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第43話 帰還

「なにごと?」

「ヘルヒヨトゥル……」


 緊迫した時間が流れている。

 彩雲から姿を表した裸足の少女は、ひた、とつま先から降り立ちながら行く手を阻むように俺たちの前に立ち塞がった。

 これは厳しい状況だ。


 俺はいま、一つの決断が迫られている。

 それはカーラに見舞ったものと同じように決死の覚悟でこの女への攻撃に走ってしまうか、ラーズグリーズがうまいことこの場を切り抜けてくれることをただ祈ってみるか……。

 前者はリスクが多い部分もあった。カーラだって、状況が適していただけで俺との接触が無力化に繋がったわけではない。ポータルで区切られていた空間だったからこそあの場に閉じ込めることができただけで、いまの状況では隙を生み出すことができても逃げ切れるとは限らないだろう。

 だからといって、後者に頼り切るのも難しい。車椅子を押す俺からはラーズグリーズの表情が窺えない。後頭部からでは何かしらの打算があるのか否かさえ読み取ることもできなくて、一種の賭けのようにも思えた。


 どうする、どうする。焦燥のなか。

 覚悟を決めるように拳を握り締める。


 張り詰めた空気を真っ先に打破したのは、ラーズグリーズの一言だった。


「この男に脅されているんだ」

「!?」


 目を見開く少女と思わず息を呑む俺。裏切られたかと瞬時に思い込みそうになったが、違う。これは――。


「そうだ、近付くな! この女がどうなってもいいのか!」

「………」


 懐から抜き出した短剣を振りかぶって威嚇しようとしたけど、左手を軽く払った少女の謎の力によって手元の短剣があっけなく吹き飛ばされる。

 おいおい……!

 役立たないとは言われていたけど思った以上の無力さに歯噛みした。咄嗟に機転を効かせてラーズグリーズの側頭部に手のひらを押し当てようとすると、ここで初めて少女は苦虫を噛み潰したように顔を歪める。

 内心ほっとしつつ。


 俺は、いつでもこの女を掟破りにすることができるんだぞ、という気迫を込めて堂々と睨んだ。


「何が望み」

「……元の世界に帰りたいだけだ。邪魔しないでくれ」


 俺がそう言うと、少女は考え込むように腕を組んだ。若干のふてぶてしさ溢れる態度だが、気にせず交渉を試みる。

 少女は俺を睨みつけながら尋ねる。


「どうやって紛れ込んだの」


 その質問にはどう答えたものか――と悩んでしまったのも束の間、冷静に場を見ていたラーズグリーズが代わりに返答する。


「カーラに聞け。こいつは奴が連れてきた」

「カーラが?」

「そうだ。私は知らん。脱走したこいつに目をつけられて、元の場所まで返せと脅されているわけだ」

「………」


 するすると嘘が出るラーズグリーズには、感心するものもありながら同時に恐ろしい奴だなと思う。

 それから長い沈黙の果て、少女はようやく口を開く。


「じゃあわたしがゲートを用意する」


「いや、信用できない。この女にやらせる」

「そういうわけだヘルヒヨトゥル。私は舐められているみたいでな」


 ラーズグリーズが自身の下半身を指差しながら自嘲した。

 悔しそうに口の端をキュッと結びながら、少女は――ヘルヒヨトゥルは沈黙する。

 ここぞとばかりにラーズグリーズは言葉を続ける。


「……カーラがどこにいるか分からない。ヘルヒヨトゥルは、そちらを捜索してほしい」

「………」

「こちらは私に任せてくれ。この人間を一刻も早くこの場から追いやるのが肝心。そうだろう?」

「……分かった」


 口の上手いラーズグリーズに説得されてヘルヒヨトゥルは渋々と頷くと、再び彩雲に囲まれて姿を消す。


 息の詰まるような気配がなくなり、ここまでの心労からどっと息を吐いた。

 じろりとラーズグリーズを睨む。


「怖ぇ女」

「短剣を投げ飛ばされるような惨めな男に言われたくはないな」

「はっ? オイ」


 こいつ口があまりにも強すぎる。頬杖を突きながら余裕綽々といった態度でラーズグリーズは先ほどのやり取りを振り返り、俺をなじってきやがった。


「最初から手のひらで脅せばよかったものを。笑いを堪えるのでこちらは大変だったぞ?」

「ふざっお前……。いや、掟のことで脅せば一発だってのは俺だって分かってたよ、ただその、悪ぃなって思ったんだ。事故で触れる可能性とか考えたら怖かったし」


 ラーズグリーズがカーラのことについて気にする素振りを見せていたことに関して、気にかけないとは心に決めたものの、変にその傷に触れたいわけでもない。言ってしまえば俺のこの右手は、ラーズグリーズが人間を嫌う理由そのものだ。

 それを彼女本人に向けてしまうのが嫌だった。という気持ちはある。


「余計な気遣いだったわ」

「ふっ。そうだな」


 嫌気が差して呟いた俺の言葉を、ラーズグリーズは何事もないかのように一笑に伏した。

 実際のところ、そう笑ったときの彼女の表情がどんなものであったかは俺には分からない。

 きっとこれも無用な気遣いなのだと思う。



 ――その後、ヴィンゴールヴへと辿り着いたのは程なくしてのことだ。


 天穹陸の北部に位置するヴァルハラに対し、グラズヘイムは周囲三分の二ほどを占め、残りの一を更に北部のヴィンゴールヴが占める。南部が天穹陸の正面であることを踏まえると、大宮殿の裏手に位置して秘匿された女神の園ヴィンゴールヴは、さながらハレムや後宮のような印象を持っていてもよさそうだった。

 ここに来るまでにかなりの遠回りをしたわけだが、ヘルヒヨトゥル以外に見つからずここまで辿り着けたのはその甲斐あってのものだろう。


 鏡と白銀の宮殿・ヴィンゴールヴを走り抜けていく。


「あ!!! ラズ姉様じゃないっすか!!」

「無視しろ」

「えっ?」

「ちょっと!! どこ行くんすか――って、え!?」


 途中、声のバカでかい女に見つかりそうになってしまったが、ラーズグリーズの冷ややかな指示に従って俺はポータルへと真っ直ぐ向かっていくことにした。

 光に包まれて周囲の景色が変わる。


 転送されたのは天穹陸の崖の近く。

 日の差し込まない裏庭へと出た。


「さっきのって」

「気にするな。ここでいい」


 あれはなんだったんだ……。


 ラーズグリーズは自分の手で車椅子を移動させると、定位置に着いてから何やらもそもそと呟くように詠唱を始めた。

 頭上とその背に黄色の光輪と羽根を発生させる。

 それが綺麗な色だなと思った。


 儀式の完了を待つ間、俺は崖の側に寄り足元を慎重に覗き込んでみることにする。思わず身が竦む。下にもよく晴れた青空が広がっていて、まるで天地が逆さまになったような奇妙な感覚を覚えることになった。


「よし。できたぞ」


 その言葉に体を起こすと、先ほどまでは何もなかった裏庭の中央にアーモンド型の立ち鏡のようなものが突如として現れていることに気付いた。


 人一人分が通れる大きさのワープゲート。実際は鏡として俺の姿を反射することはなく、そこには俺が誘拐された場所であろう路地が映し出されている。

 これを潜れば、俺は元の世界に帰れるはずだ。


「? どうした」

「いや……協力してくれてありがとう」

「礼を言う暇があれば早くホルンを救いに行け。徒労に終わらせるな」

「分かってるってうるさいな。違う、カーラには俺のほうがホルンのことを知ってるって返したのに、ここに来るまでの間であんたにホルンの話をしてやれてないなって思ったからさ」


 俺は尻ポケットから、ポリエステル製の袋に包まれたハガキサイズのカラー写真を取り出した。

 これはコンビニに俺が一人で向かう前、『欲しいものは?』と尋ねたときに『特にありません』と答えていたホルンのためにわざわざ印刷した三枚の画像だ。


 本当はホルンに渡すつもりだったが……ホルンの姉に手渡しする。


「これは……」

「あいつ元気でやってるよ」


 ラーズグリーズは三枚の画像を広げる。遊園地の観覧車のなかで撮った俺たち三人の写真と、クリスマスパーティーをしたときのケーキを頬張る彼女の写真。そして神社の前で着物を着た彼女を記念撮影させてもらったときの写真だ。


 俺はスマホでいつでも見返せるけど、ホルンにはそれができなかったから。


「そうか」


 ラーズグリーズはどこか嬉しそうに呟く。少しきつく思えていた吊り目の瞳も、いまだけは柔和な印象になっていて、俺も自然と温かい気持ちになれた。

 ワルキューレはみんなホルンの敵になったのかと思っていたから、彼女のような存在は頼もしく、嬉しい。


「じゃ、そういうことだから」

「待て。お返しだ」


 潜り抜けようとした矢先に呼び止められ、投げられたものをぱしっと受け取る。


「私のドラウプニルの欠片で作った。連携が取れるはずだ。嵌めておけ」

「いいのか?」

「ああ。私が内通者となろう」


 それは銀製の指輪だった。落とすわけにはいかないから、指の大きさを確認していそいそと左手の中指に嵌め込む。


「ホルンを頼む」

「任された」


 頷きあって、俺はゲートを潜る。膜を破って水のなかを通り抜けるような感覚。

 元の世界に戻るのは、実に簡単だった。


 周囲を確認する。

 俺が連れ攫われてからいくらか時間は経過しているみたいで、深夜の静謐な路地。振り返るともうそこにはゲートの痕跡がない。


「っ」


 俺は、急いでマンションを目指す――。

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