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第56話 謎の人物

「しぐま……しぐまのもとに返してください……」


 長姉が作り出したゲートによって都内某所の高級ホテルの一室に連れてこられてしまったホルンは、備え付きの椅子の上に座らされると、途端にぶり返す後悔の念からまるで塞ぎ込むように体を丸めて器用に三角座りをした。


 そんな彼女の心を閉ざした態度を見て、困ったものを見るような顔で八の字に眉の形を変えた長姉は信頼するダァリンのことを仰ぎ見る。しかし彼は一旦の落着であるからか、急を要していないことには我関せずといったそぶりでポットのお湯を沸かし始めると、マイペースにも三人前のインスタントコーヒーを淹れ出していた。


 ぷくぅ、と頬を膨らませた長姉は不満を露わにしてぽかすかと攻撃力のない殴り方をする。


「んもう……!」


 呆れたように首を振った。

 振り返り、私がどうにかしなきゃと張り切ることになった長姉は、その深海のような深みを感じさせる濃い青色のロングヘアを一つに束ね、コミカルに袖を捲ると、ホルンとの友好的なコミュニケーションを試みる。


 まずは元気よく手を鳴らして、夕食ができたことを報告する母のように笑顔で提案してみることにした。


「っそうだわ! ま、まずは自己紹介をしましょうか!  きっと、あなたは私たちのことを知らないものね! 警戒するのも無理ないわ。それに私たちもあなたのことを詳しくは知らないの。せっかくだから、ここはしっかりとお話しして打ち解け合いましょう! ね、ね?」

「………」


 おもねるようにホルンのことを伺う長姉。それでも彼女は目を合わせてくれなくて、次第に意気消沈したように肩を落とす。


 やはり、やり方がよくなかったのかも。でもあのときは、ああすることしかできなくて……。


 言葉には易々とできない言い訳。それは彼女の気持ちが分かればこそで、身につまされるような思いを鎮めるように胸元に手を当てた長姉は、深刻そうにホルンのことをじっと見つめた。


 夜の海の静けさを連想させる声の穏やかさで、今度は神妙になって語りかける。


「……ごめんなさい。あなたの気持ちは、痛いほど分かるわ。もちろん、ちゃんと彼と合流できるようにはします。いますぐにというわけにはいかないけれど」

「………。いつですか」

「そうね、これを見て頂戴」


 そういって彼女がどこからか取り出したのは、柄のない手鏡のような品だった。いつ頃のものなのだろう、ひどく年季が入っていて古びた装飾だが、きちんと大切に扱われてきたことは分かる。

 しかしその鏡面はくすんだように何も映し出しておらず、一見して不良品であるように思えるが……。


「向こうの状況は、この鏡から見ることができるわ。彼の近くから人がいなくなったらすぐに私たちも向かいましょう。大丈夫。ひとまず、彼は無事でいるみたい」


 そんな長姉の言葉に伴って、霧が晴れるように曇っていた鏡面は遠い場所にいる彼の様子を映し出す。どうやら病院に運ばれている真っ最中なようで、ホルンは飛びつくようにその手鏡を奪い取った。


「大丈夫、大丈夫だからね」

「………はい……」


 咄嗟の行動ではあったものの、それを咎めることはなく穏やかに受け入れ、むしろ慰めるようにハグをして頭を撫でてくれる長姉の優しさにホルンは気まずい感情を覚える。


 いまはこれだけが志久真との繋がり。ホルンはそんなふうに考えると、手鏡は大切に抱き抱えながら、おずおずと椅子に座り直して長姉と向き合うことを選んだ。

 そこに、すっとコーヒーが差し出される。


 思わずホルンは受け取ってしまう。


「ダァリンったら! ダァリンったら……! いいとこ取りっ!!」

「うむ」


 ぽかすかと殴りつけられる男は、動じることもなくズ、と自分好みのブラックコーヒーを啜ると満足げに息をついて椅子に座った。

 もちろん、妻の分のコーヒーも用意されている。


 んもう……とまんざらでもない様子で頬を染めながらそのコーヒーを受け取った彼女は、真っ黒の液体を見つめたあとホルンに問いかける。


「お砂糖とミルク、欲しいわよね?」

「あ、はい……」

「ね!」


 気の砕けた質問にホルンが頷くと、張り切った笑顔で嬉しそうに親指を立てた長姉はるんるんとその調達に向かっていった。ここで嗜好が一人だけ違うことを確信した男は、人知れずやれやれと首を振ったりした。


「さて」


 話は本題に移る。


「まずは、自己紹介から済ませましょうか」

「はい」


 それは、薄々は勘付いていたことだったが――。

 彼女の口から明らかにされるその名と正体に、やはりホルンは目を丸くする。

 彼女が、【ワルキューレの長姉】であることは間違いないことであった。

 そして、その末妹にとって、もっとも離れた姉との面識はこれが初めてのことになる。


 ▲▽▲▽▲▽▲



『昨夜未明、渋谷スクランブル交差点近くの路上で男子高校生(18)が正体不明の謎の人物に刃物のようなもので刺され、意識不明の重体を負う事件が発生しました。詳しい情報はまだ明らかになっていませんが、昨今の怪事件との関連を指摘する声が相次いでおります』



 ▲▽▲▽▲▽▲


 ……目を覚ましたとき、猛烈な虚脱感と左腕のジンジンとした強い痛み、微塵も体を動かす気になれない脇腹と内臓系への深刻なダメージに、ここが病院であるのはすぐに気付いていたが、(俺、死ぬんじゃないか)とまたも意識を手放してしまいそうになっていた。


 窓からは柔らかな陽光が差し込んできていて、交差点での戦いからいくらか時刻は回っていることを悟る。


「ぁ……」


 ホルンは!?

 すぐにその安否が気になると、同時にさぁーっと血の気が引いていくような思いをした。


 この場にホルンの気配を感じない。俺の起床を感じ取って、声を掛けてくれる存在がいない。最悪の想像が脳裏を掠めて、身動きもあまり取れない状況のなかでナースコールのスイッチの一つでもないかと必死に右手をまさぐるように動かす。


 すると。


「やあ。起きてくださいぁした?」


 見知らぬ男性の声がおもむろに話しかけてきた。

 一瞬、全身に力が入って強張るが、当然のように害意はないみたいでホッとする。どうやら先ほどの戦いの延長線上で感覚が過敏になっているみたいで、自分のなかでベイタの存在がいかに恐怖の対象になってしまったかを痛感した。


 視線だけ動かして男のことを確認する。そこにいたのは、まるでモノクロの世界から飛び出してきたのかと思うほど病的に肌が白く、死神のように陰気な顔色をして痩せぎすなスーツ姿の男性だった。

 暇を潰すために遊んでいたと思われる、手元のルービックキューブが一際の彩度を放っている。


 彼は諦めたようにコトリ、とその解きかけのルービックキューブを机の上に置くと、改めて俺に声をかけた。


「僕ぁ警視庁公安部、特異現象対策課の宮内です。あ、この部署の存在は何卒、オフレコでよろしくお願いしぁすね」

「とくい、げんしょう……?」

「はい。んま、ひとまず看護師さん呼びましょうか」


 気を利かせた彼がナースコールのスイッチを押す。

 警視庁公安部特異現象対策課。やけに物々しい部署名を耳にすることになって、これが極端に目立つ行動をとった罰か、と青ざめる思いをすることになった。


 駆け込んできた看護師さんによって容体の確認が行われ、約一時間後。現在時刻が午後の二時であることを踏まえると、おおよそ半日間俺は眠り続けていたことになる。


 電動ベッドで背を上げた俺は、宮内さんにその場で事情聴取を受けることになった。

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