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第59話 ベイタ

 時間は遡って、一方――。


「アタシはラーズグリーズとゲルを許さない」


 その一言を最後にして、カーラは処刑されることとなった。それとほぼ時を同じくして、天穹陸を包み込む空は大きく翳りを見せることになる。


 ミッドガルドでは交差点での戦いが長姉らの介入によって幕を閉じたところだからだ。


「どうしてあの女が出張ってくるのですか……ッ」


 ヴァルハラの管制室では、山積みにされた資料を八つ当たりのように薙ぎ払う人影が一つ。

 此度も任務失敗を報告したベイタは、そのあまりの剣幕にごくりと生唾を呑み込む結果となった。


「っ……」


 目の前には乱心したスクルドがいる。彼女は怒りのままに、癇癪を起こした子どものように、気に食わないものを排斥するみたいに、目についたものには片っ端から好き好きに暴力を振るった。


 異界の海のデータを投影するディスプレイとしての機能を持つモノリスに、投げつけた椅子がぶつかり、倒れてしまいそうになるのを咄嗟にベイタは支える。


 ひとしきり暴れたスクルドは肩で息をしていたが、ゆらりと体を起こすと今度はベイタのほうを振り向き、詰め寄るようにツカツカと急接近した。


 スクルドは少女然としていて、背の低いワルキューレだ。長姉やラーズグリーズを筆頭にする旧世代の姉らが百七十センチ台の身長をしているのに比べて、スクルドは妹たちと遜色のない華奢な体型をしており、ヒールを履くベイタにしてみれば自然と見下ろす形になってしまう。

 だが、スクルドはどんな姉よりも恐ろしい。


「貴女にはつくづく失望しました」


 肝が冷えるような一言だった。


「ッ、待て、邪魔が入らなければ私はっ」


 鋭いビンタがベイタの頬を弾く。ジンジンと赤く熱を持った頬。言葉を中断させられ、目を見開いて驚く。

 一度も味わったことのない姉からの叱責だった。


「いまの貴女にその言葉遣いが許されるとお思いですか?」

「………っ。いいえ……」


 体を小刻みに震わせながらベイタは返答する。ワンピースの裾をグッと握りしめて恥辱に堪えた。

 これまで、姉からお叱りを受ける妹たちのことを下に見てきたベイタだ。自分は優秀であり仕事ができる存在。姉らにも引けを取らず対等に渡り合える秀才。そう自負してきたからこそ、『妹』としての立場を思い知らされることにベイタは強い恥と屈辱を覚えていた。


 歪む顔を隠すために背けるが、顎を掴んだスクルドの手がベイタの顔を真正面に向き直させる。


「通算何度目でしょう? 嘆かわしい。半人前の年若い妹すら満足に仕留められず、貴女は恥ずかしくないのですか? 帰ってくるたびにブチブチと不満を口にして、あたかも自分のせいではないかのように振る舞って、他の者を寄せ付けないようにして。技量を見込んでいたからこそ大目に見ていたものの、これでは貴女の評価を落とさざるを得ません。甘やかしたわたくしが愚かだったようですね」

「っ……そんな、ことは……」


 ベイタは言葉を詰まらせる。悪辣な言い回しでなじるスクルドに言い返せる言葉など、何一つ持っていなかった。

 気が狂いそうになるのを必死に抑え込んでいると、その葛藤すらスクルドは見抜いて論う。


「貴女の悪いところですね。自分の面子が一番なのでしょう。綺麗事の次に反吐が出る虚飾、それが貴女です。貴女は私に認められている優秀な自分に酔っていて、慎ましさが足りない。自分の力量を正確に計れていない。できないことは素直に言ったほうが身のためですよ?」

「い、いや……」

「迷惑ですし」

「―――」


 ベイタは、自分の言葉が自分に跳ね返ってくるような錯覚を感じた。


『迷惑』……先の戦いでホルンとの問答の際にも口にしたが、もし私(ベイタ)とお前(ホルン)が逆の立場だとしたら私は素直に首を差し出せていただろうか? いまとなってはそれさえよく分からない。スクルドに言われた通り、驕りがあったのかもしれない。

 自分に酔っているだけなのかもしれない。

 優秀な自分が逆の立場になることはないと分かりきっているからこそ、好き勝手に言い放ち、気持ちよくなっていただけなのかもしれない。


 ――いま、スクルドに見限られそうになって、恐ろしく感じている自分自身に己の矮小さをベイタは痛感していた。


「ヘルヒヨトゥルに頼んで左遷させましょう」

「い、嫌だ。待ってくれ、いや待ってください。できます。次こそは必ず……」

「次?」


 失言だと気付いた。


ミッドガルドへ発つのですか? 同じ目的で? 貴女が貴女よりも不出来だと思っている妹たちはそれぞれ新しい目的で異界へ発っているというのに? まったく、何をしているのでしょう貴女は」

「ッ……難しいんだ! 任務が!!」

「………」


 堪えきれず吐き出した吐露に、スクルドは冷めた反応を見せた。だがベイタは、彼女の評価を取り返すように必死になって言葉を続ける。


「だが私には絶対に遂行できる!! やり遂げて見せる!! だから最後の機会を、どうか……っ!」


 いまにも泣き出しそうなほどに顔を歪めて懇願する。プライドの高いベイタにとって、姉からの失望は何よりも恐ろしく、絶対に失われてはならないものだった。


 しかし、目の前にいるのは簡単に情に絆されてくれるような生易しい相手ではない。

 冷ややかな声音でスクルドで言う。


「ではその覚悟を証明してください、ベイタ」


 ハッと目を見開いたベイタは、わなわなと体を震わせてしばらくの沈黙のあと、ゆっくりとした動きで屈んで誰もが知るご自慢のハイヒールを脱いだ。

 その踵を力づくで折り、破壊すると投げ捨てて、彼女なりの誠意と覚悟を証明する。


「……どうか、私に機会を……」

「足りませんね」


 しかしそれでも満足しなかったスクルドは、手元のドラウプニルから作り出した槍でベイタの裸足を躊躇いなく貫いた。


「ぐぅっ……ッ!?」


 足の甲に深々と突き刺さる矛先。庇うように蹲るが、スクルドはすぐに引き抜いてくれず、それどころかぐりぐりと動かしてベイタを苦しめる。


「これでも本当に覚悟はあるんですね?」

「ッぁ、あ、ああ……ッ」


 何度も頷いて約束する。

 忠誠を誓うようなベイタの跪く姿にようやく溜飲が下りたのか、ついにスクルドは槍を引き抜くといくらか機嫌を取り戻した声で言った。


「まぁ、しばらくは貴女を謹慎処分としますが」

「!?」


 驚くベイタは咄嗟に何故かと問いたくなったが、問えばまた先ほどのように自覚が足りていないことを責められるような気がして口を噤む。

 スクルドは、親指の爪を噛んでから言葉にした。


「原初の四つ子の一人として、まずはヒルデの真意を問い質さなければなりません」


 ▲▽▲▽▲▽▲


「………風の、冬……?」

「そうだ。終末の訪れにはその前段階として三度の冬が存在する。風の冬、剣の冬、狼の冬。大いなる冬の時代の到来である」


 病室にて、困惑を見せる俺に訳知り顔のシグルドさんはあっさりとそう説明した。

 巨獣出現以来おかしなことが続いているのは分かっているが、終末が訪れようとしているなんて簡単には呑み込むことができず、狼狽えながらつい否定に入る。


「い、いや、そんなこと言ったって、だっていまは二月だし、普通の雪なんじゃ」

「だといいがな。だが、この冬はきっと明けない」

「危険なのは、君も同じということよ。シグマくん」


 シグルドさんの言葉を引き継ぐ形で、やはりホルンの面影を感じさせる表情をしたオリヴィアさんは心配げに声を掛けてくれる。

 そしてホルンもまた、俺の存在を確かめるように手をにぎにぎと握り返して真摯に見つめてきていた。


「きっかけに関わる人物ですもの。それに、既に目を付けられているなら尚更問題。ここに入院しているのだって本当は危険だわ! 退院予定日はいつ? もう、傷治しちゃう??」

「えっ、え?」


 まずい、頭が追いつかない。まるでいますぐにでも治療できるという口ぶりだ。一気に情報が押し寄せてきて、自分のなかでも整理がついていないのを実感する。

 オリヴィアさんは戸惑う俺を見て、一度落ち着きを取り戻すために胸元に手を当てると、神妙な面持ちである提案を俺にしてくれた。


「ホルンちゃんも寂しがると思うし、シグマくんさえよかったら、ぜひ私たちの家に行きましょう。そこはワルキューレには近付けず、いま私たちにとってもっとも安全な場所だと思うから」


 考え込む。この男女が俺とホルンの行く先に立つ人生の先輩であるのは分かっていても、もしかしたら、ここが俺の人生が日常に戻れるかどうかの分水嶺なんじゃないかと考えてしまった。

 もしもここで手を結んだら、俺はもう普通の人生には戻れないんじゃないかって――。


「お願いします、しぐま。一緒に来てください」


 ………。

 いや、今更な悩みだった。


「俺は、どうしたらいいですか?」


 乗り気な態度を見せると、ぱぁっと笑顔を咲かせるオリヴィアさんとホルン。

 色々と、俺自身も痛い目を見ているわけだが……。

 世界の変調が止まらないと言うのならば、ここの繋がりを自ら手放していく理由も俺にはなかった。


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