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第3話「女船頭佐志汐乃」

 危急を報せる鉦。打ち鳴らされているが、それを聴いてくれる関船は近くにいるのか。救援を求めるために出した小早舟はもう見えないところまで去ったが、彼らが松浦党の関船戦船を見つけられるかは運次第だ。

 汐乃が乗っているのは、唐津と壱岐と平戸の島々に展開している上松浦党の水軍に補給の物資を届ける荷廻船である。一枚帆十六挺櫓だが船体が大きいので速度は出ない、関船に追われたらまず逃げられない。

「汐乃様! あれは対馬の関船ですぞ!」

 水師の大声で、佐志汐乃は艫を振り返った。目をこらすと、追ってくる二隻の旗には四つ目結の紋が見える。

「宗家の船が、なぜこんなところまで出てくる!」

 宗家は対馬の守護代だが、このあたりの海を取り締まる権限など持っていない。壱岐を出てまだ十里40kmほど、小二神島を越したところだった。

 この船が朝鮮からの荷を運ぶ交易船ではないことは、大きさを見ればわかるはずだった。

「このあいだ壱岐の北で博多の商船を捕らえようとして、筒城壱岐の連中にさんざん懲らしめられましたからなぁ。意趣返しかも知れませんぞ」

「笑い事か!」

 笑うように言った水師の曽禰八総太を怒鳴りつけ、汐乃は汗まみれで櫓を漕いでいる漕ぎ手たちに声をかけた。

「松浦の関船が来るまで、死んでも手を緩めるな!」

 松浦水軍への妨害であれば、船に火をかけられて全員が殺される。汐乃は船倉へ降りて刀を背負った。女ながらに直垂烏帽子の男装だった。剣を振るったことはほとんどないが、殺されるなら宗の兵を一人でも斬ってから死にたかった。

 甲板に出ようとすると、八総太の大声が降ってきた。

「汐乃様! 出てはいけません! 奴ら火箭を放ってきましたぞ!」

 汐乃は再び船倉に降りて、桶を両手に持って出た。海水を汲んで火攻めに備えるのだ。甲板に突き立った火箭は踏みつけて消し、舷側に刺さったものには海水を浴びせかける。漕ぎ手が矢を受けて海に落ちた、だがこちらにはやり返す手段が何もない。

 そうしている間に、対馬の関船は乗っている兵の顔が見えるほどに追いついてきた。舷を寄せて鉤縄をかけ、引き寄せて乗り移ってくるだろう。防ごうにもこちらには汐乃と漕ぎ手を入れても三十人しか乗っていない、あの関船にはこちらの倍も兵が乗っているだろう。

 汐乃は刀を抜き、歯を食いしばりながら関船を睨みつけた。そのとき、風の中に何かが聞こえた。

「八総太! 何か聞こえなかったか!」

「あれは、関船のほら貝ですな。半里ほどのところまで来ているようです」

 水軍の間で合図を交わすほら貝の音は、吹き手と風の具合が良ければ半里2kmまで届く。

「松浦の関船が来たぞ!」

 汐乃は声を張り上げたが、矢に射られて漕ぎ手の数は減っていた。火箭が一本、帆に引っかかって止まった。たちまち帆が煙を上げ始めるが、桶の水は届かない高さだ。また一人、漕ぎ手が矢を受けて声を上げて海に転落する。

 ほら貝の音、はっきりと聞こえた。舳先を振り返った汐乃は、驚くほど近くまで来ている一艘の関船を目にした。四十挺の総櫓で、こっちに衝突しそうな勢いで正面からやって来る。

「あれは、呼子有田の関船ですぞ!」

 八総太が嬉しそうに叫んだ。有田の関船は幅が狭く、安定が悪い代わりに恐ろしく船足が速い。

「おお! 有田の真が船頭じゃ、これはまた宗の奴らがひどい目に遭いますぞ!」

 船縁をかすめるほどの距離を松浦党の関船が通り過ぎていく。舳先に立つのはまだ若い船頭で、胴丸だけをつけて白い単衣を羽織っている。その船頭が、すれ違いながら汐乃にちらりと視線をよこした。

 追いすがってくる対馬の関船、真の関船はそれともすれ違った。すれ違い様に、真の船からいくつもの樽が対馬の関船に投げ入れられた。そしてそこへ雨のように火箭が打ち込まれる。対馬の関船から火と煙が上がり、櫓が止まってしまった。

投げ込まれたのは油の樽だ。対馬の関船はたちまち炎に包まれて、火だるまになった兵が絶叫と共に次々と海へ飛び込んで行く。それを尻目に、真の船は後続の関船に衝突する勢いで接舷した。舷を接する寸前、単衣を脱ぎ捨てた真が空を飛んだ。

およそ一間約2mを飛んで、対馬の関船に降り立った時には敵兵が二人血を吹き上げて倒れていた。対馬の兵が怯んでいる間に、松浦党の兵が次から次に飛び移って行く。わずかな時間で対馬の関船は制圧されてしまった。

「佐志汐乃か!」

 有田真が船を寄せて声をかけてきた。対馬の関船の一艘は燃えて沈みかけ、もう一艘は松浦党が捕虜にした兵と共に壱岐へ向かうようだ。

「はい。お礼を申し上げます、真どの」

「自分の兵糧を守っただけだ、礼などいらん。佐志に女船頭がいるとは聞いていたが、なぜ女が出てくる」

 訊かれて汐乃はむっとした。

「佐志は船頭が足りないのです! 嵐であろうが、決まった日に荷を動かさなければなりませんから!」

 兵糧や水、関船の修理に使う木材など、大量の荷を積んで荒れ海に出るので佐志の船は傷むのも早い。十八艘のうち三艘が修理に入り、十五艘は常に走り回っている。

「すまん。俺たちが不甲斐ないからだ」

 あっさり謝られてしまい、汐乃はそれ以上文句を言えなくなってしまった。そのとき汐乃は、真が腰帯に挿した棒に気がついた。さっきはそれで指揮を執っていたが、ただの棒ではないようだ。

「お腰の物は……もしかして笛ですか?」

 汐乃がきくと、真は笛を抜き出して見せた。

「そうだ、慰み程度にしか吹けないがな」

「一度、お聞かせくださいませんか?」

「どこかの船溜まりで会えたら」

 真が笛を振って合図をすると、関船は二十挺の半櫓で走り始めた。それでも速い。たちまち遠ざかる関船に八総太が鉦を打って合図を送ると、真の船からも鉦の音が響いてきた。

「どうしたの!」

 真の声。膝が崩れそうになった汐乃は、強く腕を引かれて我に返った。

「汐乃さん!」

「あ……」

 よろけて鐘の台座にしがみつき、顔を上げた汐乃は間近で真と見つめ合うことになった。

「真……どの……」

「あっ……」

 汐乃と真は、見つめ合ったまましばらく固まってしまった。

「大丈夫……か?」

「はい……」

 汐乃が小さく何度か頷くと、ようやく真が手を放した。

「あの……」

 まともに言葉が出るまで、汐乃は息を整えなくてはならなかった。

「なにが、あったんですか?」

「何回鳴らすのかって聞いたら、声を出してよろけたんだ」

 汐乃は額にうっすら汗が浮かんだ。ほんの数秒、その間に船で戦う夢を見たのだろうか。

「真さんは。何か……見、ました?」

 真が顔をこわばらせた。そのとき階段を降りてくる男女の声がして、二人は何か悪いことをしたかのように慌ててそこを離れた。


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