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第4話「有浦泊に笛の音」

 少し離れていたが、汐乃は『ふくみ食堂』まで真を案内した。ここは安くて量がある。まだお昼前なのに、早くも店は混み始めていた。

「大丈夫? 食べられるの?」

 真が心配そうだったが、汐乃は頭の中がごちゃごちゃになっているだけで体調は普通だ。

「何ともありません……ここ、おすすめは『ちゃんぽん』です」

「それじゃ。汐乃さんのお勧めに従って、大盛りで」

 汐乃は冷たい水を一気に飲み干した。この数時間に起こったいろいろで、喉がカラカラだった。

「佐志の一族……人も船も少なくなって。どんなことをしていたのでしょうか?」

 汐乃のコップに水を注ぎ足していた真が、手を止めて汐乃に視線を向けた。

「ああ……七ツ釜のこと?」

「はい」

「元寇のときに。佐志の長だった人たちが、親子揃って戦死しちゃったんだ。それで佐志の一族は戦をする気がなくなって、壱岐を拠点にして朝鮮との交易をやっていたらしいね」

「壱岐」

 汐乃の胸が騒いだ。一瞬の夢で見た自分は、唐津と壱岐と平戸を巡る船の船頭だった。

「高江城の遺跡から青磁や朝鮮陶器が発見されているから、佐志は交易で稼いで松浦党を支えていたのかも知れないよ」

 そう聞いて、汐乃は少しだけご先祖を誇らしく思った。

「そんな昔に、ここから……朝鮮まで行けたんですか?」

「元寇のとき、元の船団は朝鮮から出発したんだよ、当然こっちからも行ける。汐乃さんも、松浦水軍に興味が出てきた?」

「はい。あの……汐乃で、いいです」

 『佐志汐乃か?』と夢の中で呼びかけられて、体がぞくぞくするほど嬉しかった。

「それじゃ。そうさせてもらうよ……松浦党のこともっと聞きたい?」

「はい」

「松浦党は今の松浦市の方に本拠地を構えて。支配地域は唐津から壱岐、平戸から五島列島まで。もう九州の大豪族になっちゃった。そのとき一番幅を利かせていたのが上松浦党って呼ばれる波多の一族」

「カミってことは……シモもいたんですか?」

「いたよ、そっちは平戸の松浦一族。波多も松浦も戦国時代を乗り切って安土桃山時代まで栄えていたんだけど、波多の方は豊臣秀吉に目をつけられて、常陸に追い出されて事実上滅亡しちゃったらしい。うわ……」

 二人のちゃんぽんが来たが、大盛りは真が一瞬たじろいだほどもの凄い量だった。汐乃のより一回り大きな丼に、縁から十五センチ以上具が盛り上がっている。

「すごいな」

 真が箸を取り上げながら言った。

「有浦の一族はね……」

 持ち上げた麺に息を吹きかけながら、まだ真の講義は続いた。

「地道に唐津を統治していたからそのまま領地を安堵された。そしてその頃佐志一族は武士じゃなかったから、政治のゴタゴタに巻き込まれることもなかった」

 汗をかいて巨大ちゃんぽんを平らげ、車に戻ると真が訊いた。

「次は?」

 汐乃はちょっと困った。この先にエネルギーパークがあるが、あそこは子供連れの家族向けだった。道具を借りてイカダで海釣りなんて真がやりたがるかどうか、そんな時間もなさそうだし海の風はまだ冷たい。汐乃が正直にそれを言うと真は笑った。

「それじゃ、汐乃ちゃんが行きたい場所は?」

「海の、近く」

 何も考えていなかったのに。汐乃の口からするっとそう出た。

「海……かぁ……」

 真はカーナビを操作して、来た方向に車を走らせた。平尾公民館の手前で海へ向かいそうな道に入り、曲がりくねった細道に入っていく。

「大丈夫……ですか?」

 どうやら、カーナビは道を見失っているらしい。

「下ってるから、海には出ると思う」

 小さな棚田の脇を通り、道は狭い岩場の海岸で行き止まりになった。

「わ……すごい。隠し海岸みたい」

 幅は百メートルほどの、何もない岩場だった。

「どう……しました?」

 真は、車の正面を呆然と見つめていた。

「ここ……平尾の、カシコだ」

「カシコ?」

「台風とか、大時化に遭ったらここへ逃げ込むんだ」

 海に視線を向けたまま、真は妙にのろのろとシートベルトを外してゆっくりと車を降りた。汐乃もあわてて車を降りる。

「壱岐へ向かっていたのに北風が強くて、ここに三日も押し込められたことがあった」

 真が何を言っているのか、今の汐乃には理解できた。だが、理解できることが恐かった。

「あの、あの。お爺ちゃんが……あの。見たのは……ひいお爺ちゃんだと思うけど。戦争で、ぶん取った中国の戦艦。仮屋湾に来たのを見に行ったそうです」

 汐乃はむりやり記憶をほじくり返して。小さい頃に聞いた関係ない話しを口にした。

「ぶん取った。中国の、戦艦?」

 真が、怪訝そうな声で聞き返した。

「……って、言ってました。半分燃えて、真っ黒だったって」

「日中戦争は……中国に戦艦なんて、なかったと思う……だったら、日清戦争の黄海海戦かな? こんなところに引っ張ってきたんだ……」

「昔。仮屋湾に海軍の基地を作る話があったそうです、でも狭いから佐世保になったらしいですけど」

「え? それ、かえって良かったんじゃない? ここに海軍基地があったら、太平洋戦争のときに爆撃されてメチャメチャになってたよ」

 日清戦争も太平洋戦争も、汐乃にとっては歴史の教科書に書いてあるだけの話しだった。

「でも……あの時には関船がたくさんいて、もっと昔から海軍基地みたいなものか」

 真が、水平線に霞んで見える納所の岬に目を向けながら言った。

「あの……時?」

 真の口から出た『関船』に、汐乃はあの夢を思い出してまためまいがした。

「いや……松浦党が玄界灘を支配していたとき……」

「呼子の……有田の。船頭だったとき、ですか?」

「えっ?」

 真がうろたえた様子で汐乃を振り返った。そして、その顔が赤みを帯びた。

「あの棚田で……あのとき。何か、見たの?」

 訊かれて、汐乃は顔に汗を浮かべながら頷いた。

「私が、佐志の、船頭で……対馬の関船に、襲われそうになって。そしたら、真さんが……呼子の関船に乗って、助けに来てくれました」

 汐乃が話すと、真の額にも汗が浮き出た。

「同じ夢……見たんだ」

 しばらくの間、二人は話すこともできずに岩に腰掛けて海を眺めていた。

「むかし……高江山に有浦のお城があったころ。有浦社の近くまで、ずっと海だったそうです。いま町役場があるところ、いま諸浦って名前ですけど。祖父母は『潟』って、昔の地名で呼んでます」

 黙っていると息ができないほど胸が苦しいので、汐乃は祖父から聞いた昔の話を口にした。

「唐津の名護屋にお城ができて。ご先祖はそのとき、ずーっと名護屋に船でお米や魚を運び続けたそうです。博多や、アカマ……セキ? からもお米や塩を運んで……」

「赤間関って、下関の古い呼び名だよ。有浦氏が秀吉から評価されたのは大大名に匹敵する輸送力かな……だとしたら、その時代でも佐志の一族はもの凄い数の船を動かしていたってことになるよ。何だか……僕より汐乃ちゃんの方が歴史を知ってるな」

「お爺ちゃんから聞いただけです」

「汐乃ちゃんの家。戦国時代の前からずっとあそこにあるって伯母さんが威張ってたけど、本当かも知れないね」

「『佐志のサコ』って言って……昭和の始めはあそこに佐志の家が十軒くらい固まってたそうですけど。もうウチだけです。上のお兄ちゃんが家を建てるみたいですけど」

 真が側にあった小石を拾って、海に投げた。

「でも……考えてみたら。なに気に佐志の家、すごくないか?」

「どこがですか?」

「汐乃おばさんが唐津神社、鈴乃さんは祐徳稲荷神社でしょ? 伊万里神社に忠さん。この辺の主要な神社にはみんな佐志の人が入ってる」

「あ……そう、ですね。鈴乃おばさんが三島神社の子を有浦社に呼んで、舞の稽古をできるようにしてくれたそうです」

「その三島神社は値賀神社からの分霊って書いてあった。値賀神社はもろに上松浦党の値賀氏の神社だし。佐志家はいま、玄海町と唐津の伝統を神社のネットワークで支えているんだよ」

 二人は車に戻り、有浦社へ向かうことにした。二人のご先祖の下へ、他に行くべき場所は思いつかなかった。

「ここ真っ直ぐ行くと、私の高校なんです」

「どうやって通ってるの?」

「ほとんど、自転車です」

 道路の左手には、ずっと昔は佐志の船が行き来していた有浦川が続く。

「あ……そう言えば今年、『どて様』です」

「なにそれ?」

「むかし有浦川に堤防作るときに『生け柱』を埋めて、その供養です。明治まで『どて祭り』って言ってたけど、いつの間にかやらなくなったからウチでやるってるみたいです」

「生け柱って……人柱のこと? それ、どの辺?」

「むかし、ここの川岸に三本松があって。マツクイムシで枯れちゃったけど、その辺だって言われてました。でもそこは昔『佐志の関』って、浅瀬に乗り上げないように目印の櫓があった場所だったそうです」

「そこじゃないんだ」

「お婆ちゃんは、生け柱はむかしの発電所があってダムができたあたりだって言ってます。新田の埋め立てよりもっと昔だって。でも佐志の関の『セキ』だけ名前が残っちゃって、みんなそこを通るときに咳するようになったって」

「へえ……ここにダムなんてあるんだ?」

 真が笑いながら言った。

「はい。お婆ちゃんはそこの、長倉から嫁に来たんです。明治まで、どて祭りの時には旅芸人が来てたって言ってます。いまのお参りは、その近くの馬頭観音さんでやります」

「ほとんど……何て言うのか、伝統行事をボランティアで維持してるようなものだね」

 有浦社の石段を、二人は自然と手をつないで登った。拝殿の横に隠してあるナンバーロックの鍵保管ケースを開けて、二人は神妙な面持ちで拝殿へ入った。

 本殿渡り廊下への引き戸を開け、その前で二人は向かい合わせに座った。真が、リュックから恭しく錦の笛袋を取り出す。

「佐志汐乃。いつかの約束だ、お前のために笛を吹いてやる」

「ありがとうございます」

 正座したまま、汐乃は深く頭を下げた。拝殿の入口がら渡り廊下へ、ゆるやかな風が抜けていく。

 神楽笛の旋律、浦安舞の参出神前に出るのところだ。風に乗り、笛の音は拝殿を抜けて山へと消えて行く。

 いつの間にか曲は終わり、汐乃は自分の目が濡れていることに気がついた。慌てて手の甲で目を拭い、真に頭を下げた。

 また風が社殿を抜けていく。その風に誘われるかのように、二人は有浦社の境内とその先に広がる水田と山に目をやった。

「ああ……そうか」

 不意に、真が膝立ちになって声を上げた。

「何ですか?」

「むかし……この正面には有浦のがあったんだよ。三島神社のように、出て行く船はみんなここを拝んで行ったんだ」

 真が、膝立ちのまま急くような口調で言った。

「あ……」

 汐乃の祖父が言ったとおりであれば、かつて有浦社の正面にはたくさんの佐志の船が並んでいたのだ。航海の無事を願って、出て行く船はみな有浦社に手を合わせたに違いない。

「そして、有浦社には……何百年……千年も、ずっと変わらない守り神がいる」

「誰ですか?」

 真が座り直してそっと笛を錦の袋に戻し、汐乃をじっと見つめた。

「佐志汐乃だ。君だよ」

 汐乃は呼吸が止まり、体中にどっと汗が出た。

「有浦社と佐志汐乃は、たぶん一体のものなんだ。そして有浦社はこの有浦だけじゃなく玄海町も唐津も、肥前の国全部を護っているに違いない。佐志の人たちがあちこちの神社に入るのは、きっとそれが理由だ」

「ほんと……ですか?」

 汐乃が恐る恐る訊くと、真は小さく首を振った。

「今言ったことを証明する資料はないけど。今日見たこと、君から聞いたこと。そしてこの有浦社、高江城との位置関係を見たらそんな考えが成り立つ。有浦は、ずっと昔は海運で栄えた城下町だったに違ない。そしてその海運を担っていたのが、たぶん佐志の一族だ」

 真は目を閉じ、大きくため息をついた。

「有浦氏は唐津の大久保忠職と一緒に小田原へ移ったけど。有浦の家来ではなく武家でもなかった佐志の一族は、たぶんそのままここに残ったんだ……まさか、こんなことを知るとは思わなかった」

 そこで晋は少し表情を曇らせ、また拝殿の外に目をやった。

「唐津の、有浦汐乃って……もしかしたら。君に何かあったとき、佐志の養女になるんじゃないのかな?」

「えっ?」

「これまでの歴史と、これだけ佐志の一族が汐乃の名前にこだわってきたことを考えると……それくらいの準備がしてあっても不思議じゃない。佐志汐乃は一時たりとも絶やしてはいけない決まりになっているのかも……それより、佐志汐乃!」

「はいっ」

 いきなり強く名を呼ばれて、汐乃は戸惑いながら背をのばした。

「必ず唐津に戻ってくる。いや、僕がここに来てもいい。それまで……待っていて、くれるかな?」

 汐乃は頭も体も麻痺して、金縛り状態になってしまった。

「あの。あの……それ……あの……」

 何と言っていいのか。汐乃はパニックになって言葉が出てこない。

「まだ汐乃は十六だから、結婚とかは早すぎるけど。もうこれしか考えられない。将来、結婚するつもりで……交際、お願いする。僕もここで、佐志一族の歴史になりたい」

 ずいぶん大げさなことを言いながら真が頭を下げた。

『私……告……られて……る?』

 汐乃の体が震え、こめかみから汗がひと筋流れ落ちた。

「いいかな?」

「は……い……」

 かすれて、うわずった声を汐乃はようやく絞り出した。


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