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第22話 雪の降る街

 ……サイドガラスの修理にかかる費用はだいたい三万円。交換となると、十万近く請求されてしまうことも。

 悲しいかな、そんなお金は捻出できない。

 透明なビニールとガムテープで応急処置をすればひとまず違反になることはないみたいなので、それだけでも手は施したいところだが、あいにくとサービスエリア施設内では補修用の物品を買い揃えられそうになかった。


 一度考えるのを放棄するように、座席を倒して仮眠を取ることにする。

 誰もが寝静まるような夜。一人俺はなかなか寝付けずに苦労していたら、後部座席で横になっていたはずのホルンがおもむろに声を掛けてきた。


「……ぐま。しぐま」


 体を揺すられて薄目を開ける。「ん? どうした?」と頭を持ち上げながら尋ねると、ホルンは言葉を選ぶように、躊躇いがちに口にした。


「付いてきてくれませんか?」

「んん?」

「その、もう我慢できなくて……」


 カアア、と薄暗闇のなかでもホルンが顔を赤くして俯くのを感じ取る。その恥じらった態度に意味深な言葉、なんとなく察してしまうものがあって、肩透かしのような気分を味わった俺は思わず項垂れた。

 苦笑しながら受け応える。


「はいはい」

「ありがとうございます……!」


 ということで下車。疲労感からおぼつかない足取りで自立する彼女の手を取って、俺たちは一緒に歩いていくことにする。


 夜のサービスエリアは静まり返っている。共鳴するようなトラックや普通乗用車のアイドリング音。それだけが車内に人がいることを表しているようで、余計に誰しもがお互いの邪魔をしないよう、音を立てないように気を遣い合っている静けさがあった。



 しかし、まさか公衆トイレへの付き添いをお願いされる日が来るとは。



 以前ホルンの心の扉をゲームの好感度や絆システムとして例えたわけだけど、先の一件を経てより一層距離感が近くなったような気がする。まあ、あれほどの出来事を乗り越えて関係が変わらないまま、というのもおかしな話だが、それにしても。


 足の痛みもあるんだろうけど、俺の手を支えにして寄りかかるように体重を掛けてくる彼女は、随分と俺に信頼を寄せてくれているみたいだった。


「俺はなかに入れないから、ここで待ってるよ」


 そう言って足を止めると、ホルンが一瞬だけ心細そうな顔を浮かべたあと、素直に女子トイレに入っていく。見届けた俺は少し離れた屋外で彼女の帰りを待つことにした。


 ……しかし、肌寒い。

 最近、ますます気温が低下しているのを感じる。風邪を引かないようにだけは気を付けないと……。


 屈伸をしたりして時間を潰しながら過ごす。

 十分ほど待ってみても、ホルンが出てくることはなかった。


「流石に遅すぎるだろ」


 思わず独り言ちる。大丈夫か? なんだか心配だ。

 イライラと不安がせめぎ合う。ホルンの様子が気になるが、見に行くことも連絡を飛ばすこともできない。

 手をこまねいていると、偶然サービスエリア施設内から退店する若い女性の姿を見かけた。一か八か、声を掛けてみる。


「すみません」


 夜遅くに見知らぬ異性の男から声を掛けられるなんて思いもしていなかったんだろう、ギョッとして怯える女性の態度に心の底から申し訳なく思いながら、慎重に要件を伝える。


「俺は斉藤志久真って言います。えと、十分くらい前に妹をトイレに連れて行ったんですけど、全く出てくる様子がなくて……。代わりに見てきてもらうことってお願いできませんか?」

「あ、ああ、それなら……」

「よかった、ありがとうございます! 妹はホルンって言います」


 深々と頭を下げてお辞儀する。女性は困惑した様子だったが、誠心誠意頼み込む俺の姿を見てなんとか引き受ける気になってもらえたみたいだ。

 ひとまずはこれで安心できる。


 放っておくと、色々な憶測が俺の不安心を駆り立てようとしてくる。

 嫌な冷や汗を拭いながら待った。



 ――それからしばらくして、ホルンは女性に支えられながら姿を現した。痛む片足を庇うように跳ねて歩む彼女の様子を見かね、俺は一目散に駆け寄る。


「ホルン!」

「すみません、立てなくなっちゃって……」

「妹さん、足を捻ったのか、個室で動けなくなっちゃってたみたいです」

「すみません助かりました! ありがとうございます……!」


 女性の負担になってしまっているので譲り受ける形で今度は俺がホルンに肩を貸す。俺もホッとしたが、女性も特に事件性はなかったことに安堵してくれたみたいで笑みを溢していた。


 心配をかけた自覚がないせいか、照れ隠しのようにはにかむホルンが気の抜けたことを言う。


「連絡が取れないって不便ですね」

「本当だよ、待たされるこっちの身にもなれ」

「すみません……」


 表情のやわらかいホルンが軽めに申し訳なさそうにする。

 俺はやれやれと首を振りながら、改めてホルン共々、深々と頭を下げてお礼の言葉を口にした。

 心優しい人がいてくれてよかった。

 女性とは短く手を振って別れ、ホルンに向き直った俺はその額にデコピンを放つ。


「あたっ」

「心配させた罰な」

「すみません……」

「深夜の屋外で待ちぼうけって、肌寒い以上に怖いんだぞ、マジで」


 すりすりとホルンが赤くなった額をさする。やっぱりその顔はどこか明るげで、それほど悪いとは思っていない感じだ。

 上機嫌な理由が分からず、呆れたようなジト目を返しながら、俺は「ほら」と声を掛けしゃがみ込み、背を向ける。


「……いいんですか?」

「歩けないんだろ、連れていくよ」


 おずおずと、ホルンが俺の背に跨る。車までおんぶをして彼女を連れていくことにした。


「……はっ、恥ずかしいですね、これ……」

「お前のせいだよ」


 背負われてようやく羞恥心が芽生えたのか、今更なことを言うホルンに俺は冗談まじりにそう言い放つ。ホルンは何も言い返してこなかったけど、抱える彼女の脚にグッと力が入ったから、その感情はありありと伝わってくるようだった。


 ホルンは軽いから、背負っているのはそれほど苦にならない。仮眠中の車のほとんどはサンシェードを降ろして目隠しをしてくれているから、視線がないことが特に助かっている。


 とぼとぼと駐車場を歩いていると、ふいにホルンが「あ」と口にする。


「しぐま、雪です、雪」

「はっ? おいおい嘘だろ」


 緩やかにしんしんと舞い落ちる冬の花弁。思わず足を止めて手のひらを差し出してみると、その雪の結晶はじんわりと肌に染み込んできた。


「わぁ……」


 ホルンは見惚れたようにそう口にした。

 ……いやいや、雪が降ったらたまったもんじゃない。


 感動しているところ悪いが、急いで俺は車を目指すことにする。急な俺の発進に驚いたホルンは、首に手を回して密着するように抱きついてくる。

 そのことにもなんだか不利なものを感じながら。


「……ふふっ」


 頭上から、ささやかに笑い声が聞こえた。


「何笑ってるんだよ、ホルン」

「いえ、なんでもないです」


 そう言ったホルンが、甘えるようにその頭を俺の首の後ろに当ててくる。なんだかむず痒い。


「帰ってきてから、なんか変だぞ、お前」

「そんなことないです」


 いいや、絶対に変だ。

 妙な態度のホルンを訝しみながら、俺たちはこの長い夜をようやく終えることとなった。

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