――遠ざかる意識のなかで自分に残されたものはと志久真は考え、おもむろに手を伸ばすと目の前の存在にぺた、ぺた、ともがくように何度も触れる。
そこには冷たい金属の感触しかなかった。
「いやぁああああぁあああああっっ!!」
よろめくように横に倒れた志久真の姿。それを遠巻きに見守ることしかできなかったホルンの悲痛な叫び声が響き渡る。その無様な様を鼻で笑うように冷笑したベイタは、満足げにすっと立ち上がった。
「そこまでにしなさぁーーーいっ!!」
そこへ、駆けつける一組の男女がいた。
戦いの静止を求める、妙にハリのある女性の声がホルンとベイタの体をビタリと硬直させる。一層静まり返る広場には誰かが通報していたのだろう、警察車両のサイレンの音が近づいてくる気配を感じることができていた。
一人のうら若き女性は、困惑して目を見開くホルンのことを労わるように慈愛の込もった瞳で見つめ、その護衛のように立ち振る舞う壮年の男は、ベイタに対して隙のない姿勢で堂々と立ちはだかってみせる。
ベイタは駆け出すように接近しようとし、その人物が何者であるかを悟ると踏み止まって生唾を呑み込んだ。
次第にわなわなと体を打ち震わせ、吐き捨てる。
「っ長姉……ッ!」
「この子は私が保護しますっ!」
「!?」
最初、何を言っているのかまるで理解できなかった。
ぷりぷりと叱り慣れていない人の怒り方で奇妙なことを口走る眼前の女性に、ベイタはあからさまな戸惑いを見せる。
彼女――ワルキューレの長姉は、数百年前のヴァルハラにて追放処分を喰らったはずの身で、異界警備隊としての業務には一切の不干渉を
それが〝彼女が生きることを許す〟ための条件だ。
だのに、いまこの場に登場した理由も、そうしてホルンを庇い立てする訳も、ベイタには何一つ理解することができなかった。
その敵対行為が事実であるのなら、ベイタはスクルドにこのことを報告しなくてはならなくなる。
ただの、蛮行。ベイタにはそうとしか思えなかった。
「もう大丈夫。大丈夫だからね。さっ、行きましょう。ここはとても危険だわ」
ホルンの汗ばみ涙でぐしゃぐしゃになった頬の輪郭を愛おしげに撫でた女性は、にっこりと微笑むとなんとか彼女を起き上がらせてこの場から避難させようとする。
うまく頭が回っていないホルンは一度言う通りにしてしまいそうになったが、ハッと素を取り戻すと「ま、まって、しぐま、しぐまが」と縋るように彼の安否の確認を求めた。
――しかしそんな願いを切り伏せるかのように、ガリっと奥歯を噛んだベイタは「させるかッ!」と力強く吠えると槍を投擲する。
瞬間、ホルンの目先に鋭い鋒が迫り来る。
避けられる余地も盾を展開する猶予もない。
キュッと目を瞑って、覚悟した。
「顔を狙うのはいただけないな」
その接触の間際、飛来する槍を見事片手で掴み取ってベイタの攻撃を未然に防いだ男がいた。
思わぬ事態にベイタは更に顔を歪ませる。自身の放った投擲が人の身である男に阻まれるとは、屈辱も甚だしいことだった。
それに加え、あろうことか男は、くるっと扱い慣れた武器のように逆手にベイタの槍を持ち直すと――反撃として全く同じように槍を投げ返してくる。
同等か、それ以上の速度でだ。
「ッ――!?」
咄嗟に身を捻って危うげに躱すベイタ。
まさか想定外の反撃に戦慄する。この男は只者ではなかった。後方の建物壁に深々と突き刺さる槍を見て、ベイタの心模様は荒波立っていく。
さらには。
「きゃ〜!! やっちゃえダァリン!」
「何? やってしまってもいいのか?」
「嘘よぉダメに決まっているわ!」
惚気のような口論のような、そんなやり取りを呑気に交わす男女がいる一方、複数の警察車両と追ってやってきた救急車両がなだれ込むように現場に到着した。
深夜、渋谷スクランブル交差点はランダムに停車する緊急車両らによって一時的に麻痺し、装甲車からは武装した対テロ特殊急襲部隊〈SAT〉の人間がシールドと自動小銃を手にしながら厳正に対処に当たる。
一般の警察車両の拡声器からは『離れてください! 離れてください!』と観衆に対しての警告が加わり、現場に倒れている志久真は駆けつけた救急隊員によって懸命な救助活動が行われた。
「時間がないぞ」
「ええ、早く行きましょう」
「や、やだ、まって――」
「いまは、あなたの安全が優先なの」
この場において妙な格好をしているのは鎧姿のベイタのみであることから、SATの人間は危険人物が彼女であると断定したのだろう。緻密な連携を取りながら射撃範囲に人がいない確認を取ると一斉に攻撃を始める。
これまでとは比にならない人間からの害意にあからさまに苛立ち、そして狼狽えるベイタ。任務の妨害は腹が立つことでしかないが、さすがにこの人数の人間を相手取ることはワルキューレとして望ましくない。
「つぅ……クッ貴様ァァァ……!!」
防御姿勢を取りながらもSATの攻撃は致命打になり得ない。ベイタは忌々しげに壮年の男を睨みつける。
奴はなんだ? いったい何者なんだ?
そんな思考を妨げるように徐々ににじり寄るSATの人間。下手に反撃することもできず、このままでは分が悪いことを悟ったベイタは――、
「近付くなァッ!!」
と大きく声を張り上げて圧倒すると、振り解くように遥か高く跳躍して人間共を見下した。
苦々しいことに、長姉はこの隙を見て作り出したであろうゲートから志久真のことが心配で抵抗していたホルンを半ば強引に連れ出してしまっている。
追おうにもその手前には、名も知れぬ男が立ち塞がっていて。
――まだ、続けるか?
その鼓膜に声は届かなかったが、唇の動きからこちらを挑発しているのはベイタにも見て取れていた。
口の端を歪める。長姉と共に行動する男だ、何らかの秘密があるのは事実だろう。先ほどのはただの人間に出せる膂力でもない。まだ何かの隠し玉を抱えているとしたら、この不利な状況下で戦闘を続けることなどベイタには到底できなくて――。
「……………これは、
ベイタは生まれて初めて自分に言い訳する。
それは敗走に他ならなかった。
つくづく悪運の強い愚妹を逆恨みのように思いながら、彼女はSATからの攻撃を疎ましく感じると素早い飛翔であっという間に姿を眩ます。
遅れて男もゲートを潜り、そのゲートの痕跡さえも掻き消えたいま。
渋谷スクランブル交差点での戦いは大きな混乱と志久真だけを残して、一度終決することになった。