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第5話「一千年の汐乃」

 4月になっていた。今日は県立唐津青翔高等学校の始業式だ。と言ってもイチゴには関係のないことで、汐乃は相変わらず5時に起きて摘み取りを手伝う。

 ただ、違うのは。汐乃はもう祖母と両親だけのものではなくなったことだ。真に交際を求められてから、汐乃はさんざん悩んだ後でまず祖父母に相談した。

 二人とも驚いてはいたが、祖母は「そいぎ、(それじゃ)汐乃のひ孫が見られるかねー」と暢気なことを言った。祖父母が反対しなかったので、吐きそうなほど緊張しながら父に話した。

「有田の……真さんに、お……お付き合い……したか(したいと)。お願い、されました。いい……ですか?」

「んー」

 父は読んでいた新聞から顔も上げず、返事はたったそれだけだった。脇で母が『いいからもう行け』と目顔で汐乃に指図した。

 後で母がこっそり事情を教えてくれた。伯母の汐乃を始めとして叔父叔母全員が『二人が添い遂げたいと言いだしたら邪魔をするな』と父に意見したそうだ。頑固な父だが、姉である伯母の汐乃にだけは頭が上がらないらしい。

「あれは絶対夫婦になる運命だって。おばさんさんたちだいでん(みんな)言ったの」

「さすが。年季入った巫女さんって違う」

「これっ!」

 それで、どうやら汐乃と真の仲は両家公認になってしまったらしい。それはありがたいことだが、汐乃はこの先どうしていいのかわからなくなってしまった。

「もう……これって、婚約レベルになってる?」

 いつものように有浦社に向かって自転車をこぎながら、汐乃はつい口にしてしまう。これまで全く男性に縁などなかったのに、いきなりこんな状態になって実感がわかない。加えて佐志家では、汐乃が憂鬱になる出来事が起こってしまった。

 長兄の奥さんが妊娠して、それがどうやら女の子らしいのだ。そうするとその子が「汐乃」と名付けられることはほぼ間違いない。お嫁さんは嫌がるだろうが、たぶんそうなる。

「もう……誰が決めたのよ、こんなこと」

 真との出会いで一時は収まっていた『出て行きたい』病がまた再発していた。でも真にはもう、『迎えに来てくれるまでここで待っている』と言ってしまった。

「どうしたらいいんだろ……」

 真を頼って東京に行きたいくらいだったが、それではあまりにも迷惑だ。あれこれ考えながら有浦社を拝んで、石段を降りようとしたときにメールが来た。

『おめでとう』

 真からだった。さっき家を出るときに、義姉の妊娠を伝えたのだ。メールの中にある一文に気がついて、汐乃は体中に鳥肌が立った。

『おばさんからも聞いた。汐乃ちゃんのお継ぎだね、佐志汐乃はきっと千年も生き続ける』

「お継……ぎ……だったの?」

 伯母から「オツギ」と呼ばれているのは、『お次』ではなかった。『ナンバー2の汐乃』ではなく、真が言った通りに佐志の女船頭だった汐乃を継承していく『お継ぎ』だったのだ。

 汐乃は、『佐志一族の歴史になりたい』と真が言った意味が今になって心に染みてきた。汐乃は、千年も続いている佐志一族の歴史そのものなのだ。

 汐乃はスマホから顔を上げて、石段と鳥居に続く有浦の地を見渡した。聞こえるのは風にそよぐ葉擦れの音。見えるのは山と田んぼ、ほんの少しの建物、そして一千年の時。

 高江山にお城があったときも、有浦社の下に港があったときも、佐志には汐乃という名の女性がいた。ここの浜から船に乗って、幾度となく仮屋湾から玄界灘へ出て行ったのだろう。そして有浦の守り神となってここに奉られ、その名を継いだ汐乃が手を合わせる。

「あたし……叔母さんかぁ……」

 困惑と苛立ちが鎮まると、ようやく当たり前のことに気がついた。長兄の娘が汐乃と名付けられたら、ただの姪ではなく『お継ぎ』の姪になる。伯母が自分にしたように、未来の佐志汐乃を育てる番が来たのだ。

「何人いたんだろ……今まで」

 呆然としながら、汐乃は有浦社の拝殿を振り返った。この中にどれだけの佐志汐乃が神様として祀られているのだろうか。

「ここに……」

 汐乃は呆然としてつぶやいた。

「やっぱり。汐乃は……ここに、いなくちゃ、いけないんだ」

 伯母の汐乃も、その前の汐乃も、昭和の汐乃も江戸時代の汐乃もここでこうして田んぼと山を眺めたに違いなかった。

 そして佐志汐乃は令和の今も生き続けている。この玄海町と佐志の家がある限り、汐乃が死ぬことはないのだ。

不意に汐乃は、目の前の何もかもが愛しく思えてきた。

「ずっと……ここに、いようかな……」

 真は玄海町に来てもいいようなことを言ってくれた。それならば、一生有浦で暮らすこともできるのだ。石段を吹き上げてきた柔らかな風に、汐乃の髪がふわりと舞い上がった。

 突然、汐乃は背後に人の気配を感じた。それも一人や二人ではない、有浦社の拝殿も境内も埋め尽くすほどおびただしい数の気配だった。汐乃の全身に汗が浮いて、体が震えた。

「ここに、います!」

 汐乃は涙を流しながら、有浦の地に向かって叫んだ。

「松浦水軍佐志汐乃は。絶対! ここば、離れんとよー!」



 - おわり -



※参考資料

『玄海町教育テレビ』

『佐賀県の民俗』(佐賀県教育委員会編)

『歩き、み、触れる歴史学』(九州大学)

『学問そして遊び-しこ名調査2009年』(服部英雄)


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