春樹はぐったりとした様子で畳みに寝そべっていた。かれこれ一週間は泳ぐ練習をしているのだが、もう七月も終わりだ。本格的な夏に突入すると暑さは体力を削っていく。
ただでさえ引きこもりであった春樹にとって、慣れない運動というのは身体に響いていた。よく一週間も続いたなと自分を褒めたくなる。毎日飽きずにやってくる子供たちによくそんな体力があるなと、関心してしまうぐらいには自分にはそんなものはなかった。
「今日が休みでよかった……」
龍玄に予定があるらしく、今日は練習が休みになったのだ。これでゆっくりできるぞと春樹は惰眠を貪り、起きたのは昼前で今は昼食を食べ終わったあとである。
このまま昼寝でもして一日だらけていよう、もう今は何も考える気力すらない。そうやって瞼を閉じると今にも夢へと旅立ちそうであった。けれど、それを阻止するかのように春樹を呼ぶ声と犬の鳴き声が玄関から響く。
「春樹、棗くんが来たわよ」
「……なんでぇ」
響子の声に春樹は重たい身体を起こしながら、のろのろと玄関のほうへと歩く。玄関は開け放たれており、棗が当然のように入っていた。田舎あるあるなのだろうか、どうして鍵をかけないんだと疑問に思う。
飼い犬のひじりはというと、初めは吠えていたが飼い主である響子が対応したことで鳴くのを止め、大人しく伏せて春樹を見上げながら尻尾を振っていた。
そんなひじりを横目に春樹はよっと挨拶をする棗に疲れた顔をみせれば、「疲れてるって顔だ」と突っ込まれた。本当に疲れているのだがらしかたないだろうと春樹がむっと膨れれば、棗はごめんごめんと笑う。
「それで、なんなのさー」
「あぁ、ちょっと出かけようぜー?」
「行くってどこに?」
「いろいろだよ」
いろいろってなんだと春樹が突っ込めば、そのままの意味だよと返されてしまう。春樹は訳の分からないままに靴を履いて、棗の後をついていった。
*
商店街とは違う裏道を通りながら、棗は「今日も暑いよな」と手で仰ぐ仕草をみせた。今日は一段と暑い気がして、じっとりと汗に濡れる額を拭いながら春樹は頷く。
青々と生い茂る並木道へと差し掛かり、あっと春樹は声を零した。思い出した、この木は確か桜ではなかっただろうか。棗は「懐かしいだろー」とくるりと振り返った。
「春樹とよく此処で追いかけっこしたよなー」
「したした! 棗ってば、足が速くていつも追いつけなかったんだよ!」
「でも、めげずに追いかけてきてたよなー、春樹」
懐かしいなと春樹は周囲を見渡してみると、昔よりも整備はされているが面影は残っていた。
木々だけは変わらず茂っており、何も変わってはいない。あの木の裏に隠れたりしてたんだっけと、昔を思い出しながら春樹は表情を和らげる。
「春樹、やっと落ち着いたみたいだね」
「え?」
棗の言葉にどういう意味なのかと春樹は首を傾げた。何がと、そんなに自分は落ち着きがなかったのだろうかと考えていれば、棗はそうだなぁと腕を組む。
「なんか、思いつめてる感じだった」
春樹が引っ越してきたと聞いて会いにいった時はなんだが元気がなくて、まるで思いつめて何処かに消えていきそうだったと棗は話す。そういえばと、春樹は引っ越してきた当日に棗とは会って、挨拶も軽くした記憶があった。
(あの日は死ぬ気だったからな……)
表情に出るぐらいには思いつめていたのかもしれない。祖父母に心配されたのもこれが原因なのだろうなと、春樹は自分の分かりやすさに苦く笑ってしまう。
「今はそんなこと考える余裕がないって感じだよな」
「毎日が大変だからね……」
昼は子供たちと泳ぐ練習が入っているのだ。あの子たちと関わっていると、余計なことを考える余裕がない。死にたいと思っていたはずなのに、それすら考える気力が湧かないのだ。
「いいじゃん。面倒なことなんて考えなくてすむんだからさ」
いろんなことして、嫌なことなんて忘れちゃえばいいんだよと、棗はそのほうが楽になれるからと話す。面倒なことなんて考えるよりも、今を楽しむことに集中したほうが有意義だと。
彼の言うことは間違っていないのだと春樹は思うけれど、自分にはそれを肯定したくともできなかった。
春樹が視線を逸らすように目を落とせば、それに気づているのかいないのか、棗は難しく考えることはないさと笑む。
「まー、言いたくないことだってあるだろうから、おれはとやかく聞かないよ。でも、一緒に楽しんだりすることはできるからさ」
余計なお世話かもしれないけれどと、棗は言ってまた前を向いた。彼なりに春樹のことを励ましているのかもしれない。それが余計なお世話であることも理解しているふうだった。
そうだ、自分の気持ちなど知らないくせに何を言っていると思わなくもない。けれど、けれどなんだか心の底にその言葉が落ちていった。
並木道を越えると神社がある。少し丘の上にあるそれは海の神様を祀っており、普段は人気がないのだが、神事や祭りになるど人が忙しなく出入りする。丁度、八月の中旬に祭りがあるからだろうか。様々なあやかしや人間の大人たちが出入りをしているのが窺えた。
「今年も海祭りあるんだよ」
春樹も何度か行っただろと、棗は電柱に貼られたポスターを見せる。春樹の記憶の奥底にそんな思い出があるような気がした。もう殆ど覚えていないのだが、そんな時期なのかと時間の早さを感じる。
「まー、祭りの前に海水浴場が混み合うんだけどねぇ」
この時期ばかりは海水浴や、祭り目当ての観光客でこの港町は盛り上がるのだと棗は面倒そうに溜息をつく。
大人たちが忙しくなるのは分かるが、高校生である棗まで何かあるのだろうか。祭りの手伝いか、それともバイトが忙しくなるからなのかという春樹の疑問に気づいてか棗は話し始めた。
「親戚が海の家やってるんだけど、手伝ってくれって言われてるんだよねぇ」
どうやら、手伝いを雇うよりも、使い勝手の良い親戚の子供のほうがいいと判断したらしい。他人よりも身内のほうが扱いやすいというのは分からなくもないなと春樹も思ったけれど、棗にはバイトがあるのではなかったか。
「あれ、バイトは?」
「辞めたよ」
「ふぁっ!」
さらりと言われてどうしてと思わず春樹問うと棗から歯切れの悪い答えが返ってきた。なんだそれは気になるじゃないかとじっと見つめいると、棗はそんな視線を遮るように手を掲げる。
「その視線やめろー」
「だって、気になるし」
「あー、あれだよ。海の家が始まったら分かるから」
嫌でもわかるよ、げっそりした様子の棗を見るに何かあったのだろう。なんだか、問いただすのは可哀想になってしまったので諦めることにした。棗の言う通り、海の家が始まればわかることならそれまで待てばいいのだ。
「そういえばさー、何処に向かっているの?」
春樹は棗の後を着いていっていただけである。彼に誘われて外に出てみたが、思い出の場所に行ったぐらいで、あとはぶらぶらと散歩しているだけだ。何か目的があるようには見えないその様子に春樹は疑問を抱く。
「ただの散歩だよ」
「え」
「久々に春樹とちゃんと話したかっただけ」
それだけと答える棗に春樹は目を瞬かせる。久方ぶりに再会した友達と会って話をしたいって思うのは不思議ではないだろうと言われて、それはそうかと春樹は納得する。
「てか、春樹ってわかりやすいなぁ」
「何が?」
「なんでって顔にすぐ出てた」
顔に出ていたと指摘されてそんなに分かりやすい表情をしていたのかと春樹は頬を押さえた。表情に出やすいところが自分の悪い所なのかもしれない。
(こういうところが悪かったのかな……)
こんなわかりやすい顔で見られたから気分を害させてしまったのか、これがなければもう少し上手くやっていけた。春樹は頬を擦りながら俯く、そう思うとなんだが不安になってきたのだ。
「どうしたの?」
「……分かりやすいから」
気分を害させてしまうかもしれない。ぽつりと呟くと棗は目を見開いてからぷっと吹き出した。突然、笑い出したものだから春樹は「何故!」といったふうに彼を見る。
「そんなこと気にしてたのかよ?」
「そんなことって! 僕にとっては……」
「気にしないよ、そんなの」
おれは気にしないと棗は断言する。春樹以上に分かりやすい人間なんて、あやかしなんて多いのだから、そんなものをいちいち気にしていては気が持たないではないか。そんなの疲れるだけだよと棗は背伸びする。
「それに春樹は悪意がこれっぽっちもないからね」
悪意のある人もいる、露骨に嫌そうに見下すように表情を見せて相手を威圧する。そんな人間やあやかしは嫌だけれど、春樹はそんなことはないから気にしないのだと棗は明るく言った。
「でも、春樹は大変そうだよなぁ」
「そ、そうだよ。分かりやすいってことは……」
「好きな相手できたら大変そう」
「そっち!」
それ以外に無いだろうと棗はにっと口角を上げる。好きな相手に好きだと口に出さなくとも通じてしまう可能性があるのだ。それは周囲にだって伝わってしまうかもしれないと指摘されて、そうだなと春樹は納得してしまう。
「まー、大丈夫だって」
「そんな気になれないんだけど……」
「好きだろって、好きな人に言われたら好きだよ! って言い返せばいいさ」
「無理だ!」
春樹が「棗じゃないんだから!」と反論すれば、えーという返事がかえってきた。そんな直球に言い返せる勇気を春樹はもっていない。
相手に気づかれてるのだから大丈夫だろと棗は言うけれど、無理なものは無理だと春樹はぶんぶんと首を左右に振る。その取れるのではないかと思わせるほどに振る様子に、棗が爆笑していたのだが笑い事ではないと春樹は頬を膨らませた。
「春樹さー。この町どう?」
「うーん。好きかなぁ。落ち着いてるし、海も綺麗だしさ」
「わかる。おれもこの町の海が好き」
港町で育ってきたというのもあるが、あの真っ青な輝く海というのは見ていて気持ちが良いというのもあった。もちろん、その恐ろしさというのも知っている。それは切っても切り離させないことだけれど、それでも嫌いには慣れない風景だった。
「海を見てるとさー、なんか忘れられるんだよなぁ」
「棗でも忘れたいことなんてあるの?」
「そりゃあ、あるって。おれにだってそういう時」
生きてるのだから、嫌なことや忘れたいことなんて沢山ある。こんなものっていじけたり、自棄になったりもする。棗はそんなふうに見えないかもしれないけどなと、おどけてみせた。
「吐き出せる時に吐き出すんだよ、おれは」
「海とかで?」
「そうそう。海を見たり叫んだりして」
「叫ぶの!」
「人居なければ、叫んでも大丈夫だって」
悲鳴を上げるわけじゃないのだからと棗は言うが、恥ずかしくはないのだろうか。自分には無理だなと春樹は思う、人が居なくともつい気にしてしまうだろうと。
口に出せば少しは楽になるのかもしれない。心にずっと閉じ込めているよりは吐き出して外に出してしまったほうが苦しくはないだろう。それができるっていいなと、春樹は棗を少しばかり羨ましく思った。自分には口に出す勇気すらないから。
「誰かに愚痴れればいいけど、なんて言えばいいのか分からないことってあるからなぁ」
「あるの?」
「ある、すっごい聞いてほしいこと」
棗はすっと真顔に戻るその表情の変化に春樹は驚いた。棗自身、言ってしまいたいようではあるが場所が場所なのか、はぁと小さく溜息をつくだけだ。
「春樹になら言ってもいいんだけどな」
「僕でいいの?」
「うん。春樹は誰かに言いふらしたりしないだろ?」
誰であろうと黙っていられない人間というのはいるものだ。秘密にしておいてくれと言ったにも関わらず、話してしまう者というのは多い。それは春樹も見てきたので知っている。
(まぁ、僕には話す人っていないからなぁ)
祖父母と話すことはあっても他人の事情を話すことはない。近所に年齢が近い子の友人など棗しかいなかった。いるのは子供ぐらいだが、そんな幼い子に話す内容でもないのだ。
結果、話し相手がいないということになる。それは事実なので認めざるおえない。
「まー、今度愚痴を聞いてくれ。おれも春樹の愚痴聞くからさ」
他の人の意見っていうのも聞きたいしと、棗は言って腕につけた時計をみる。それに釣られるように春樹も見遣れば、時間は十五時を少しすぎたところであった。
「お腹空かない?」
なんか食べてから帰ろうよと棗は提案する。そういえば小腹が空いた気がしなくもないなと春樹はお腹を擦ると、少しばかり小腹が空いた感覚があったのでその提案に乗ることにした。