「だめだ、ラーズグリーズとは連絡が繋がらない……」
横浜市で長らく俺たちを匿ってくれた綾姉と円満に別れたあと、俺たちは市から遠ざかるようにしばらく車を走らせていた。
どれだけ指輪に触れたり意識を集中させてみても、ラーズグリーズからの応答が返ってくることはない。
彼女は内通者を申し出てくれた恩人だ、通話が途切れる前は何やら『ノルニル裁判』なる不穏なワードも飛び出していたくらいだから、心配が勝る。
しかし、だからこそ用心のためにこちら側からはコンタクトが取れないようになっているのかもしれない……と考えて、いまは気にするのをやめておくことにした。
「夜でも人がいる場所って、どこだよ」
ひとまず、思い当たるのは首都・東京だろうか。
横浜市から海岸線沿いを北上するように川崎市を経由し、東京都大田区に侵入しながら頭を悩ませる。
これだけの距離を稼げばすぐに見つかることはないだろう、とこれまでの経験に基づく慢心もありつつ、実際のところは当時目立つ行動もしていなかったのにあのカーラは意地だけで俺を見つけ出したわけだ。
二度も目の前でターゲットを取り逃がし、三度目は身内の不始末で絶好のチャンスを逃したベイタは、きっとその執念を今まで以上に燃やしているに違いない。
どこか安全な場所に身を隠したかった。
都会の二車線道路では、不慣れさを前面に押し出した運転をしてしまいながら、ゆらゆらと車を走らせて漠然と都心部へ向かう。
「しぐま。そろそろ、一度休憩したほうがいいのでは」
「……それもそうだな……」
案じたホルンがそんな言葉を掛けてくれるが、ハンドルを握り込む俺の両手が緩まることはなかった。
夜間でも人が多い場所。
そう考えてまず思いつくのは夜の街、歓楽街か。実際に足を運んでみたりもしたのだが、そこに広がる光景は田舎民の俺が理想として思い描く東京とはまた違うディープな一面で、素朴な生活をする俺には縁遠い世界で、「……っ」ホルンと息を呑みながら車で走り抜けることにした。
慣れない街並みに体力が持っていかれる。
方針転換しようにも、この時間から泊まれるようなホテルもなく、一度ベイタには見られている車のなかで車中泊することに不安のあった俺は、割安なコインパーキングに車を預けると数分歩いた先にあるネットカフェで一夜を越すことを選んだ。
宿泊場所の代わりにすることもできるというのは知っていたからだ。
「ここは……?」
「無人店舗なのか。やべえ、操作分かんねぇ……」
ちなみに初デビューである。
ホルンを連れ、四苦八苦しながらもその場で会員登録を済ませると、一人から二人での入室が可能な鍵付き個室をなんとか借りる。
パソコン一台と座椅子が一台、靴を脱いで上がるタイプのマットが敷かれた個室だった。
二人でも入室可能というだけで一人用の個室ではあるため、かなり手狭な空間ではあるが贅沢は言わない。
「好きにしてていいから」
たくさんの個室が立ち並び、共有スペースにはドリンクバーもあった。多くの人が個室のなかにはいるため、ここでならベイタに襲撃される心配もないだろう。
安心できることは分かったため、あとは彼女の自由にやらせる。
「は、はいっ」
だけど、それでもちょこんと気遣ったふうに小さく居座るホルンの姿を見て、これは個室で二人きりであることに緊張しているのだろうなと悟った。
一抹の申し訳なさを覚えながら、「横になっていい?」と早々にスペース占領の確認を取った俺は以後全ての感覚をシャットダウンするつもりで目を瞑る。
壁を向いてなるべく体を細くし、お互いのパーソナルスペースを確保しつつ。
休息を取ろうとすると、長い一日の疲れがドッと全身に降りかかった。
それからものの数秒で、俺は眠りに就いたという自覚もなく、意識を手放してしまっていたみたいだった。
「ん……」
妙な違和感があって目を覚ました。
どうやら、俺はいつの間にか仰向けの姿勢で寝てしまっているようだ。
しかもリラックスした体勢を取れている。
気を遣ってせせこましく寝たはずなのに、これでは恥ずかしい――。と思って咄嗟に身を起こそうとすると、「大丈夫ですよ」という甘い囁き声と共に優しく額が押さえつけられて、起床前と同じ格好にさせられる。
後頭部の位置にある、柔らかい枕に頭を乗せた。
「……え?」
目線をぐっと上に向けると、俺のことを見下ろす逆さまのホルンがいる。
そんな彼女が穏やかに微笑みかけてきたから、俺はいま、膝枕をされているんだと気付いた。
「どっ、どうして……」
「おつかれさまです」
ホルンは、まるで物語に登場する聖女様のような微笑みを浮かべ、心安らぐような声色の囁きで、俺を甘やかすようにそんなことを口にする。
状況を理解すると顔が熱くなるのを感じた。
思わず腑抜けた顔を浮かべそうになったが、気を取り直して俺は冷静に問う。
「何を、考えているんだよ」
「すみません……」
バツの悪そうな顔をしながらも、ホルンの指先は俺の前髪をもてあそぶように梳いたりするので、この姿勢で見上げる側の立場としてはかなり気恥ずかしいものがあった。
「その、とても休まらなさそうだったので。あの姿勢では」
「………」
「きっと、私に気を遣ってくださっているんですよね。分かっています、しぐまの優しさは」
神妙になって呟く彼女を見て、すっと頭が冴えた。
いつにも増して聡い顔をするホルンは、口元の微笑みを少しだけ薄れさせ、口にする。
「私が掛けている迷惑なのに」
「……まだそんなことを気にしているのか?」
「はい。だって私ずっと、しぐまが私のために何をしてくれているのか助手席で見てきましたから」
その顔はどこか嬉しそうで、そしてどこか気まずく悲しそうにも見える。眉を八の字にした彼女の幸薄そうな顔は、まだ心の底からの幸せには程遠い憂いを抱えているみたいで。
俺は深々とため息を吐き、目を逸らした。
「カーラのことなら気にするなって言っただろ」
「それだけじゃないです」
彼女の手がぴたりと止まる。その表情を読み取って、ここは俺も真剣に体を起こして向き直るべきだと判断した。
「姉様は、ああ言ってましたけど……。しぐまが戦い続ける必要はなくて」
「……?」
「むしろ、もっと戦わなきゃいけないのは私のほうで」
ホルンは元々言葉数が少なくて、その一言一言には行間がある。どうしてそんな考えに行き着いたのか、俺はもう少し深掘りがしたくて。
「……何を考えてる?」
問うた。
ホルンは、意を決したように打ち明ける。
「私の、逃げ続ける選択がしぐまを苦しめるなら……。例え解決には繋がらなくても、ベイタとは一度決着を着けるべきだと。決着をつけたいと思いました」
「―――」
「私の力でも、しぐまを安心させたいです」
そう言われて、なんて答えるべきか言葉を見失った。
『頑張ってくれ』と言うには敵が強大すぎて、『そんなことしなくていい』と言うにはこの生活に先がないことも薄々感じていたからだ。