。」
寝る支度をしている彼女に言う。
「今、熱は出ていないから、今夜からは付き添いはしなくても良いと思うのだが。」
彼女を見ると何だか少し寂しそうだった。
「そうですか…」
彼女はそう言って微笑み、寂しそうに言う。
「では、隣の部屋で休みます、何かあれば呼んでください。」
布団の上に寝転がり、天井を眺める。ふと、彼女の寂しそうな顔を思い出す。胸が締め付けられる思いだった。何だろう、この感情は。俺は彼女に助けられた。感謝以外に何を考えているんだ。自分の不埒な思いを振り払おうとする。すればするほど、彼女の微笑みやふと見せる芯の強さ、凛とした姿や甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる優しさを次々と思い出した。そして今日の事を思い出す。彼女が殴られたのを見た瞬間、俺はカッとなった。その瞬間に俺が思った事…それは女に手を上げる男の不甲斐なさとか、下品下劣なやり方とか、そんなものじゃなかった。
俺の女に手を上げやがって!
そう思ったのだ。ふと笑えて来る。どこの馬の骨かもわからぬ俺に彼女が恋慕するというのか。そこで思い出すのは名を呼んだ後の彼女の反応だった。頬を染めて嬉しかったと言ってくれた。確実に彼女からの好意は感じている。俺は彼女に救われた。拾われた命だ。本土に戻ったところで何も無い。それならば、彼女がそう望んでくれるなら、俺は彼女に報いよう。彼女を守ろう。離島とはいえ、今はまだ治安が悪い。女一人で住んでいれば、今日のように男が来た時、何をされるか分かったもんじゃない。俺が居る事でその抑止になるなら、そうしよう。
布団に寝転がり、体を休める。付き添いをしなくて良いと言われてしまった。体が良くなればそんな事は当たり前なのだけれど、彼の傍に居られない事が寂しかった。寝ている彼の手にもっと触れておけば良かった…そんな不埒な事を思う。殴られた頬は赤く、口の中が少し切れていた。濡れた手拭いでそこを冷やしながら、彼がそこに触れるか触れないかの塩梅で撫でてくれた事を思い出す。あれ程の事があったにも関わらず、私はそれ程、ショックを受けていなかった。それよりも助けてくれた彼の所作の美しさや私の知らない冷たい抑揚の無い声や、刀を鞘に納める所作の美しさに圧倒された。まだ一人で長時間立って歩く事もままならない状態なのに、彼はあの瞬間、堂々と立ち振る舞った。きっと彼は強かったのだろうと感じた。体調が良くなって、何でも一人で出来るようになったら彼は本土に帰ってしまうかもしれない。ここに居るのは体を壊しているからであって、こんな場所で燻るのは本懐ではないだろう。そう思うと胸が引き裂かれるような思いだった。いやだ、傍に居たい。彼を独り占めしていたい。涙が溢れて来る。