薄闇の中、月が漣に揺れる海を淡く照らす少しばかり蒸し暑い夏の夜。静かな波音を聴きながら春樹は砂浜を歩いていた。吹き抜ける潮風に肩で切り揃えられた黒髪を靡かせながら一人、歩を進める。
岩肌に打ち付ける波が見える人も寄り付かない海岸に辿り着くと、春樹は靴を履いたまま海へと入っていった。海水の冷たさを肌で感じながらゆっくりと浸かっていく。足首、膝、と沈んでいった。
春樹は自殺をしようとしていた。学校にも家にも居場所がない、何もない生きることすら無意味に感じて。他人からしてみれば些細なことかもしれないが、それが積み重なれば重石になる。そんな苦しいままならいっそのこと、そう考えたのだ。
空を見上げれば宝石を散りばめたような星屑が煌いて、月をより美しく装飾している。そんな星の瞬きを眺めながら身を沈めるように歩む。
「危ないぞ」
そう背後から声をかけられて、春樹は肩を跳ねさせ振り返ると、目に飛び込んできたのは白と青の鮮やかな長い髪だった。
きらきらと眩さを感じる髪を海水に濡らした壮年の男の顔は夢幻を見ているかのように整っていた。その美麗な容姿を際立たせるように額の両端には龍の角が生えている。
あやかしだ、それも龍の。あやかしを初めて見るわけではなかった。彼らと共存しているのだから、都会だろうと田舎だろうと見ない日はない。
けれど、見かけたどんなあやかしよりも綺麗なその姿に春樹は声が出なかった。
「こんな夜の海になど人間が入るものではないぞ」
凛とした澄んだ声音でそう注意され、春樹はなんて答えればいいのか分からず黙ったまま龍を見つめた。
自殺をしようとしていたなど、言ったところで叱られるのが目に見えている。そんな若いうちからと言われるのは御免だ。
暫く黙ったままそうしていると龍は察したようで、春樹の様子になるほどといったふうに腕を組んだ。こんな夜更けに海の中へと入っていくのだ、予想はつくだろう。
あぁきっと咎められるのだ、そう思った春樹だが彼から出てきた言葉は違っていた。
「何をどうしてそのような行動をとったかは聞かないが、オレの目の前では死なせてはやれない」
この龍は何を言っているのだろう。予想外の言葉に春樹は目を瞬かせた。何か言ってやろうと開いていた口が言葉を失い閉じていく。
すまないな、そう言って彼は月を見上げた。