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第63話 幼体

 その後、二時間ほど掛けて半分の部屋を掃除した。部屋の数は箇条書きにするととてつもなく多くなるため、優先して使いたい団欒室や食堂、台所をメインに清掃していった。


 しばらく稼働し続けたので、ここらへんで一度集合し、みんなでお茶休憩を取ることにした。


「じゃじゃ〜ん! ほら見てほら見て? ひょっとしたら、シグマちゃんは馴染みのものかしら? 美味しそうだったから、つい空港で買っちゃったのよう」


 頬に手を当てて楽しげに語りながら、「食べましょ食べましょ!」と土産物屋で見るような東京の銘菓を団欒室に置かれた丸テーブルの上にバッと広げるオリヴィアさん。

 俺でも名前を知っているお菓子ばかりだが、実際にいただく機会には恵まれてこなかったので素直に興味を惹かれてしまう。

 バナナカスタードを包んだスポンジ生地の洋菓子に羊羹、雷おこし等がずらっと並べられていた。


「俺も食べるのは初めてです。いただきます」

「んもう堅苦しいわ、ホルンちゃん相手みたいに気軽にお話ししてくれていいのよっ」

「そ、それは……」

「ふふ、まだ緊張しているのね」


 オリヴィアさんは不思議な魅力に溢れている人だなと改めて思う。

 はつらつとしていて若々しいようなリアクションで無茶なお願いをしてきたかと思えば、突然、聖母のような大人びた微笑みでこちらの子どもっぽい部分を優しく包み込んでこようとするから、気恥ずかしさのせいでまともに相手をすることができない。

 美人だから余計に気後れしてしまうところもある。


 現在、シグルドさんは別室の台所でコーヒーを淹れてくれているみたいだし、ホルンはホルンでまだ少し気になるところがあるからと窓枠の清掃に夢中だった。


 つまりいま、俺とオリヴィアさんの一対一の状況であるわけで、それがなんとも慣れず気まずかった。


 自然と救いを求めるように作業中のホルンの背を目で追ってしまう。

 その視線さえ、オリヴィアさんには悟られる。


「働き者ねえ」

「そっそうですね……。もしかしたら、ホルンは掃除が好きなのかも」


 思えば綾姉の家でもそうだった。

 初め転がり込んだときは物が散乱していたが、日に日に生活しやすく整えてくれたのはホルンだ。あまり自分では主張しないタイプだけど、手の届く範囲のことであれば、目についたものは率先して綺麗にしようとする気配り上手な一面がある。


「いい趣味だわ。素敵なお嫁さんになれそう」

「んっンンッ」


 思わず咳き込んでしまう。素敵なお嫁さんだなんて……ホルンも考えたりはするのだろうか? イマイチどうコメントしたものか分からなくて、俺は沈黙する。同意すべきかどうか分からなくてつい押し黙ってしまった。

 幸いにもオリヴィアさんは俺の反応を気にしたそぶりもなく、そのまま清潔な団欒室をぐるりと見渡しながら晴れやかな笑顔でこう口にした。


「こんなに綺麗にしてもらえて感動しちゃったわ」

「喜ぶと思います、ホルン」


 ホルンは境遇が境遇だ。本人も幸が薄い顔をする。だからこうしてホルンのことを素直に賞賛してくれる人がいると、俺も嬉しくなってしまうものがあった。

 ちょうどよく、窓枠の掃除を終えたホルンが洗面所で手を洗って合流してくる。


「お待たせしました」

「おつかれさまホルン」

「ホルンちゃん、さすがね! いまちょうどお話してたのよ〜! お掃除、とっても完璧だわ!」

「へっ? え、えぇえっ?」


 和やかな空気で俺とオリヴィアさんが一緒になってその仕事ぶりを評価するものだから、突然の褒め言葉にホルンは素っ頓狂な声をあげて困惑する。

 わたわたと振り乱した両手でわずかにウルトラマンのような構えを取るから、ついつい吹き出すように笑ってしまった。


 椅子を引いてあげ席に着かせる。ちなみに、団欒室に置かれている椅子は全て質の高い一人掛けソファだった。

 ふわふわである。


「もう少ししたらダァリンも帰ってくるでしょうから、そうしたら少し意見交換しましょう」

「は、はい」

「ん? なんの話をするんですか?」

「ヴァルハラのことと、あの〝幼体〟のこと。いま向こうでは何が起きているのか、ぜひホルンちゃんに向こうにいた頃のお話を聞かせてほしいわ」

「ヴァルハラのこと……」

「幼体?」


 ホルンと俺が、それぞれ反芻するようにオリヴィアさんの言葉を拾って呟く。

 ヴァルハラのことを尋ねたいのは分かる。聞けば夫妻は、大いなる冬の到来を感じ取ったから事の起源である日本にやってきたのだそうで、どうしてワルキューレたちが巨獣を取り逃がす結果になったのか、その原因を彼らが知る術はいままでなかった。

 そのあたり、自身が追放されたあとのヴァルハラのことを知るホルンから情報を聞き出したいのだろう。


 一方で、俺が気になったのは〝幼体〟というキーワードであった。


「幼体ってなんですか?」

「うむ。それは発端となった獣である」

「うおっ」


 オリヴィアさんに尋ねたつもりだったのだが、いつの間にか背後に立っていたシグルドさんが言葉を引き継いでくるものだから驚く。

 彼はおぼんに乗せたコーヒーをそれぞれの席の前に置くと、自身も椅子に座り、白湯気の立つコーヒーをズ、と啜ってから説明を続けた。



「かの獣の名はフェンリルという」



 ――思わず息を呑んだ。一層ピリつく場の空気に、オリヴィアさんは神妙な面持ちをし、ホルンは暗い顔をするものだから嘘じゃないのが分かる。

 シグルドさんは空気に呑まれることなく、語る。


「それは一千年周期で姿を現す破滅の存在である。育ち切ってしまえば、異界の星々を食い散らかす厄災そのものになる獣だ」

「な……」


 言葉を失う。山をも越えるような大きさのあの獣が、いまはまだ幼体で、ここから先さらに大きくなっていくのだ。

 フェンリル。それは北欧神話において終末の時に姿を現し、神々の王オーディンを喰らい、災いをもたらす狼として知られている。


「だって全然、あんなの、狼なんかじゃ……」

「うむ。奴はまだ真の力に目覚めていない。だからワルキューレらも甘く見ているのだ。時を迎える前に仕留められると」

「おそらく伝承が途絶えているのね。ホルンちゃんはどこまで知っているのかしら?」


 オリヴィアさんの問いかけに、三人の視線がホルンに集中する。ホルンは戸惑いを見せながらも、はっきりと口にする。


「もっ、もちろん、その正体は知っていました。名前を口にしてはいけないことと、絶対に討伐する必要のある、責任ある仕事だということだけ……。ほ、星を食い散らかす厄災だなんて、知りません。そこまでは教えてもらってません」


 気弱そうにホルンは首を振り、抱えきれない真実に思い詰めらせている。俺はその背中をさすってあげながらも、ワルキューレに対する不信感を募らせていく。


 オリヴィアさんは得心いったように頷き、シグルドさんと顔を見合わせて「やっぱりね」と確認し合っていた。

 しかし。


「でっでもっ、私だけかもしれないです……! 私が、末の妹だから……!」


 胸が詰まるような声と顔で、ホルンがそう打ち明けるからギョッとした。それは俺だけじゃなく、夫妻もまた驚いたように目を見開いている。

 なぜならこれは重要な話で、普通、末妹だからを理由に情報共有してもらえないようなほど話だとは誰も思っていないからだ。


「………。一旦仕切り直しましょう。ホルンちゃん、あなたが知る限りのヴァルハラの様子のこと、包み隠さず私たちに共有してもらってもいいかしら?」

「大丈夫か? ホルン」


 ぎゅっと胸元を手で抑えながら苦しそうにするホルンの顔を覗き込む。彼女は「はい……」と弱々しく受け応え、深呼吸に長い時間をかけてからゆっくりと話すことを選んだ。


 背をさすっていた手を引こうとすると、彼女はその手を取って不安そうに握りしめてくる。


「!」


 その顔を見て俺も握り返す。

 ……前々から予感していたが、彼女の姉妹関係は相当根深い問題を抱えているようだ。

 いままでは彼女を尊重していて触れずにいたこと。

 この時をもって、詳らかに明かされるのであった。

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