俺の意識がラーズグリーズとの会話から切り離されたせいか、指輪の通信は強制的に切断されてしまうことになった。
なし崩し的に、綾姉に向き直る。
彼女は、信じられないものを見るような目で語気強く訴えかけるように言葉を続けた。
「な、なんで家を出る準備をしてるの? ワケ分かんない、ずっとここにいればいいじゃん」
「いや、それが難しくて……。ごめん、先に話せばよかった。これは仕方のないことなんだ」
「仕方のないことって何?」
問われ、言葉を詰まらせる俺の視線の微動を感じ取ったのだろう、彼女はホルンのことを一瞥すると歯痒そうに唇を噛み締めて強引に言葉を呑み込む。
「じゃあ、勝手にしなよ」
そう吐き捨てた彼女は踵を返すと八つ当たるように大きな音を立てて扉を閉め、自室のなかに引きこもってしまった。
「………」
「………」
沈黙がずんと室内の重力をより重たく感じさせる。
「しぐま……」
自分が原因だと気付いているから、申し訳なさそうに眉を八の字にしたホルンが俺に寄り添って窺ってくる。
いくら時間がないとはいえ、恩人である綾姉とのわだかまりをこう残したまま、まるで不義理を働くような形で家を飛び出すことは俺にはできない……。
「ごめん、少し待っててくれ。二人きりで話してくる」
宥めるように肩を叩き、ホルンに対してそう言い残すと、俺は覚悟を決め慎重な足取りで部屋の扉に近付いてこんこん、と二度ほどノックした。
返答はないが、鍵は掛かっていないようだった。
「入るよ」
ゆっくりとドアノブを回しながら、灯りの点いていない寝室に踏み入る。
彼女はベッドサイドを背にする形で床に三角座りをしていた。
「………」
塞ぎ込んでこちらを見ることもない彼女に対し、俺は当たり前のように隣に移動して腰を落ち着けると、しばらくの間二人で沈黙を共有することを選ぶ。
そして頃合いを見て、二人きりでの会話を試みた。
「……綾姉」
「分かってる。ちゃんと分かってるんだよ」
綾姉は俺の言葉に被せるように、正直な胸の内を吐露した。
折り畳んだ膝に顔を埋めながら、そう口にする綾姉の声は涙で震えている。
それは初めて見るような姿で。
「シグシグにとって、ホルるんは大切な子なんでしょう。わたしにとっても大切。良い子なのはよく分かっているつもり。でも納得できない。大人気なくてゴメン」
「……何が気になるのか聞いてもいいか?」
ゆっくりと頭をもたげた綾姉は、じっと瞳の奥を見透かすように一点に見つめる。
「どうして、よりにもよってシグシグなの?」
泣き腫らした目、紅潮した頬、赤くなった鼻頭でそう尋ねてくる綾姉の顔は、悔しさに溢れているように思えた。
「どうしてあの子を拾ったのがシグシグだったの? どうして身を削るのがシグシグじゃなきゃいけないの? どうしてシグシグが苦しい目に遭わなきゃいけないの? 命を狙われなきゃいけないの? これまでだけじゃない、この先も。どうして? なんで? わたし嫌だよ」
「……それは………」
「そう。分かってる。分かってるんだよ。だからこそ苦しいの。どーしても納得できなくてさ」
そうして彼女はまた涙ぐむと、顔を埋めてしまう。両手に力が入って、何かを堪えるように強張ったのを見た。
俺は深呼吸をして考える。
この少ない問答のなかで、綾姉が言葉をたくさん選んで話してくれているのはよく分かっていた。
綾姉は大人な人だった。
決してホルンのことは悪く言わないように、あるいは言いたくないと情が湧いているからこそ、気を遣った表現でただ『納得できない』と語る。
俺のいとこは――聡明で、とても優しい人だから。
「……俺のことを、心配してくれているんだな」
と思った。そう口にも出した。
「当たり前」
と彼女はへらっと笑って、短く言葉を返してくれた。
「………」
「………」
二人で寄り添い合う。
次第に、綾姉は塞ぎ込んでいた姿勢から足を投げ出して体の力を抜くと、ぽつぽつと今日の出来事を振り返るように言葉にして吐き出してくれた。
「今日さ、ホルるんを守るために立ち向かってみて、色々なことを思ったよ」
「うん」
「こんなに怖いんだって思ったし、死ぬかもって全然思った。苦しかった」
「……うん」
「言っちゃえばホルるんもあの人も、その世界と価値観で生きてきた人じゃん。あたしたちとは当然チガウわけで、なのにシグシグは………。まだ、手を引くつもりがないのでしょう?」
「そうだな。じゃないと、ホルンが困るし」
「嫌だよ。それって、すっごく嫌」
綾姉の正直な言葉が、俺の罪悪感を強く刺激する。
「シグシグがいない間の話を聞いて思った。あほらしいよ、なんでそんな目に遭わなきゃいけないの? シグシグって普通の人じゃん。関係ないじゃん。そこまでしてあげる必要は、本来ないはずじゃん。おかしいって」
「……それは、そうなのかもしれないけど」
だからって手を引いてしまうには、ホルンに同情しすぎている部分もあって。
カーラのような性悪なワルキューレを見てきて、今更一人で頑張ってとはとても送り出せなくて。
「分かってる? 受験生なんだよ君。高校三年生、大切な時期なんだよ」
「………」
言葉を呑み込む。
心配される謂れは大いにあった。
だけど……、
「やっぱり、見捨てられないし」
「死んじゃうかもしれない。それとも自分の人生を棒に振る気? そんなの、わたしが許さないんだけど」
「いや、志望大学には受かってみせるし、ホルンのことも救う。全部成し遂げてみせる」
明確な確証や打算があるわけではない。これは覚悟の話だ。
綾姉にちゃんと姿勢から向き直りながら、俺は真摯にそう訴えかけてみせる。
「じゃあ、尚更ここにいるべきだと思うけど」
俺への説得は効かないと見抜いてか、綾姉は唇を尖らせながらもなんとか引き止めるための手段を模索しているみたいだった。
俺はじっちゃんの家で襲撃を受けたこと、この街にいることは既にバレていて危険なこと、ラーズグリーズの話によれば人の多い場所にいるべきだということ、そしてこれ以上の迷惑はかけられないから逃避行を再開させるのだ、という思いをきちんと説明する。
静かに耳を傾けていた綾姉は、眉間の皺を深く刻み込みながら苦悩しているようだった。
「やっぱり納得できないよ」
「ごめん……、ごめん」
謝罪の言葉を呟く。綾姉は、それを受け取ってはくれなかった。
「わたしだって、見捨てたくないんだよ。あのとき止めておけばよかったなんて後悔したくないの。なんか起こるならここで起きたほうがマシ。置いていかれる人の気持ちも考えて」
「うん……」
「考えた?」
「うん」
「答えは?」
「……変えられない」
それでも譲らない姿勢を見せる俺に、綾姉は我慢の限界を迎えたみたいにぐっと体を丸めて泣きじゃくる。
「本当にっ、こわかったんだよ……!!」
綾姉の言葉はとても悲痛で、苦しかった。
「ごめん、ごめん。本当にごめん。俺は綾姉に辛い思いをさせてしまった」
「ちがう、違うくて、シグシグがまたそんな目に遭いかねないのがわたしは一番辛くて、怖いの……!」
感情を露わにしてひっくひっくと泣き声を噛み潰しながら堪える綾姉に、俺は困惑する。いとこのこんな姿を見るのは生まれて初めてで、どうしたらいいのかがまるで分からなかった。
でも、そんな綾姉の姿を見て、考えるよりも先に体が動くものがあった。
「本当にごめん。俺は大丈夫だから」
抱擁する。綾姉はハッとその温もりに気付いて、とうとうダムを決壊させてしまうみたいにわんわんと盛大に泣いた。
俺は自分の選択を間違っていると思わないし、綾姉の気持ちも何一つ間違いじゃない。簡単に言葉では折り合いをつけられない問題だからこそ、ここは心を重ねて互いを理解する必要がある。
それから五分ばかし、綾姉が泣き止むまでの間、俺と綾姉はいとこ二人きりでのかけがえない時間を共有することになった。
………
……………
…………………
それから二人揃って綾姉の自室から出てくると、ひどく心配した顔のホルンが慌てて駆け寄ってきた。
そうして綾姉の前に立つと、彼女は勢いよく頭を下げて深々と謝罪する。
「ほっ、本当にごめんなさい! 私がっ、しぐまのことを巻き込んだから……!」
俺たちが取り残してしまった一人きりの時間、ホルンはホルンで色々なことを悩み考えて、この行動を取る決断に至ったのだろう。
俺たちの間ではちょうど解決したタイミングで部屋を出たわけなので、思わず綾姉と顔を見合わせて、「プッ」と笑い出してしまう(綾姉が)。
深刻な面持ちでいたホルンは、不思議そうにそんな綾姉の顔を見上げる。
「別にホルるんのせいではないんだから謝ることじゃないよ。わたしが、どーしても納得できなかっただけ」
「それもなんとか呑み込んでもらったしな。大丈夫だ」
ホルンに対して微笑みかけてやると、彼女はようやくホッとした様子で姿勢を直す。しかし俺と綾姉の妙に打ち解けた態度には、困惑した素振りを見せていた。
なに、親しい間柄だからこそ後腐れがなく普段のような距離感に戻れるだけだ。
「はあーあ、帰り道でお酒買って帰ればよかった。ゴメンね? わたしそんなに心強くないからさ」
綾姉は伸びをしながら、何事もなかったかのように振る舞いつつ、顔を洗いに洗面所へ移動する。
その間、俺はホルンが一人でも進めてくれていた荷造りの中身を確認すると、「ありがとう」とホルンの肩を二度叩いて感謝した。
「あの、本当に大丈夫なんですか……?」
やっぱり気になっていたのか、密かに耳打ちするようにホルンがそんなことを尋ねてくる。
「ああ、大丈夫だよ。綾姉はあれでも、とっても強くてすごい人だから。それはホルンも知ってるだろ?」
ベイタに立ち向かうなんて、並大抵の覚悟じゃない。
得意げになって俺がそう言葉を返すと、ホルンは少しだけ考える素振りを見せたあと、今度は元気いっぱいに答える。
「はい!」
とても明るい笑顔が咲いていた。
すると、「なにー? なんの話ー?」と顔を洗ってリフレッシュした様子の綾姉がタオルを手に呑気な口ぶりで帰ってくる。
それを見て少し呆れた顔で打ち明ける。
「綾姉が、すごい人だって話してたんだよ」
「すごいのはシグシグでしょ」
そう言い返されてきょとんとする。
いやいや、俺は別に……。むしろ、俺のわがままを通してくれた綾姉のほうが何倍もすごいと思うんだけど。
そんな俺の気持ちも露知らず、綾姉とホルンは、「ねー?」「はい!」と楽しげに同調し合っていて、和やかな空気を取り戻していた。