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第2話「聖地の鐘」

 汐乃は今日も朝の5時半からビニールハウスに入って、何も考えずにひたすらイチゴを摘み取る。考えれば昨日のことでまた腹が立ってくるから無心になるしかなかった。

「装束着て舞うこと、あるの?」

 有田真が話しかけてきた。伯母の汐乃は唐津へ帰ったが、真はもう数日ここで手伝いをして行くつもりらしい。

「元日祭のときだけ……」

 お正月には佐賀県中の親戚がお参りに来るので、元日と二日のあいだ汐乃は巫女姿になる。

「いま、汐乃さんも春休みだよね?」

「はい」

 父や兄たちがいれば怒られるかも知れないが、幸いみんな別のハウスで作業をしている。汐乃は周囲を気にしながら、言葉少なに真と話した。

「今日時間があったらでいいんだけど、ここの名所とか案内してくれないかな?」

 いきなりそう言われて、汐乃はイチゴの箱を取り落とすところだった。

「あ、あ、あの……ち、父が……許してくれ、たら……」

 まるでデートに誘われたような気がして、汐乃はひどくうろたえてしまった。あっさりと父の許可が出て、どうしていいのか半分パニック状態でミニバンの助手席についた。

「まず昨日の子たちが舞を奉納する……三島神社だっけ? あそこ見たい」

「はい。これ真っ直ぐ行って、つきあたったら左です」

 汐乃の行動範囲はそれほど広くはないが、三島公園や浜野浦の棚田ぐらいは行ったことがあった。

「海上温泉パレア ?」

 三島神社手前に見える案内看板を見て真が言った。

「三島公園の、海の上に建ってるんです」

「行ったことある?」

「できてすぐ……一回か二回は」

 その駐車場に車を止め、二人は三島神社を参拝した。

「北東向いてるね、この神社」

 拝礼してから真が言った。

「北東?」

「北東は鬼門だから、そっち向いた神社ってあまりないんだけど……ああ、船溜まりから出る船から拝むようになってるのかな?」

 仕方なくやっている巫女の汐乃には、何のことだかわからなかった。

「祇園祭のときは、あの子たちがこの中で舞を奉納します……暑くて大変らしいですけど」

「こっちの祇園祭って、やっぱり7月?」

「はい。例祭は十月で、その時は御神輿が海渡って。あっちの、仮屋のお旅所に行ってそこで舞の奉納やります」

 それから汐乃はちょっと不満そうな顔で言った。

「小学生から巫女だったのに、私はこっちのお祭りで巫女やらせてもらえなかったんです」

「ああ……」

 真は樹木の隙間から仮屋の対岸に目をやって、それから頷いた。

「だから昨日、何か機嫌が悪かったんだ」

 そう言われて、汐乃は手に汗が浮いた。

「そやん(そんな)……嫌そうな顔、してましたか?」

 真にあわせてなるべく標準語で話していたのだが、焦ると唐津弁が出てしまう。ちなみに同じ県内でも、南の佐賀では唐津弁が理解されない場合もある。

「嫌な顔じゃないけど、表情が硬かったから。どうしたのかなーって思った」

 三島公園の見晴らしの丘へ向かいながら、真は汐乃の様々な不満を聞いてくれた。

「地域の縄張りみたいなのに、すごくこだわる人いるよね。僕たちの家筋もそうだし」

「え?」

「伯母さんがね……汐乃おばさん」

「はい」

 真がちょっと嫌な名前を口にした。

「有田は、佐志から出た松浦党の分家だって言い張るんだ」

「……そうなんですか?」

 汐乃が聞くと、真はちょっと肩をすくめた。

「伯母さんの中ではそうらしい、だから有田の家では煙たがられているよ。それで……汐乃は、佐志の有名な女船頭の名前なんだって」

「それは、何度も聞かされてます。でもウチ以外は誰も知りませんよね?そういえば、お正月のお参りに来るときにしか会いませんけど。唐津にも有浦汐乃って子がいます」

「『しの』や『しおの』は普通にいるだろうけど、『せきの』の読みは珍しいよね」

 真は、汐乃の言い分を認めるように、ちょっと肩をすくめた。

「本当かどうか知らないけど、僕の『真』ってひと文字の名も松浦党の由来なんだって」

 展望台にたどり着き、二人は仮屋湾の景色を眺めて思わず息をついた。

「三島神社からあっちの方まで、漁船を二艘繋いでお神輿運ぶんです。湾のなか三周回って」

 風に汐乃の髪が舞い上がって真の肩に触れた。

「あ、ごめんなさい」

真がじっと見ていることに気がついて、汐乃は恥ずかしくて心地が悪くなった。

「前に……会ったことって、ないよね?」

「たぶん……私は、佐賀県から出たのって。修学旅行だけですから」

 自分もそんな気がしていたとは、汐乃は恥ずかしくて言えなかった。車に戻って、浜野浦の棚田へ向かう途中でも真の歴史講義は続いた。

「佐志の一族から上松浦党の波多が別れて、波多からまた有浦と有田が別れたらしいけど、どう血が繋がっているかなんてもうわからないよね。だいたい佐志披だって『松浦波多佐志有浦源蔵人披』って、もうわけがわからない名前だから……あ、そうだ。唐津の、呼子の岬に七ツ釜って鍾乳洞があるの知ってる?」

「はい……」

 話が飛んだので、汐乃はちょっと戸惑いながら答えた。

「あれは昔、佐志の一族が船隠しに使っていたらしいよ」

「フナカクシ?」

「言ってみれば海賊の秘密基地だね。でもそこを対馬の船に取られちゃって、そのとき佐志はもう人も船も少なくてどうにもできなかった。それで上松浦党が出てきて取り返したんだって」

「昔って……どれくらい、ですか?」

「元寇のずっと前。だから西暦1200年代だね」

 数秒遅れて、汐乃も元寇は鎌倉時代の出来事だと思い出した。

「800年前、佐志は……海賊?」

「幕府に従わないで独自に商売や貿易をやる武装集団。陸の上だと『悪党』海では『海賊』って呼ばれた。楠木正成も幕府から見れば悪党だよ、でも後醍醐天皇に従ったから忠臣だ。当時の海賊も実際には密輸で稼いでいたから、後世になって水軍と呼び方を変えたらしい」

「すごく……いろいろ知ってるんですね」

「伯母さんがあんまり威張るから、高校の時からいろいろ調べているだ。それでハマっちゃって大学も史学科取っちゃった。高校の夏休みでこっちにも調査に来たことがあるよ。ああ……そういえば、玄海町から唐津市って1300年ごろは全部佐志一族の領地だったよ」

「えっ?そうなんですか?」

「確か有浦家の文書に残ってる」

 三島から浜野浦の棚田までは10分ほど。その間に汐乃は真の大学生活と、東京での暮らしばかりを訊いていた。真は日大の史学科で、卒業したら唐津へ戻って就職するつもりだとも話した。

「あっ。あそこの、売店の先です……たぶん棚田はいま、菜の花咲いてると思います」

 棚田に水が張られて夕日を映すのは四月からだ。

「だったら今は空いてるね……恋人の、聖地?」

「この下に展望台あります。もう、ちかっと(少し)行って。ガードレール切れます……ここ左曲がって、下ってまた左。停めるとこあります」

 幸い、ほかの車は一台もいない。

「えーと……聖地か……」

 真が上の道路に立っている『恋人の聖地』と書かれた看板を見上げながら言った。

「汐乃さん。いま付き合っている彼氏とか、いる?」

「……いえ」

 顔を赤くして、汐乃は慌てたように首を振った。汐乃にそんな時間の余裕などない。

「いたら彼氏に悪いからね。それじゃ、気兼ねしなくても大丈夫だね」

 今さらながら、汐乃は自分と真の血縁を考えてみた。伯母の旦那さんの甥だから従兄弟ですらない、自分とは何の血縁もないのだ。木の階段を降りながら、汐乃は急に鼓動が速くなった。

 棚田は菜の花で黄色く埋め尽くされ、ゆるやかな風に波打っている。

「ああ……これはいいね。これなら夕日じゃないほうが綺麗だ」

 木の柵に並んでもたれかかり、海まで広がっているような黄色い波を見下ろした。わざとなのか偶然なのか、汐乃と真の腕が触れ合った。

『やだ……』

 汐乃の心臓が爆発しそうに脈打っている。

「戻って……」

 首を絞められたような声が出てしまったので、汐乃は咳払いしてごまかした。

「唐津に、戻ってくるって……東京で。お付き合い、してる人は?」

 何とかつっかえずに言うことができた。だが言ってしまってから、汐乃はもの凄く恥ずかしくなった。

「いないよ。雅楽の研究会も男ばっかりだし」

 そう言って真は汐乃に笑いかけた。

「あの鐘、一緒に鳴らしてみようか?」

 汐乃は数秒呼吸ができなくなって、額に汗が浮いた。

「そんな深刻に取らない、これがきっかけでいつか恋人になれるかも知れないし。だったら凄く良い思い出だろ?」

 それが良いことなのかどうか、パニックになってしまった汐乃の思考では判断できなかった。頭の中は『もっと、きれいな格好で来ればよかった』と後悔ばかりが渦巻いている。

 鐘を支える土台石の左右に開けられた穴、それぞれそこに腕を差し入れて紐をつかんだ。触れた真の手が熱い、汐乃の手は緊張で冷たくなっていた。

 澄んだ鐘の音が一声、菜の花の上を渡って行く。そしてもう一度。

「何回鳴らすの?」

「えっ?」

 汐乃はもう手を動かしていない。なのに鐘の音は鳴り続けている。

「どうして?」

 ガクンと、汐乃の体が揺れた。風が吹き付けてくる、強い潮のにおいを運んで。


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