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一千年の汐乃
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歴史・時代日本歴史
2024年08月20日
公開日
16,730文字
完結
佐賀県玄海町に暮らす女子高生「佐志汐乃」は、ど田舎の何もない故郷にうんざりしていた。
「早くここから出て行きたい」とばかり考えていたある日、地元神社で披露する巫女舞を稽古を手伝うために東京から帰省してきた親戚の「松浦 真」と出会う。
玄海町のことをほとんど知らない真を案内して、数少ない町内の名所をめぐる汐乃。浜野浦の棚田で二人で鐘を鳴らした瞬間、汐乃は数百年も昔に松浦党の荷廻船を扱う女船頭だった自分の夢を見る。
夢の中で汐乃は、海で出会った真に笛を吹いてくれと頼んだ「どこかの船溜まりで会えたら聞かせてやる」と約束したが。その約束はかなえられずに終わったらしい。
同じ夢を見た汐乃と真。松浦党佐志一族の神社で真は汐乃に遠い昔に約束した笛を聴かせる。大学で日本史を専攻している真から肥前の国と松浦党に関係する話を聞いた汐乃は、自分の名「汐乃」が千年以上も前からこの地玄海町有浦で受け継がれていたことを知る。

第1話「巫女舞」

 吐く息がうっすら白かった。三月の末、佐賀県玄海町有浦下。昼間は20℃近くまで気温は上がるようになった、だが朝夕はまだ10℃以下。

 高江山の麓にある家からバス停までは400メートル、通学時間帯は8時のバスを逃したら次は2時間後。しかも帰りは4時半に1本だけであまりにも不便。だから佐志汐乃せきのは雨でなければ自転車で高校へ通っている。

 背中まである髪をなびかせて自転車を走らせ、県道が二股に分かれたところで細い旧道に入るって少し行くと右側に石の鳥居が見えてくる。汐乃は鳥居の横に自転車を置いて一礼、石段と坂を上りまた長い石段を登る。

 その両脇には古びたいくつもの石灯籠がならぶ。石段の途中には神社にはあるまじき『無用の者立ち入禁止』とでも言いたげな鎖が渡してある。それを跨ぎ越えて石ばかりの参道をあえぎながら登りつめると、ようやく拝殿が目に入る。

 石の鳥居に石の額。そこには『有浦社』と彫られているが、『神社』とはどこにも書かれていない。ご祭神の名前も、どこにも書かれていない。狛犬はあるが賽銭箱も鈴もない。汐乃はそんなことは気にする様子もなく、肩で息をしながら二度頭を下げ、柏手を打ち、もう一度頭を下げる。

 どことなく普通でないこの神社は実家の親戚である工務店の所有で、その会社の施設という建前になっている。会社の敷地にあるお稲荷さんが巨大化したようなものだ。

 そしてこの社に祀られているのはすべて有浦氏と佐志氏のご先祖で、汐乃の家はその末裔らしい。「らしい」と言うのは、汐乃はそんなことに全然興味がないからだ。

 汐乃にとって自分の家はイチゴの農家でしかない。それなのに毎日毎日この社に詣でて、休日は掃除に駆り出されるのはひどく『せからしい(めんどうくさい)』ことだ。

 それに加えて2月から4月にかけては『さがほのか』の収穫が真っ盛り。汐乃は祖父母と父母と二人の兄と一緒に、毎朝5時に起きて7時半まで摘み取りの手伝いをしているのだ。それなのに、その『せからしい』ことの最大最悪がこれからやってくる。

「もう……卒業したら。絶対、こんなとこ出て行ってやる!」

 日に一度は口にする呪いの言葉を吐きながら、汐乃は有浦川に沿った道を高校へと向かう。家は山に挟まれた狭い土地にあって、どこを見ても目に入るのは山と田んぼばかり。

 しばらく行けば町役場や郵便局がある市街になるが、そこを抜けたらまた田んぼばかり。佐賀市は無理でも、せめて唐津市で仕事を見つけてここを出たかった。

 明日から春休みという日、高校から帰ってくると家の前に見覚えのあるミニバンが止まっていた。

「うわ……来た」

 汐乃は口元を歪めてつぶやいた。唐津神社に勤めている『ばっきい(伯母)』の車だった、しかも面倒なことに伯母も姓は変わっているが名は汐乃。佐志の家では、長女は必ず汐乃と名を付けられる。昔々から続いているしきたりらしい。

 読みは「せきの」なのだが、絶対に「しおの」としか読んでもらえない。すると「さししおの」と早口言葉みたいになるので、汐乃は自分の名も好きではない。

 汐乃は家に入ると洗面所に行って髪を余りなくきっちりひっつめにして制服を整え、客間の前に正座した。大きく深呼吸して、覚悟を決めて襖越しに中へ声をかける。

「汐乃でございます」

「なーい(はい)。おかえりなさい」

 祖母の声。

「失礼いたします」

 『引き手に、手をかけて……ちかっと(少し)引き開けて……』

 頭の中で手順を確認しながら襖を開ける。客間に入ったら逆の手順で襖を閉じる。

『人差し指つけて、手ば(を)三角にして……』

 最も丁寧な真礼のお辞儀。イチゴ農家の娘がこんな堅苦しいことをやらねばならない理由は、汐乃は有浦社の巫女で伯母の汐乃はその先輩巫女でもあるからだ。

「こんにちは、ご無沙汰しとります」

 頭を下げたまま、固い口調で汐乃は伯母に挨拶する。作法がちょっとでも乱れていると、もの凄く怒られるのだ。伯母に会うときは長い髪をきっちりひっつめにしなくてはならないのもそのためだ。

「こんにちは。明日はオツギも教える方に入ってもらいますよ」

 伯母が同席しているとき、高校生の汐乃は『オツギ』と呼ばれる。たぶん「お次」のことだろうと、汐乃は勝手に思っている。

 唐津の親戚にも小学生の有浦汐乃がいるのだが、その子までここにいたら何と呼ばれるのだろうか。

「教える、方……ですか」

「詩乃がおめでただからね」

 叔母の一人は去年結婚している。妊娠してお腹が大きくなってしまったのだろう。するとあと来るのは叔母と従姉が3人なので、明日行われる舞の指導役が一人足りなくなるのだ。

 顔を上げた汐乃は、伯母の隣に初めて見る若い男性がいることに気がついた。

「主人の甥で、有田真。大学の春休みで帰ってきて、神楽笛ができるから来てもらったの」

「佐志……汐乃でございます」

 伯母の手前何だか気が引けたが、名乗らないわけには行かない。

「よろしくお願いします」

 有田真が汐乃に笑いかけた。

『あれ?』

 汐乃は手をついて顔を上げた姿勢でちょっと固まってしまった。確かこの人とは初めて会うのに、どこかで会ったような気がしたのだ。

 夜には伊万里や松浦からも親戚たちがやってくる。祖父母に両親に長兄夫婦に次兄と汐乃、それでもまだいくつも空いている部屋がこの日だけは完全に埋まる。

 汐乃の家は昭和の中頃までわら葺き屋根で、紙漉き小屋や牛小屋や使用人が寝起きする小屋まであったそうだ。それがリフォームされて何度も増築されて、今や初めて来た人は家の中で迷子になる。

 翌朝は夜明け前から親戚総出でイチゴの摘み取り。それが終わると身だしなみを整えてからぞろぞろと上村川を渡って林の中へ向かう。

 林の中にあるのは『有浦様』と呼ばれている古びた3つの石塔で、ご先祖の供養塔らしい。花と線香と酒を供え、汐乃の祖父がお経を上げる。そしてまたぞろぞろと歩いて有浦社へ向かい、みんなで拝殿と石段の掃除。

 有浦社の拝殿は公民館なみの広さがあり、10人ほどでかかっても1時間以上かかる。これは毎年恒例の行事なのだが、どうして農作業が一番忙しい時期にやるのか汐乃にとっては謎だった。

 午前10時、有浦社の石段下にある狭い空き地に車が何台もやって来た。小学生の女の子4人とそのお母さん、石田にある三島神社の世話役さんが社殿の前で深々と頭を下げる。

 女の子4人は、七月に三島神社で行われる祇園祭と、十月の秋例祭で浦安の舞を奉納するのだ。今日はここでその特訓が行われる。

「よろしくお願いいたしまーす」

 4人が正座して、手をついて頭を下げる。一応形にはなっているが、汐乃だったらたぶん伯母たちに『ふーけんでねー(真面目にやれ)!』と扇子で頭をひっ叩かれるだろう。

 まず汐乃と叔母たちが4人で、真が吹く神楽笛と父の謡いで舞ってみせる。それからマンツーマンで根気よく動きを教える、要所要所で伯母の汐乃が細かく指導を入れてくる。そして特訓は昼食と休憩を入れて午後5時まで続くのだ。

「もう……やだ……」

 布団の中で、汐乃は不満の言葉を枕に吸い込ませた。自分も小学二年から巫女の所作と舞をたたき込まれたのに、身内の前でしか舞ったことがない。汐乃が巫女の姿で舞うのは有浦社の中だけなのだ。

「なしてこやん苦労、せんばいかんと……(どうしてこんな苦労をしなくちゃいけないの?)」

 学校と家の手伝いだけでも大変なのに、子供に舞の指導までやらされて自分には何も良いことはない。そして明日も朝からイチゴ摘み、もうイチゴを見るのも嫌だった。


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