海は嫌いじゃない。海は正直だ、誰を拒むわけでもなく、時に穏やかに時に荒れ狂って隠すことなく素直だ。
太陽が反射しきらきらと輝く水面を眺めながら春樹は砂浜を歩く。今日は波が穏やかで海水浴をするのなら丁度いいだろう。
この浜辺は地元の人間しか知らない穴場なので人は少ない。少し先のほうでは子供が遊んでいるのが見えるぐらいだ。
子供は元気だなと思いながら海をぼんやりと見つめていると、ぷかりと何かが覗かせた。あれはなんだろうかと目を凝らし、顔であることに気づく。
それは春樹に気づいたのかまた水中に沈み、すうっと黒い影が近寄ってくるやばっと水面から這い上がった。
白と青の鮮やかな長い髪に、夢幻のように整った容姿、よく映える藍の着物を着こなす竜の角を生やした、人の姿をしているあやかし。
春樹は一目見て、それがあの時の自殺が未遂へと終わった原因である龍であることに気づく。
海水に濡れるきらめく髪を掻き上げて、龍の男は金の瞳を春樹に向けてにかっと笑った。
「あの時の人間の少年じゃないか」
「あの時はどうも……」
「元気そうだな!」
そう言って龍の男は春樹の頭を撫でる。突然のことに目を見開いて春樹は暫く固まってしまった。頭を撫でられるなど子供の頃振りであったから。
「……こ、子供扱いするな。僕、十八歳なんだけど!」
「うん? そんなつもりはなかったが?」
やっとのことで振り絞った言葉に龍の男は不思議そうに首を傾げた。君は立派な男性だろうと彼に言われて、春樹は「だって、頭……」と言い淀む。
「なんだ、頭を撫でるというのは子供にすることなのか? 人間の世界では」
龍の男に「俺たちは子供だけじゃなくともするぞ」と言われて春樹は黙った。種族の違いというのをこの時、気づいたのだ。
あやかしによって行動の意味が違っていたりすると学校の授業で習っていたのを思い出して。
「……ごめんなさい」
春樹は自身が勘違いしていたのだと素直に謝罪したのだが、それもまた彼からしたら不思議だったのだろう。龍の男は謝ることはないだろうと笑う。
「人間とは不思議だな。あぁ、俺は
「……春樹」
「春樹か、良い名だな」
うんと龍玄は頷くとぽんぽん春樹の頭を撫でた。あまりのフレンドリーさに春樹はどう反応していいのか分からない。
あやかしの龍と接するのが初めてであるということもあるが、一番の理由はあの時のことがあるからだ。
彼の登場により自殺は未遂に終わり、まともな会話をするまもなく、春樹は一方的にそのまま走って逃げてしまった。けれど、相手は特に気にしている様子ではない。困惑する春樹にどうかしたのかと龍玄は顔を覗く。
「な、なんでもない!」
「そうか? ならいいが。今日は元気そうだな」
「元気そうって……」
「あの時は可愛らしい顔が悲しげであったからな」
龍玄の言葉に春樹は苦く笑う。あの時の表情はきっと全てを諦めたふうに歪んでいたのだろうなと、自分でも自覚があったからだ。
極め付けに自分の態度は良いものではないかったので、気分を害してもおかしくはない。それなのに龍玄は何とも思っていないといったふうに接してくれているのが理解できなかった。
「どうして話しかけてきたのさ?」
そんな彼はどうして話しかけてきたのか気になった春樹が問うと、龍玄は目を瞬かせながら「話しかけてはいけなかったのか?」と逆に問い返されてしまった。
「いや、その……」
「俺は春樹を見かけたから話しかけた。ただそれだけだぞ?」
知った顔がいれば話しかけるなんてことはよくあるだろう、そう龍玄は答える。彼が話しかけてきたことにはそれ以外に他意がなかったようで、春樹は驚きからなんて返していいのか分からず口篭もる。
あの時のことをとやかく言われるのだと思ったがそうではなくて、龍玄の口からはそんな問いは出なかった。言葉が思いつかず詰まらせていると、遠くのほうであーっという大声がした。
そのほうへと目を向けると数人の子供たちが海のほうへと走っていく。ボール遊びをしていたのだろう、赤いビーチボールが波に流されていた。
いつの間にか波も強くなっており、ボールはどんどん流されていく。それを取ろうと一人の男の子がビーチサンダルを脱ぎだした。
「待ってくれ、子供たち。今は波が強い、俺が取ってやろう!」
龍玄はそう叫ぶと、子供たちのほうへ近寄り海へと飛び込んだ。水しぶきも音も無く泳ぎ、ボールを掴むと顔を出して子供たちへ手を振る。それを見て春樹は駆け出していた、逃げるならば今だと。
逃げてしまった、春樹ははぁと溜息をつきながら自室へと戻った。逃げる必要などないはずなのに、どうしても会話が上手くできなくて。そんな自分に嫌気がさしながら畳みに寝そべると瞼を閉じる。
ふっと浮かぶ龍玄の笑った表情にぱっと目を開くと首を振って、春樹はうつ伏せになり頬を畳みにつけた。
どうやって死のうかと考えると、あの時の助けられた出来事を思い出してしまう。彼の、龍玄の月を見上げた表情が脳裏に過ぎるのだ。そうなると死ぬ気がなんだが失せてしまう。
あの時から数日ぶりに会った彼は、何でもないといったふうに接してきた。何故、死のうとしたのか気にならないのだろうか。人間というのは言わないだけで気になっているということはある。
何も言わなくとも、あぁきっと聞きたいのだろうなという雰囲気というのを感じたことがあるのだ。けれど、あの龍玄というあやかしの龍は違っていた。
あの時の顔については言われたがそれ以外は何も言わず、気になるといったふうの雰囲気すらださない。
「……なんでだろ」
あやかしだからそういった細かいこと気にしないのかな、春樹は再び瞼を閉じた。もう考えるのも面倒だ、このまま夕飯まで寝てしまおう。
遠のく意識に春樹は身を任せれば、すっと落ちていった。