横浜市に到着したのはそれから十時間ほど経ってのことだった。
人間、八時間も集中力は持たない。長時間の運転は精神的にかなり磨耗することが分かった。
休み休み前に進み、予想していた到着時間よりも大幅に遅れて現在時刻は午後八時過ぎ。へとへとになりながらも、俺たちはいとこが住むオートロックマンションへと向かう。
こんな時間に訪問することになってしまって気が引けるが、もう後戻りはできない。以前、何故か教えられたことのある部屋番号をメッセージの履歴から確認してコンタクトを取ろうとしてみる。
インターホンの通話が繋がる。
『……あいぃ〜?』
非常に陽気で呑気な声が聞こえた。いとこの声であることに間違いはないが、様子がどうも変だ。酔っているのか? 厄介なことになるかもしれない。
覚悟を決めるように一呼吸入れて、要件を伝える。
「……急にごめん。俺、いとこの志久真なんだけど。ちょっと助けてほしい。泊まる場所と金がない」
反応は、すぐには返ってこない。
マンション入り口のインターホン、広角レンズとマイクの向こう側で、長い沈黙があることを感じ取る。
息を呑んでその回答を待ち侘びた。
『隣の子は?』
「俺がこんなことになっている原因」
俺がそう言うと、またも奇妙な間を置いて、音も立てずに入り口の扉が解錠される。これはひとまず迎え入れてもらえたと解釈していいのだろうか。
「行きますか?」
「行こう」
ホルンと頷き合った俺は、緊張した面持ちでエレベーターに乗った。
廊下を渡り、三〇四号室に辿り着く。
「ここだ」
意を決してチャイムを鳴らす。しばらく待ちぼうけを食らってしまったが、ゆっくりと重たそうに玄関扉が開くと、なかから肌着姿のいとこがぬっと飛び出した。
「シグシグぅ〜!」
「ちょっ」
がばっと抱きつかれて取り乱す。力強い抱擁に頬をずりずりと寄せられて、息が酒臭い。受け止められること前提のタックルに狼狽えながら、視界の隅でホルンがはぁっと口元を隠して息を呑んでいる姿が見えた。
ただでさえまんまるな目が余計に丸い。驚いている暇があったら助けてほしい。
「離れろって!」
「にへへ〜。よく来たねえウリウリ。ウリウリ」
「しッつッこいッ」
なんとか引き剥がす。呑んべいのようにたたらを踏んで離れ、壁に寄りかかる彼女の名前は
たぬき顔でウルフカットの茶髪と黒縁の丸メガネが特徴的な八歳上のいとこで、自堕落な生活を送っているらしいわりにウエストが細く愛嬌のある、美人だけど色々と残念な人だ。
彼女は舐め回すように俺の爪先から頭頂部までをじっ……とした目で見つめてくる。
「あのかわいいショタはどこへ……」
しみじみとした顔でじゅるっと缶ビールを啜るな。
昔と変わらない綾姉の言動に嫌悪感を覚える。いつまでも他人のことを子ども扱いしすぎである。
ホルンに合わせる顔がだんだんとなくなってくるような、そんな羞恥心に駆られて、彼女のことを鋭く睨み付けながら。
「んでぇ? 話って?」
「ここで話すのか?」
「あ、そうか……、え、でも入るぅ〜……? 突然だからぐっちゃぐちゃだよ、もう」
「いつものことだろ、覚悟してる」
そう言ってなかに入ろうとするけど、綾姉は玄関先に立ち塞がったままだ。酔っ払いだから話が通じているのか通じていないのか、分からなくてだるいものを感じる。
「ああ、でもやっと来てくれて嬉しい〜。おねーさんは嬉しいよぉシグシグ」
「シグシグ言うな。あともうビール飲まないで。悪いけど真剣な話があるから」
苛立ちを込めながらグイグイと綾姉の体を押して室内に入れてもらうことにする。ぜんぜん自分の足で歩むつもりがないのか、全体重を後ろに掛けてきながら缶ビールを呷る綾姉にムカついてくる。
一生懸命その背中を押し出しながら。
「ていうかさぁ、暗証番号教えなかったっけ?」
「アポなしで部屋のなかまで乗り込むわけがないだろ」
流石にそれは不用心がすぎる。
実は部屋番号をチェックしたときにもそれは視界に収まっていたのだが、俺にはモラルというものがあるので見ないふりをした。先ほども応答がなければ、綾姉に頼るのは諦めてそのまま撤退していたことだろう。
綾姉は警戒心が足りないし全てにおいて適当なので、周囲の常識人は割りを食う仕様にある。
こちらの気遣いや遠慮を露とも知らず、俺の発言を受けた綾姉はまるで揚げ足取りみたいに楽しげにこんなことを言い出した。
「そこだよそこシグシグ! 連絡もなしに女性の家に直訪問なんて、非常識だと思わないわけ〜?? わたしだって乙女なんだぞい」
「はっ? おいちょっと待て、こちとら何回も連絡入れてきたんだぞ! 既読も折り返しもしてくれなかったのそっちだろ!」
「うー。水没しちゃったんだから仕方がにゃい」
じゃあどうしろってんだ(怒)。
概ね、連絡がつかない理由は予想通りではあったが、てへぺろと舌を出して右手でごっつんこする綾姉のご機嫌さには素直に腹が立ち、乱暴にぐいっと押しのける。
つ、疲れる……! なんとかリビングに到着。
部屋のなかは暖房が効きすぎていて、妙な運動をしてしまったこともあっていまにも汗が流れ出しそうだった。
道理で綾姉は目に悪い肌着なわけだ。
「くっそっ……」
一難去ったものの、グチャア、と言い表す他にないリビングの様相を見て俺は次の試練を思い知る。
悪態を吐く俺に対して綾姉はどこまでも楽しげだ。
本人がぐっちゃぐちゃと評するように、決してゴミが散らばっているわけではなく、床に平積みされた文庫本や投げ出された雑誌や一度しか使われていないような美容器具やぬいぐるみや衣服や毛布などがしっちゃかめっちゃかになっているだけで、幸いにも部屋が不衛生すぎていたり汚いというわけではない。
ただ『だらしがない』の極致がここにある気がする。
「わ、私もやります」
「じゃあとりあえず端っこに全部寄せちまおう……」
赤の他人の部屋のことなのに、自ら名乗り出て協力してくれる心優しいホルンに涙を禁じ得ない。
一緒になって俺は床に散らばったありとあらゆるものを部屋の隅にひとまとめにしていく。
綾姉はローテーブルの上に缶ビールをことりと置く。その隣にはベコベコの空き缶が三つ、広げられたコンビニおつまみが数種類。酒盛りの真っ最中だったのだろう、早く手伝いに来てくれよ家主。
不服の意を半目で睨みながら訴えていると、タブレットを操作していた綾姉はその画面をずいと俺に見せつけてくる。
「その女の子。この女の子?」
それは高速道路上で撮影されたと思われる、ホルンと襲撃者との戦いを収めた約二十秒ほどの短い動画だった。
「ど、どうしてこれを」
「いまバズってる一番ホットな映像だから」
酔いが回っていながらも、丸メガネの奥には理知的な瞳の色を浮かべた彼女が得意げな表情になってそう語る。
俺たちを迎え入れてくれたときにはすでに気付いていたのだろうか?
インターホン越しに一度見ただけ。映像だって解像度が高いわけじゃない。どうしてこの短い時間でそこまで気付けたのか、その洞察力には面を食らうものを感じながらも、神妙な面持ちになって頷く。
「……その通りだ」
「ふっへへい、やっぱり。いいよいいよ、聞かせてみんしゃい。おねーさんに」
にへらっと表情を崩した彼女が、どかっとあぐらを掻いて上座に座る。顔を見合わせた俺たちは掃除もそこそこに、おずおずとその対面に並んで座った。