彼女は俺に粥を勧めながら言う。
「やっぱり軍人さんなのですね、軍服に軍刀、肩の勲章で軍人さんなんだと思っていました。」
粥が美味い。
「私は東堂綾乃と申します。」
東堂綾乃…。名前まで美しいのだなと思う。
「見ての通り、この家は私一人で住んでいます。父と兄は戦争に行き、早い段階で戦死したと知らせが届きました。母は病気がちで父と兄の戦死の報告を聞き、その後、病気で亡くなりました。」
彼女も天涯孤独という訳だ。
「俺の家族もみな死んだ。父は戦争で、母と妹は空襲で…」
そこまで言うと嗚咽が漏れる。彼女が俺の背中を撫でる。
「話さなくて良いですよ、受け止められるようになるまで時間はかかりますから。」
彼女が手拭いを渡してくれる。
「すまない…」
手拭いで涙と鼻水を拭く。同じような境遇なのに彼女は何故、こんなにも凛としているのだろう。
「まずは食べて体力をつけないと。」
彼女はそう言って粥を勧めてくれる。
その後、彼女は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。俺の体を拭き、食事の用意をし、厠へと付き添う。
「着る物は父や兄の物がまだありますので、それで良ければ使ってやってください。」
彼女はそう言って仕立ての良い服を俺に着せてくれた。彼女自身も本土とは比べ物にならないほど綺麗な服を着ている。きっと資産家なんだろうと思った。少しずつ体が動くようになるのを感じる。それでも日中は布団に伏せている事もまだまだ多かった。夜になると熱が出た。彼女は俺の傍らで団扇を扇ぎ、額の上の手拭いの交換をし、看病をしてくれた。
翌朝、目が覚めると彼女が傍らで眠っていた。名も知らぬ、どこの馬の骨か分からぬ俺にこんなにも親切に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる彼女に感謝しか無かった。生かされている、そう感じる。この恩に報いなければと思う。命の恩人だ。
俺は自分の命を捨てようとした。絶望し、戦争に負けた事で蔑まれ、生きる価値を見出せず…。そんな俺を彼女が救ってくれた。代償を顧みずに。
不意に彼女が目を覚ます。
「起きておられたのですね。」
体を起こしながら彼女が言う。
「こんな寝入っている姿をお見せするなんて…」
彼女は頬を染めている。そんな彼女が可愛いと思った。
「甲斐甲斐しく世話を焼いてくれて、疲れさせてしまい、すまない。」
そう言うと彼女は正座をし、三つ指をついて言う。
「おはようございます。」
そして微笑んで言う。
「すぐにお食事のご用意をしますね。」
今日の粥は昨日よりも少し硬いくらいに調整する。勝手口から外に出て、すぐ横を流れている川に仕掛けてある竹板の上に上がっている魚を取り、家に戻って焼く。身をほぐし、粥に混ぜる。少しでも栄養のある物を食べて欲しかった。自分でも何故、こんなに甲斐甲斐しく世話を焼いているのか、分からなかった。父や兄に出来なかった事をしてあげたいのかもしれない。
「今日は魚が入っているのか。」
彼が微笑んでそう言う。彼の微笑みを見て何だか嬉しかった。
「食べ終わったらお体お拭きしましょうか。昨日の夜は熱が出て、汗をかいたでしょう?」
彼は自分で粥を食べながら頷く。
「お願い出来るか。」
私は微笑んで支度する。
食事の盆を下げて、桶に水を入れて持って行く。手拭いを水に浸し、絞って彼の体を拭く。もう少し体が自由に動かせるようになったら、お風呂に入れるだろう。それまではこうするしかない。
「すまない。」
彼が言う。私は微笑んで言う。
「こういう時はすまないではなく、ありがとうと仰ってください。」
彼が私の顔を見て少し驚く。そしてすぐ笑顔になり、言う。
「ありがとう。」
正直なところ、平凡な、そして平和な毎日を送っていた。家族がみんな死んで自分だけ残され、ただ毎日生きているだけだった。近所の家も皆、毎日ただ生きているだけ。生き甲斐など無い、ただ朽ちて行くまで生きているだけ、そんな毎日だった。そこに現れたのが彼だった。非日常の出来事に私はドキドキした。今もドキドキしている。何かやる事がある毎日は楽しかった。
その日の夕方、夕飯の支度をしている時だった。ドンドンと戸を叩く音が聞こえる。
「おい!居るんだろ!開けろや!」
私は土間から上がって玄関へ行く。またあの男だ。玄関を開けずに言う。
「帰ってください。」
そう言っても尚、ドンドンと戸を叩く男。
「いいから開けろや、顔くらい見せろって。」
私は溜息をついて戸を開ける。現れた男はいやらしい笑みを浮かべている。
「良い匂いがするじゃねぇか。飯でもご馳走になるかな。」
男はそう言って土間に入って来る。
「帰ってください、あなたにご馳走する謂れはありません!」
そう言うと男は私に振り返り、押し迫る。
「言うじゃねぇか、そんな強気で良いのかよ。」
怯みそうになる自分を何とか奮い立たせる。
「帰ってください。」
言うと男は私の肩を掴む。
「強気の女は嫌いじゃねぇよ、分からせてやろうか?」
そう言って無理やり顔を近付ける。
「イヤ!」
そう言って男の胸を押し返す。
「やめて!」
言いながら押し返す。押し返していた手がずれて、男の顔を押す形になる。男の手が私の肩から離れ、私の手も離れた。次の瞬間、男が私の頬を叩いた。弾みで私は土間に倒れ込む。男が私に跨り言う。
「生意気なんだよ!女のくせに!こんな良い家に住みやがって!俺が足入れ婚してやるって言ってんだよ!」
男の手が私の服に掛かった瞬間、男の手が止まる。見上げると私に覆い被さっている男の顔に刃物が突き付けられている。
「勝手に動くなよ?この軍刀は良く切れるからな。」
晃さんだ。晃さんは悠然と軍刀を構え、男を見下ろしている。
「ゆっくりそこから退け、ゆっくりだ。」
聞いた事の無い抑揚の無い冷たい声。
「ひぃ…」
私に覆い被さっていた男はガタガタと震えながらゆっくりと私の上から立ち上がる。両手を挙げて。晃さんは軍刀を男に突き付けながら無駄の無い動きで私と男の間に入る。私は上体を起こす。
「女に手を上げるとは、男の風上にも置けないな。」
晃さんはジリジリと男に詰め寄って行く。
「五体満足で帰ったくせに、やる事は下品下劣この上ない!お前のような奴が居るから、我が国は戦争で負けたのだ!」
男はガタガタと震え、晃さんに手を見せている。晃さんは男の前に立ち言う。
「金輪際、この家には立ち入るな!彼女に関わるな!分かったな?」
男は大きく頷き言う。
「分かった!もう来ない!近付かない!だから命だけは…」
晃さんは軍刀で玄関を指し、言う。
「行け!二度とその面、見せるな!」
男は悲鳴を上げながらバタバタと走り去って行く。晃さんは振り返り、軍刀を収める。なんて優雅な所作だろう。こんな緊急事態なのに、私は晃さんの所作に見惚れてしまった。晃さんは私に近付くと跪いて聞く。
「大丈夫か。」
不意に晃さんが崩れるように土間に手を付く。咄嗟に晃さんを支える。
「すまない、まだ体が…」
そう言う晃さんに私は言う。
「ありがとうございます、助かりました。」
晃さんは私を見て、私の殴られた頬に触れて言う。
「すまない、もっと早くに出ていれば、殴られずに済んだだろうに。」
私は首を振る。
「良いんです、そんな些末な事。それよりあなたのお体の方が心配です。」